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思考の踏み込み

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ブッダ13

2014-05-19 01:07:23 | 
ー ならばお前も何も書かなければいいではないか。
中途半端な情報の出し惜しみなどするな、という批判は甘んじて受けよう。

その理由はすでに10で述べた。
だが、それも言い訳かもしれない。
D先生の事について書きたい衝動を抑えきれなかったというのが本当のところである。

だがこうしたことは繰り返されてきた事でもある。

ブッダも文字に何も残しはしなかった。それは本当の真理は口から伝えなければ伝わらないということを識っていたからだ。
(拈華微笑の逸話はそうした底流から生まれたのだろう ー 。)



言葉と文字は同じ内容でも、必ずしも同じ働きをしない。賢い者はそのことを識っていて昔から日本でもあらゆる技芸において最高の奥義は不立文字、口伝で行われた。

神道における "言挙げせず" という教理などはその極地であり、深い叡智の顕れといえる。

孔子もこの点で同じことが解っていた。だから「論語」は "子曰く~" (孔子先生はこう語られた…) で始まる。

仏典における "如是我聞" も同じである。
「私はかくの如く聞いた…」から始まるブッダの言葉の記憶の収集、それが初期仏典の姿であった。

それはそう語った人々が、意図して文字に残さなかった証だろう。
マニ教の開祖マニは、シャカが著作を残さなかったから、正しい教えが残らず仏教はインドで衰退した、と批評したようだが、いずれが賢明だったかは歴史が証明している。

マニ。

仏教はインドではともかく世界中に広まっている。が、マニ教はこんにちほぼ消え去っている。

D先生の態度もこの系譜と同じであろう。
であるならば我々の様な普通人が、Dの曰く…と少しくらい書くことは許されてもいいのではないかと、勝手に思っているが、できる限りその態度に沿う様にありたいとも思う。

今回はその範囲内で許す限りを書いて見たいが、以上の理由で "D先生" で通させて貰う。
それに、本当に求める人はここでなくとも、D先生に辿り着くことはできるだろうと思うからでもある。

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