ロシア日記

~ペルミより愛を込めて~
日本語教師と雪のダローガと足跡

~サンクトペテルブルグ~
雪の上の足跡

再会の街

2017年06月05日 | 日記
  パーシャとはいつもネフスキープロスペクトにある大型書店ドム・クニーギの前で待ち合わせ、その時にパーシャは必ず葉書を買います。今日選んでいたものは、橋を渡った先のビルジェバヤ広場の赤い塔が描かれただけの寂しげなもので、どう思う?と聞かれたので、淋しい、と答えました。

  私のここでの友達はリョーシャと孤独が大半でしたが、パーシャが仕事先のシベリアから帰って来た時には、詩やロシア語を教えてもらっていました。彼は石油関係のエンジニアで仕事の時は1か月間、石油地帯に赴き、任務が終わればまた1か月こっちに戻ってくるという生活です。日本でロシアのことを何も知らずに夢見ていた頃、石油の掘削員なんて聞くと空一面に星空が見えるようなだっだぴろい零下何十度にもなるようなシベリアの奥地で土臭い男たちが力強く仕事に精を出している絵図をロマンチックに思い描いていたものですが、今回会ったパーシャの苦悩に満ちた顔から読み取れるのはそれとはまったく違うものです。

  ジプシーみたいな生活なんだ。トレイラーで暮らして低水準の生活だよ、と。
それに一か月ごとに行き来する生活はもうしたくない、とも。
だけど今の現状では行き着く先がない、自分の上のポジションは一生シベリアの奥地でデスクワーク仕事になるけど、それに一生を費やしたくない。
エンジニアで英語もできるからいいね、と言われるけど実際仕事を探したらどこも自分を必要としない。
フィールドを変えたいと思うけど、自分は石油関係の仕事の経験しかないから、プログラマーの分野に移動するにしても経歴がないからなかなか雇ってもらえない。ディプロマを取るために大学に入り直そうかと思って調べたら年間の学費は400,000ルーブル(80万)する。今の仕事を続けながらお金も溜めて大学院に何年も通うことになる。
ロシアは大学は無料なんじゃないの?と質問したら、一校目は国費で行けるけど、二校目以降は自分で払わなきゃいけないという答えが返ってきました。そして、本当にどうにかしたいと思っている、と言いました。
  初めて会った時、青年のようだった彼の顔にも暗い苦悩の影みたいなものが見て取れて人生の厳しさを感じました。なんで石油関係のエンジニアを選んだの?と質問したら、毎日、学校に行って帰ってきてただけの男の子がある日突然、仕事を選べと言われて先のことまで見通せるか?という答えが返ってきました:)

                   ♧

  話は政治にも及んでプーチンの話題になりました。
話はこうです。2000年から2008年、初めてプーチンが大統領に就いた任期中、ロシア経済は石油の恩恵で空前の潤いとなりました。人々の生活水準は向上し物価も高騰しました。その後、リーマンショックが起き世界中が経済混乱に陥った後、ヨーロッパやその他アジアの国はそれを乗り越えました。けれどロシアのお金はすべてプーチンのポケットマネーとなり、石油価格は暴落し経済は今でも低迷したままです。そんな中、プーチンの莫大な資産は海外の銀行に預けられ子供たちもすべて海外で生活している。いつ何時政変が転覆しても亡命できるようにに逃避先を確保しているわけです。一国の大統領としておかしくないか?と彼は言います。
  また、ロシアの腐敗した官僚制度と賄賂、汚職、縁故雇用などにも話は及び、プーチンが独裁者として17年間も君臨しなければ、ロシアはバルト三国のように今までとは違う道を行く可能性だってあったのに、彼が全部潰してしまった。その間にBricsと呼ばれた中国が経済的に発展してインドでさえロシアより経済成長率がいい、ロシアは2017年ここ最近で最低の経済成長率だ、とパーシャは言っていました。

  私はロシアの現状に興味があるから聞いていて楽しいけど、彼にとっては他人事ではありません。私がロシアを去る決心をしたのも経済的問題が大きいからです。流暢に英語を操る彼も一度も海外へ出たことはありません。私がこの半年、働かずにここで暮らして、これからイギリスの大学院に入ることも彼の経済状況からはとても考えなれないことです。経済のことだけを言えば、国によって通貨価値も違うし、生活水準も違うし、それによって与えられるチャンスも違ってきます。お金で得るチャンスもあれば、お金がないから逃すしかないチャンスもたくさんあります。

  私がパーシャに言えたのは、数学や物理が好きな数字に強い理系の頭はラッキーなんだから、それに語学もできれば語学はただのツールとして使って、スペシャリティを持っている理系の頭は最強なんだから、私はいつも理系の頭に憧れている、だからそれを活かして、と。

  パーシャとは駅で別れました。
もうこの先、私がロシアを訪れない限り会えないかなと思うと胸が切なくなりました。ロンドンの住所が決まったら教えて。葉書を送るよ、と言ったので、choose a nice oneと言って別れました。

マヤ

2017年06月05日 | 日記
  サンクトペテルブルグでテロが起きたことはここでの生活の悲しい出来事の一つでしたが、その少し前にもう一つ心淋しくなることがありました。行きつけのアゼルバイジャン店で出会った3年前の頃から働いていたマヤがサンクトペテルブルグでの生活を切り上げて故郷のウズベキスタンへ帰って行きました。
  通常、ウズベキスタンやタジキスタン、カザフスタン、トルクメニスタンなどの中央アジア出身の労働者は故郷の経済状況が悪いことが理由でロシアへ出稼ぎにやってきます。そして大概、カフェやスーパーマッケトの店員、掃除員、土木作業員などのブルカラーの仕事に就きます。3年前に石油価格の大暴落が起きてからロシア国内は一段と景気が悪くなり、人々の生活も苦しくなりました。ロシア自体の経済状況も決していいとは言えない中、ここに出稼ぎにやってくる国の経済状況はさらに悪いのだろうと推測できます。

  ロシアが石油で潤い始めた2000年から2008年の時点で月の給料が1000ドルを超えたら中産階級の仲間入りとされました。これはロシアの中の外国と呼ばれるモスクワの統計も入っているので、モスクワ以外に住む人々の月額を見ると更に低くなります。ロシア第二の都市であるサンクトペテルブルグの平均給料は30000ルーブル(6万円)です。70000ルーブル(14万円)で高給取りと言われます。カフェの定員の時給は2,3ドルと言われ、人口50万以下の小さな街では10000ルーブル(2万円)の月給らしいです。その割には、物価はコーヒー一杯120ルーブル(240円)、カフェラテ200ルーブル(400円)程度とその他の日常用品も含め日本とあまり変わりません。ちなみに年金は10000ルーブルから25000ルーブル(2万から5万円)です。
  以前、共に働いていた同僚は、ロシアはG8に入ったりしてるから大国と思われるけど、実際はまったくそうじゃないのに援助も受けられずに困ると言っていました。私自身もいつもロシアに来てロシアの人々を見るたびに、いったいどうやって暮らしているのか不思議に思います。けれど親しい人とのちょっとした会話の舌に上る言葉の本音から生活の苦しさが垣間見れます。

  マヤが故郷のウズベキスタンに帰る決心をしたのもそんなことがきっかけで、生活の向上を思ってサンクトペテルブルグに出てきたけれど朝から晩まで働いてわずかな賃金をもらい、カフェの店員では一人で部屋も借りることがままならないという状況の中、旦那さんが出て行ったあと彼女はここに住む意欲を失ったんだと思います。青空も見ずに働きづめで疲れた、と言っていました。
  マヤの話を聞き、ロシアの大変な経済状況を肌で感じ、私がここを引き上げるよりも先にマヤがいなくなることがショックでした。こういう状況を目の当たりにするといつも、先進国に生まれるということとその反対、国の経済力が強いということと弱いということ、お金があることとないことの違い、人々が生活していくということ、日本に生まれた自分とロシアに生まれるということ、人生の厳しさなどを考えさせられます。

  以前見た番組で、チュニジア出身の女性がアメリカ人に対して「強い国に生まれたということは本当にラッキーなことなのに、アメリカ人は何時間もテレビの前に座ってバラエティ番組を見て時間を過ごすと聞きました。どうしてそんなことを?」と言っていたのを思い出します。「私はアメリカのことをよく知っている。あなたたちの文化も音楽も知っているし、英語だって精一杯話している。あなたたちは私のチュニジアという国のことを知ってる?」と。

  濃い化粧のシャム猫のような目をしたマヤは今頃どうしているかな。6月初旬のこの季節の故郷は辺り一面花が咲き乱れ、それは空港に降り立ったときから街中が花の香りで匂い立つのだと言っていました。

マイフラット

2017年06月04日 | 日記
 長年海外に暮らしている友達が、意外と撮らない自分の部屋や近所を写真に収めておいたほうがいとアドバイスしてくれたので、これも自分の記憶のために写真を載せておきます。

 Air bnbで探したセンター内にあるワシリスキー島にあるフラットです。ひと月の家賃33000ルーブル(66000円)は外国人価格です。一般的にロシア人はひと月18000~24000ルーブル(36000~48000円)のところに住みます。これらはセンターを外れた住居が主です。土地勘がない外国人が地元用住居を探すのは一苦労です。インターネットでニセの不動産なども出回っていてネットにオーナーと直接繋がらない用に電話番号の一部を隠してあるのは要注意です。電話番号代のためにお金を払ったらそのままぼったくられます。

 私は、今回は3か月しかないという制約もあったのでリスクと手間を考え、外国人用サイトのAir bnbで探しました。今、新緑の季節になり、毎朝ブラインドを上げるたびに白樺がキラキラ瞬ていています。

すぐ隣に蜂蜜屋さんがあります。





ロシア語留学

2017年06月04日 | 日記

 もっぱら自分のために書いてるこのブログですが、ちょっとは世間のためにも役立てようと思いロシア語留学の仕方について説明しようと思います。英語などと比べてロシア語はどうやって留学すればいいのか迷う方もたくさんいると思います。

大まかな概要と私の経験と感じたことも書いていきます。

まず、方法は2つあり、旅行会社を通すのとまったく機関を通さず全部一人で行う方法です。

① 旅行会社経由
ロシア専門のJICという旅行会社があります。
http://www.jic-web.co.jp/index.html

 こちらがロシア語留学も扱っています。JTBなどの一般的な旅行会社はロシアのビザ取得方法もわかっていなかったりするので、ロシア・旧ソ連国へ行きたい場合はよく事情に精通した専門の旅行会社が断然お勧めです。

 語学学校と個人の仲介に入ってくれるので安心です。見積書も全部出してビザ申請手続きもしてくれます。
ロシアの事情にあまり精通していない方はこちらの方法をお勧めします。そうじゃないと語学学校自体、懇切丁寧に次の指示を出してくれるというわけではないので、受け身姿勢だと手続きが一向に進まない場合もあります。ロシアに何年か住むとある程度勘のようなものも働いて次になんかあるなと直感して自分から質問したり動いたりして事がうまく行くということが多々あります。
一度、初期のビザ手続きの際にその日たまたま事務所に手続きに行ったら九死に一生を得るぐらいの感じのことが起きました。あと一日遅れたら大変なことになっていたと言われたのですが、そもそもその日に来いとも指示されずに、偶然に自分で動いた結果でした。そんなに大変なことになるのなら来る日を指示してくれと思ったのですが、そういうのは言っても無駄なので自分の幸運に胸をなでおろすだけです。


② 個人手続き方法(以下の二つの語学学校はサンクトペテルブルグに位置しています)

私は下記のRussian Language and Culture Institute(サンクトペテルブルグ大学)に留学しました。この内容を書いていこうと思います。

下記のメアドに直接メールを送る。英語で大丈夫です。

1、Russian Language and Culture Institute(サンクトペテルブルグ大学)

St.Petersburg State University
11 naberezhnaya Leitenanta Shmidta, office 307 (3rd floor)
199034 St.Petersburg, Russia
Tel.: +7 (812) 327-79-55
Fax: +7 (812) 327-79-88
E-mail:
info@rlci.spbu.ru
Internet: http://www.russian4foreigners.spbu.ru
Meet us at Facebook: http://www.facebook.com/RussianLanguageandCultureInstitute

 国立なので仕事もお役所的な具合で返信はだいたい2,3日後です。2017年時点で一年間まで有効のビザがおります。ビザ取得は、大学に申しんで承諾返事が来てそれから1か月半ぐらいかかります。その間、学校から進捗情報などは自分から問い合わせない限り一切来ません。
空白も含め全パスポート50ページ分ぐらいをコピーして提出する必要がありました。3,000ルーブル(6000円。高い…)払えばこのめんどくさい手続きをしてもらえると聞きました。ちなみにロシア語検定試験も500ドル払えばもらえるとも聞きました。賄賂文化です。

 学費は、4週間35820ルーブル(約7万円、2017年6月時点)
ぼったくられるかなと非常に警戒していたのですが大丈夫でした。おかしいのがカードが使えず現金一括払いです。

 授業は、週5日、一日2コマ3時間、午前、午後の部があります。レベルに寄って振り分けられます。一クラス約10人前後です。クラスはレベルによってかなりフレキシブルに移動できます。

2、Derzhavin Institute (デルジャービン・インスティトゥート)
http://www.derzhavin.com/en/
lingv@derzhavin.com

 民間なので、対応が早いし丁寧です
ただし、民間語学学校は現時点(2017年6月)で3か月のビザしか発行されません。そのため一時帰国してビザを取得し直すことが必要だと言われました。この規定はロシア政府の意向により年と場所に寄って変わったりするので注意が必要です。これが理由で私は上のサンクトペテルブルグ大学付属の語学学校へ行くことに決めました。

 先生が授業の合間にしてくださったソ連時代、外国の情報が載っている発刊禁止の雑誌を隠れて読んでた、危険だから一夜で読み終わらなきゃいけなかったという話が記憶に残りました。


写真は、夏の庭園。

OQJAV

2017年06月04日 | 日記
 OQJAVというグループののコンサートへ行ってきました。
男女3人混合のバンドで宣伝音楽を聴いたときに、彼らの音楽の不思議な雰囲気に惹かれました。
会場は、私が住むバジリスキー島にあるERATAという新鋭クリエイターのための発表の場として作られたミュージアム内で行われることを知り、20分くらい歩いて行ってきました。夜8時でも明るくピンク色の空が綺麗でした。
 音楽も良かったし、帰りにどうしても一杯飲みたくなり以前から気になっていた家の前のバーでJamesonを飲みました。


彼らの曲

https://www.youtube.com/watch?v=HvGsbZ1e2sw






レニングラード封鎖

2017年06月04日 | 日記
 5月9日は大祖国戦争(独ソ戦)の記念日でした。
街の人々はこの記念日をオレンジと黒のリボンをつけドイツに勝ったことに対して祝います。第二次世界大戦の敗戦国である日本出身の私には戦争に勝って盛大にパレードをしたり祝ったりする気持ちが長い間わかりませんでした。戦争は悲惨なもので勝っても負けても祝賀の対象になり得るものじゃないと思っていたからです。
けれどそういう気持ちが今年は少し変わり、ロシアの歴史を知った後、理解できるようになりました。援軍もなくドイツ軍と一国のみで戦い抜いたロシアの誇りと、またこのサンクトペテルブルグはこの時代レニングラードという街名だったのですが、ドイツ軍により包囲され食料も燃料も経路がすべて断たれ人々は約900日間レニングラードの街に生き埋め状態になったのです。おびただしい餓死者がでて人が街角でバタバタと倒れていきました。私も時々この街を歩きながらそれを思い出し光と影のあるすごい歴史を持った街だと再確認します。今ここに住むサンクトペテルブルグ人の中で家族の誰かはこの時の被害者で体験者だったり亡くなったりしていると聞きました。

 ストラヴィンスキーが亡命先からが祖国を想い曲を書き、それを空からこの街に落としたそうです。指揮者、演奏者も飢餓で死にそうになりながらオーケストラの演奏をし、それを知ったドイツ軍がこんな悲惨な状態になりながら人間の尊厳を失っていない人々に感動しこの街に爆弾を落とせないと思ったという逸話を聞きました。


 そのレニングラード封鎖が解かれたのは、戦勝記念日の数か月前ですが、人々はこれを祝してピスカリョフ記念墓地を創りました。
ある晴れた日、私も敬意を表すために郊外にあるこの墓地へバスを乗り継いで行ってきました。それは街から外れただだっ広い土地にあり、近くの花屋で献花のための花を買いました。戦争を耐え抜いたことへの敬意だしあまり派手な色の花じゃないほうがいいかなと思い紫のチューリップを買いました。行ってみると街を守り抜いた象徴の女の人像の周りに真っ赤なカーネーションが何層にもなってうず高く手向けられています。大祖国戦争の終わりを象徴する花は赤いカーネーションだということを知りました。
 
 私が一番心惹かれたのは、壁に彫り込まれた当時の人々の様子です。兵士や子供や老人が彫られています。以前、『レニングラード封鎖』という本を手に取って読み始めたのですが、悲惨すぎてすべてを読みきれませんでした。壁画はこれらの人々への敬意です。




オーロラ号

2017年06月04日 | 日記
  年末のある日、まだ夜みたいに暗い朝の9時に学校に着くと教室は鍵がかかったままで先生はもとより他の生徒は誰もくる気配がありませんでした。一人でポツンと教室の前で待っているとしばらくしてクラスメートのビンビンがやってきました。ビンビンは中国名で「斌斌」と書き一文字の中に文武両道の意が含まれているとてもいい名前です。それに発音もビンビンと呼び易く可愛らしく、ビンビン自体も穏やかなとてもいい青年です。二人でしばらく待っていたのですが、今日は休講ということを教えられました。携帯へのメッセージを見ずに来てしまったおっちょこちょい組です。


  ビンビンとはそれまであまり話したことはなかったのですが彼が銀行に用があるというので暇な私もついて行きました。外は12月の外気とまだ朝日の出る前の薄暗いさです。そのままなんとなく船のオーロラ号を見に行こうということになって1時間半くらいの長い道中を二人で歩きました。


  オーロラ号は日露戦争時、対馬海峡沖で実際に日本と戦った船で今はサンクトペテルブルグのペテログラツキー島に常駐され内部は博物館になっています。ビンビン曰く2年前は展示品もなく船もボロいままで入場料も取らなかったらしいのですが、今は改装後なので学生は200ルーブル取られました。


  司馬遼太郎の『坂の上の雲』を思い出しながら見ました。ロシアのバルチック艦隊を率いるロジェンスキーや東郷平八郎の写真、風刺画などを見物し、ビンビンに「本日、天気晴朗ナレドモ波高シ」の説明をしたりしてビンビンも興味深く聞いてくれました。



クオリティの高い博物館でした。二人でかなり興味深くいろいろ見て満喫した後、本島のアゼルバイジャンの料理屋さんへ行きました。そこでシャシュリクの肉料理を食べながら中国の歴代王朝の皇帝の話や中国のお正月のことを教えてもらったりして、結局その日は朝の9時から夜の7時くらいまで一緒に過ごしました。

  ビンビンは物腰柔らかな優しい青年で二人で話が通じ合わなかったりすると逆に笑っちゃったりして理解し合えるまで根気強く言葉を探し話し合いました。
  その後、クラスが分かれ毎日顔を合わせることもなくなり、たまに廊下で会ったりすると10分くらい立ち話をしてまた今度ご飯を食べようねと言い合うのですが、あの日以来ついぞお互い誘わず仕舞いで、だけどあの日のことを思い出すとちょっと不思議なきっかけのいい時間を過ごせた大切な思い出です。

合格

2017年06月03日 | 日記
  ロシア語検定試験に合格しました!自分でも予想外の結果でした。一日目の文法、読解、エッセイは結構できたと思い返し、二日目の聴解、そして会話ができなかったと思ったからです。試験を受けたあとで毎回思うのですが、すべてが終わって気持ちが晴れ晴れするのは心の底からできたと思うときだけで、大抵、試験のために頑張って日々を費やしてきたのにできなさが際立ち浮かない心模様です。

  けれどこんな説も聞きました。試験後、できたと思ったときは本当はできていなくて、できなかったと思ったときはいい点数を取れている、それは自分の実力と試験のレベルを冷静に見れる力があるからだと。だから今回の自分のパターンは二つとも思ったので、本当はどっちなんだろうと試験後、バスの中で考えたりしていました。


  というのも、二日目の会話がさんざんだと思ったからです。会話の試験はテキストを読んでその内容について答えるというものが一問目ですが、紙の辞書を持ち込めたことを知りませんでした。終わったあとで自分の情報収集力のなさにがっかりしました。当然、何の助けもなしで文章を読み、キーワードのчерепаха(亀)という単語がわからないのです。さらに、質問の核を握る動詞もわからず、何についての話なのか、いったい何を聞かれているのかさっぱり理解できないのです。仕方がないのでわかる単語とタイトルと概要を想像力で埋め、さらに本当は亀を意味するロシア語のチェリェパハの響きに、チェリェパハ、チェリェパハ、テレパシー!!(ロシア語も外来語があります)テレパシーが働く存在ってことは妖精かもしれない、はっきりとはわからないけど答えるときは堂々と受け答えする態度が大切と決め込み、お父さんが息子に話してたのは息子を喜ばせるためのおとぎ話で、妖精は実際には生きていない存在だから持ち帰れなかった、とかなんとか言ってむりやり話を作りあげました。試験官はちょっと笑ってチェレパハは生きてないの?と聞いてきたので私も再度、ダー、とかなんとか言い返しました。試験官は、もういいわ、みたいな感じで早々に切り上げ、次の問題へ移りました。
点数を取れたのは、次項以降の問題に答えられたからです。個人教授の先生と準備をした範囲のものが出ました。これも試験後にいつも思うのですが、膨大な量を勉強して試験に出るのはほんの一部、だけどその一部のためにたくさん勉強すること必須なんだろう、と。

 
 写真の茶色の細長いスイーツは、ジャガイモを意味するカルトーシュカという名のお菓子。
モッチリしていて美味しいです。ロシアのケーキ屋さんなら大抵どこでも売っています。

ロシア語検定試験

2017年06月01日 | 日記
 第一日目の試験が終わりました。文法、読解、エッセイと立て続けに3時間集中したのでその後2時間散歩しました。思ったよりできたので、帰り道にニヤついていたらエッセイで結論を抜かすという重大なミスを犯したことに気づき雨の中少し落ち込みました。けれどその後いともたやすく回復しまったく気にならなくなったことには自分でも不思議です。やっぱりどこまでも無責任でいられる試験だからかなあと思いました。
 
 
 明日は聴解と面接があります。結果は次の日の午後にわかるそうで超特急です。今から少し勉強しようと思います。明日の試験が終わったら念願のロシア美術館へ行ってこようと思います。


 それにしてもロシアの試験の会場は日本と違いかなり雑でした。級が違う受験者が20人くらい一緒の部屋でごちゃ混ぜで試験を受け、級によって時間もずれてくるのですが、それぞれ試験が終わり次第バタバタをお手洗いに行ったり、早く終わった級の人が試験官に名前を呼ばれて明日の時間を知らされたりしている中で、違う級の人たちが試験を続けていました。一番びっくりしたのが、時間が来て試験官が終わりですと言ったのにもかかわらず、その試験官がそのまま部屋からいなくなり誰も監督者がいなくなった無法地帯の試験室で10分くらい終わったはずの試験用紙と共に待たされたことです。読解は実質、既定の60分から70分に延長された形となりました。

 写真は四月のネバ川です。