ロシア日記

~ペルミより愛を込めて~
日本語教師と雪のダローガと足跡

~サンクトペテルブルグ~
雪の上の足跡

マイフラット

2017年06月04日 | 日記
 長年海外に暮らしている友達が、意外と撮らない自分の部屋や近所を写真に収めておいたほうがいとアドバイスしてくれたので、これも自分の記憶のために写真を載せておきます。

 Air bnbで探したセンター内にあるワシリスキー島にあるフラットです。ひと月の家賃33000ルーブル(66000円)は外国人価格です。一般的にロシア人はひと月18000~24000ルーブル(36000~48000円)のところに住みます。これらはセンターを外れた住居が主です。土地勘がない外国人が地元用住居を探すのは一苦労です。インターネットでニセの不動産なども出回っていてネットにオーナーと直接繋がらない用に電話番号の一部を隠してあるのは要注意です。電話番号代のためにお金を払ったらそのままぼったくられます。

 私は、今回は3か月しかないという制約もあったのでリスクと手間を考え、外国人用サイトのAir bnbで探しました。今、新緑の季節になり、毎朝ブラインドを上げるたびに白樺がキラキラ瞬ていています。

すぐ隣に蜂蜜屋さんがあります。





ロシア語留学

2017年06月04日 | 日記

 もっぱら自分のために書いてるこのブログですが、ちょっとは世間のためにも役立てようと思いロシア語留学の仕方について説明しようと思います。英語などと比べてロシア語はどうやって留学すればいいのか迷う方もたくさんいると思います。

大まかな概要と私の経験と感じたことも書いていきます。

まず、方法は2つあり、旅行会社を通すのとまったく機関を通さず全部一人で行う方法です。

① 旅行会社経由
ロシア専門のJICという旅行会社があります。
http://www.jic-web.co.jp/index.html

 こちらがロシア語留学も扱っています。JTBなどの一般的な旅行会社はロシアのビザ取得方法もわかっていなかったりするので、ロシア・旧ソ連国へ行きたい場合はよく事情に精通した専門の旅行会社が断然お勧めです。

 語学学校と個人の仲介に入ってくれるので安心です。見積書も全部出してビザ申請手続きもしてくれます。
ロシアの事情にあまり精通していない方はこちらの方法をお勧めします。そうじゃないと語学学校自体、懇切丁寧に次の指示を出してくれるというわけではないので、受け身姿勢だと手続きが一向に進まない場合もあります。ロシアに何年か住むとある程度勘のようなものも働いて次になんかあるなと直感して自分から質問したり動いたりして事がうまく行くということが多々あります。
一度、初期のビザ手続きの際にその日たまたま事務所に手続きに行ったら九死に一生を得るぐらいの感じのことが起きました。あと一日遅れたら大変なことになっていたと言われたのですが、そもそもその日に来いとも指示されずに、偶然に自分で動いた結果でした。そんなに大変なことになるのなら来る日を指示してくれと思ったのですが、そういうのは言っても無駄なので自分の幸運に胸をなでおろすだけです。


② 個人手続き方法(以下の二つの語学学校はサンクトペテルブルグに位置しています)

私は下記のRussian Language and Culture Institute(サンクトペテルブルグ大学)に留学しました。この内容を書いていこうと思います。

下記のメアドに直接メールを送る。英語で大丈夫です。

1、Russian Language and Culture Institute(サンクトペテルブルグ大学)

St.Petersburg State University
11 naberezhnaya Leitenanta Shmidta, office 307 (3rd floor)
199034 St.Petersburg, Russia
Tel.: +7 (812) 327-79-55
Fax: +7 (812) 327-79-88
E-mail:
info@rlci.spbu.ru
Internet: http://www.russian4foreigners.spbu.ru
Meet us at Facebook: http://www.facebook.com/RussianLanguageandCultureInstitute

 国立なので仕事もお役所的な具合で返信はだいたい2,3日後です。2017年時点で一年間まで有効のビザがおります。ビザ取得は、大学に申しんで承諾返事が来てそれから1か月半ぐらいかかります。その間、学校から進捗情報などは自分から問い合わせない限り一切来ません。
空白も含め全パスポート50ページ分ぐらいをコピーして提出する必要がありました。3,000ルーブル(6000円。高い…)払えばこのめんどくさい手続きをしてもらえると聞きました。ちなみにロシア語検定試験も500ドル払えばもらえるとも聞きました。賄賂文化です。

 学費は、4週間35820ルーブル(約7万円、2017年6月時点)
ぼったくられるかなと非常に警戒していたのですが大丈夫でした。おかしいのがカードが使えず現金一括払いです。

 授業は、週5日、一日2コマ3時間、午前、午後の部があります。レベルに寄って振り分けられます。一クラス約10人前後です。クラスはレベルによってかなりフレキシブルに移動できます。

2、Derzhavin Institute (デルジャービン・インスティトゥート)
http://www.derzhavin.com/en/
lingv@derzhavin.com

 民間なので、対応が早いし丁寧です
ただし、民間語学学校は現時点(2017年6月)で3か月のビザしか発行されません。そのため一時帰国してビザを取得し直すことが必要だと言われました。この規定はロシア政府の意向により年と場所に寄って変わったりするので注意が必要です。これが理由で私は上のサンクトペテルブルグ大学付属の語学学校へ行くことに決めました。

 先生が授業の合間にしてくださったソ連時代、外国の情報が載っている発刊禁止の雑誌を隠れて読んでた、危険だから一夜で読み終わらなきゃいけなかったという話が記憶に残りました。


写真は、夏の庭園。

OQJAV

2017年06月04日 | 日記
 OQJAVというグループののコンサートへ行ってきました。
男女3人混合のバンドで宣伝音楽を聴いたときに、彼らの音楽の不思議な雰囲気に惹かれました。
会場は、私が住むバジリスキー島にあるERATAという新鋭クリエイターのための発表の場として作られたミュージアム内で行われることを知り、20分くらい歩いて行ってきました。夜8時でも明るくピンク色の空が綺麗でした。
 音楽も良かったし、帰りにどうしても一杯飲みたくなり以前から気になっていた家の前のバーでJamesonを飲みました。


彼らの曲

https://www.youtube.com/watch?v=HvGsbZ1e2sw






レニングラード封鎖

2017年06月04日 | 日記
 5月9日は大祖国戦争(独ソ戦)の記念日でした。
街の人々はこの記念日をオレンジと黒のリボンをつけドイツに勝ったことに対して祝います。第二次世界大戦の敗戦国である日本出身の私には戦争に勝って盛大にパレードをしたり祝ったりする気持ちが長い間わかりませんでした。戦争は悲惨なもので勝っても負けても祝賀の対象になり得るものじゃないと思っていたからです。
けれどそういう気持ちが今年は少し変わり、ロシアの歴史を知った後、理解できるようになりました。援軍もなくドイツ軍と一国のみで戦い抜いたロシアの誇りと、またこのサンクトペテルブルグはこの時代レニングラードという街名だったのですが、ドイツ軍により包囲され食料も燃料も経路がすべて断たれ人々は約900日間レニングラードの街に生き埋め状態になったのです。おびただしい餓死者がでて人が街角でバタバタと倒れていきました。私も時々この街を歩きながらそれを思い出し光と影のあるすごい歴史を持った街だと再確認します。今ここに住むサンクトペテルブルグ人の中で家族の誰かはこの時の被害者で体験者だったり亡くなったりしていると聞きました。

 ストラヴィンスキーが亡命先からが祖国を想い曲を書き、それを空からこの街に落としたそうです。指揮者、演奏者も飢餓で死にそうになりながらオーケストラの演奏をし、それを知ったドイツ軍がこんな悲惨な状態になりながら人間の尊厳を失っていない人々に感動しこの街に爆弾を落とせないと思ったという逸話を聞きました。


 そのレニングラード封鎖が解かれたのは、戦勝記念日の数か月前ですが、人々はこれを祝してピスカリョフ記念墓地を創りました。
ある晴れた日、私も敬意を表すために郊外にあるこの墓地へバスを乗り継いで行ってきました。それは街から外れただだっ広い土地にあり、近くの花屋で献花のための花を買いました。戦争を耐え抜いたことへの敬意だしあまり派手な色の花じゃないほうがいいかなと思い紫のチューリップを買いました。行ってみると街を守り抜いた象徴の女の人像の周りに真っ赤なカーネーションが何層にもなってうず高く手向けられています。大祖国戦争の終わりを象徴する花は赤いカーネーションだということを知りました。
 
 私が一番心惹かれたのは、壁に彫り込まれた当時の人々の様子です。兵士や子供や老人が彫られています。以前、『レニングラード封鎖』という本を手に取って読み始めたのですが、悲惨すぎてすべてを読みきれませんでした。壁画はこれらの人々への敬意です。




オーロラ号

2017年06月04日 | 日記
  年末のある日、まだ夜みたいに暗い朝の9時に学校に着くと教室は鍵がかかったままで先生はもとより他の生徒は誰もくる気配がありませんでした。一人でポツンと教室の前で待っているとしばらくしてクラスメートのビンビンがやってきました。ビンビンは中国名で「斌斌」と書き一文字の中に文武両道の意が含まれているとてもいい名前です。それに発音もビンビンと呼び易く可愛らしく、ビンビン自体も穏やかなとてもいい青年です。二人でしばらく待っていたのですが、今日は休講ということを教えられました。携帯へのメッセージを見ずに来てしまったおっちょこちょい組です。


  ビンビンとはそれまであまり話したことはなかったのですが彼が銀行に用があるというので暇な私もついて行きました。外は12月の外気とまだ朝日の出る前の薄暗いさです。そのままなんとなく船のオーロラ号を見に行こうということになって1時間半くらいの長い道中を二人で歩きました。


  オーロラ号は日露戦争時、対馬海峡沖で実際に日本と戦った船で今はサンクトペテルブルグのペテログラツキー島に常駐され内部は博物館になっています。ビンビン曰く2年前は展示品もなく船もボロいままで入場料も取らなかったらしいのですが、今は改装後なので学生は200ルーブル取られました。


  司馬遼太郎の『坂の上の雲』を思い出しながら見ました。ロシアのバルチック艦隊を率いるロジェンスキーや東郷平八郎の写真、風刺画などを見物し、ビンビンに「本日、天気晴朗ナレドモ波高シ」の説明をしたりしてビンビンも興味深く聞いてくれました。



クオリティの高い博物館でした。二人でかなり興味深くいろいろ見て満喫した後、本島のアゼルバイジャンの料理屋さんへ行きました。そこでシャシュリクの肉料理を食べながら中国の歴代王朝の皇帝の話や中国のお正月のことを教えてもらったりして、結局その日は朝の9時から夜の7時くらいまで一緒に過ごしました。

  ビンビンは物腰柔らかな優しい青年で二人で話が通じ合わなかったりすると逆に笑っちゃったりして理解し合えるまで根気強く言葉を探し話し合いました。
  その後、クラスが分かれ毎日顔を合わせることもなくなり、たまに廊下で会ったりすると10分くらい立ち話をしてまた今度ご飯を食べようねと言い合うのですが、あの日以来ついぞお互い誘わず仕舞いで、だけどあの日のことを思い出すとちょっと不思議なきっかけのいい時間を過ごせた大切な思い出です。