旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

東海道紀行11 島田宿~金谷宿~日坂宿~掛川宿

2019-03-31 | 東海道紀行

10:20「島田宿」 00:00:00
 1ヶ月ぶりの島田宿。今日は青春18きっぷでコトコトやってきたので、歩き出しは遅い。
島田駅前には『さみたれの 空吹きおとせ 大井川』の句碑、芭蕉は4日この地に逗留した。

3つの本陣跡を過ぎると "若竹" の大村屋酒造場、天保3年創業の蔵元は宿場の華だ。 

枡形になっていた西木戸跡あたりに大井神社が在る。
三柱の女神を祀る神社は島田宿の鎮守。 拝殿前には奇祭「帯まつり」の大奴の像がある。

Navi50 島田市博物館標識(斜め左) → <市道> → 大井川堤防T字路 0.8km 

 

突如現れたのは褌姿の川越人足。往時はこうした人足に肩車されて大井川を渡った。
川札を売る川会所の周囲に人足宿が復元されている。十番宿もそのひとつ。
陽に焼けた屈強な人足が煙管を吹かす姿はあまりにもリアルだ。 

10:50「大井川」 00:30:00
 川会所を過ぎるとほどなく大井川の堤防に出る。
ご存知大井川は徒歩渡し。水深が四尺五寸になると川留めになった。
川留め直前の「脇通り(人足の脇の下の水深)」で川札は九十四文、4,000円程になる。

Navi51 大井川堤防T字路(右折) → <県道342号> → 大井川橋東交差点 0.6km

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」は、東海道中最大の川渡りの難所
我々は徒歩渡しする訳にいかず大井川橋へ。此の橋全長1,000m、やはり難所だ。

Navi52 大井川橋東交差点(左折) → <県道381号> → 東町交差点 1.0km
Navi53 東町交差点(左折) → <市道> → 日新工業(旧東海道標識) 0.2km

Navi54 日新工業(右折) → <市道> → 金谷一里塚跡 1.2km

大井川を渡ると、金谷側にも人足の番屋があった。八軒屋と云って公園になっている。
八軒屋を過ぎ、大井川鉄道の踏切を越えると、往還橋で大代川を渡って金谷宿に入る。

12:00~13:00「金谷宿」 01:40:00
 本陣3、脇本陣1、旅籠51軒、難所大井川を控えて大きな規模の金谷宿も今はひっそり。 
柏屋本陣跡はJA大井川 金谷支店になっていて、大きな木製の立札がある。

 

広重は「金谷 大井川遠岸」で、やっと川越を終えようとする大名行列を描いている。
山の中腹に望むのは金谷宿だ。
ちなみに「島田 大井川駿岸」では、大名行列の渡河準備の様子を描いた。

Navi55 金谷一里塚跡(左折) → <市道> → 旧東海道石畳入口 0.4km

Navi56 旧東海道石畳入口(右折) → <旧道> → 明治天皇御駐輦阯 0.8km

 

今日の街道めしは「meguri 石畳茶屋」、趣向を変えてカフェテラスでランチ。
"焼きたてパンとカレーセット" をヘルシーにいただいて、息子は "苺のタルト" を。

 金谷坂の石畳は、明治期に舗装されて面影は失われた。
1991年、町おこし事業「平成の道普請・町民一人一石運動」で江戸時代末期の姿に復元。
約7万1000個の滑らない「山石」を敷いた430mの石畳の道だ。
石畳の中腹には「すべらず地蔵尊」が祀られ、今では合格祈願の名所となっている。 

Navi57 明治天皇御駐輦阯(斜め右) → <市道> → 菊川坂標識 0.4km

Navi58 菊川坂標識(県道234号を横切り直進) → <旧道> → 菊川坂登り口標識 0.9km

Navi59 菊川坂登り口標識(斜め右) → <市道> → 四郡の辻標識 0.6km

13:25「間の宿菊川」 02:05:00
 菊川は中世に栄えた宿場で、源頼朝も宿泊したと云う。
東海道の宿場には指定されずに間の宿となり、茶屋本陣が置かれた。

Navi60 四郡の辻標識(左折) → <市道> → 事任八幡宮前交差点 4.7km

牧ノ原の茶畑の中、青木坂を登る。小夜の中山最大の急坂はきつい。
この辺りの茶畑は、幕府崩壊で窮乏した旧幕臣、大井川の架橋で失業した人足が開拓した。 

 
 

13:50「久延寺」 02:30:00
 息も絶え絶えに青木坂を登り詰めるとピークに久延寺、門前の桜が清々しい。
たった1軒残った峠の茶屋「扇屋」で名物子育飴をいただく。
大麦ともち米だけでつくられた、透き通った琥珀色が美味しい。疲れが引いていく。

 小夜の中山は、歌枕として古今集や新古今和歌集で謳われ、歌碑が点在する。
茶畑の緑が、南アルプスの白い峰々を遠景に美しい。がしかし、この下り坂もきつい。

 

日本橋から五十六里目の佐夜鹿一里塚跡、塚木は松と榎だったと云う。
あれっ、金谷一里塚は五十三番目。つまり五十四里目、五十五里目の一里塚は存在しない。

広重の日坂宿は佐夜の中山を描いている。この厳しい山道を巧みに表現している。
やがて沓掛坂と云われる七曲の急坂を下ると日坂宿に入って行く。

14:35「日坂宿」 03:15:00
 馬蹄形をした日坂宿に入って行く。本陣扇屋が四脚門を残している。
宿場の規模は本陣1、脇本陣1、旅籠33軒の最も小さな宿のひとつだった。 

 

問屋を務めた藤文、旅籠の萬屋、川坂屋が残る。家々は屋号を掲げ、往時を偲ばせる。

 

京方の木戸跡に高札場が復元されている。秋葉山常夜燈に見送られて日坂宿を後にする。

Navi61 事任八幡宮前交差点(右折) → <県道415号~国道1号> → 本村橋交差点 4.3km

15:00「事任八幡宮」 03:40:00
 事任(ことのまま)八幡宮は、己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)を祀る遠江國一の宮。 
願いを「ことのままにかなえてくれる神」と、清少納言の枕草子にも書かれている。

Navi61-2 八坂IC交差点先(斜め左) 650mで県道415号に戻る

15:20「伊達方一里塚」 04:00:00
 伊達方一里塚は日本橋から五十七番目の一里塚。この辺りは伊達氏の知行地であった。 

Navi61-3 東山口小学校前(斜め左) 400mで県道415号に戻る

Navi62 本村橋交差点(斜め左) → <市道~県道37号> → 二瀬川交差点 4.0km

16:00「葛川一里塚」 04:40:00
 馬喰橋で逆川を渡ると葛川一里塚跡、日本橋より五十八里目、秋葉山常夜燈が建つ。 

 

創業200年の菓子処もちや、"振袖餅" が名物だが、さすがにこの時間では売り切れ。
代わりに 大福をパイ生地で包んだ "もちパイ" で一息、ここは現代の茶屋なのだ。

 

Navi62-2 酒処いろは先(左折) 100m

鉤の手に幾つも曲がる「新町七曲」、容易に敵を進入させないための構造だ。

Navi62-3 TAP予備校(右折) 100m

Navi62-4 秋葉山常夜燈(左折) この後、道なりに右折、左折して400m

「新町七曲」の途中に桝形が設けられている。ここに掛川宿東番所が置かれた。

Navi62-5 塩沢機械店(左折) この後、道なりに右折、左折して100m

Navi62-6 シミズ写真館(右折) 90m

Navi62-7 桂花園(左折)

16:35「掛川宿」 05:15:00
 宿並に入ると右手にお城を模した信用金庫が見えてくる。
その先連雀交差点から右奥に勇壮な構えの掛川城大手門、掛川桜は未だ蕾のようだ。

掛川宿の規模は本陣2、旅籠30軒、残念ながら宿場を偲ばせる旧い遺構は残っていない。
連雀西交差点の東西に在った本陣、西側の沢野屋本陣跡はなんと屋台村になっている。
中町交差点の清水銀行には、山内一豊と千代、持参金で買った名馬のレリーフがある。 

 島田宿を遅く発った春の日、越すに越されぬ大井川を渡って金谷宿へ、
いにしえの歌人が和歌に謳った小夜の中山、登り下りして日坂宿を巡り、
東海道を歩く第11日目は掛川宿まで所要5時間15分、旅路は駿河から遠州に入った。

島田宿~金谷宿~日坂宿~掛川宿 17.4km



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