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戦国夜話6

2014-03-18 07:29:51 | 歴史
"英雄" ー という言葉についてここで一度触れておこう。

いつの時代であれ、英雄、あるいは英雄視される存在というものは居る。



彼らに共通するモノは、絶対的に人を惹きつける魅力、圧倒的な実力と行動力、それを裏打ちする勇気や精力や野心。

あるいは明晰な頭脳であったり、鋭い直感だったり決断力だったり、良く陶冶された人格であったりする。

およそ世にある娯楽の中で "人間" を観るものほど楽しいモノは無い。
と、いうより絵であれ、小説であれ、映画だろうが、スポーツだろうが、その内容そのものを純粋に楽しむモノなど存在し得ない。

全て、そこにある "人の行為" を人間は見ているものである。
この構造があってはじめて "英雄" という存在を常に求める社会心理が成り立つのであろう。

だが、実際は英雄、もしくは英雄的、とされる人間なんて周りにいる者たちにとっては、振り回されるばかりで迷惑なだけであろう。

つまり日常的世界には必要の無い存在だということである。

それを敢えて必要としなければならない "時" がある。
即ち "非日常的時代" である。

それは乱世であったり、変革期であったりするわけだが、この "非日常性" は常に人間の心理として欲せられるモノでもある。当然その背後には "日常" からの脱出というたゆまざる欲求がある。

従って平穏無事な時代であっても、英雄的な人物は大小の差はあれど常に生まれ、また生まれては消えていく。

歴史というものは紛れもなく、人の行為の集積であり、そこには「人は人を観ることが好きな生物である。」という原理が息づいている。

そうした歴史的視点でみると英雄たちの器の大小というものも明快になる。
( これを世界史的な視野にまで広げると、日本の英雄との質の違いが出てくるので、ここでは日本に限って考えている。)




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