やさしい人生を皆さんと共に

シンプルに気楽に人生を楽しく?

どんどんやき

2011-11-29 15:28:25 | Weblog
『今はほとんど雪がない』

今と違い雪の中の作業でしたので大変でした。子供の4年生以上の子供が集まり、どんどん焼に燃やす、門松が足りないので川原や山に行き松の枝を集めて来て準備をしました。
1月14日は旧正月でした。旧正月14日になると、村の外れに馬頭観音がありそのそばの田んぼを借りて行なう行事です。村中の門松や正月の飾り物をそこに集めて燃やすのですが、昔からの『しきたり』行事で先ず真ん中に村で一番大きな竹を区長さんのところから頂いてきて其の先端に神頭さんに『四垂、しで、へいそく』を切ってもらい先端に取り付けて燃やし四垂が倒れるまで燃やす習慣があります。
それをどんどん焼といいました。村中の皆さんが集まり厄年の人がその火を燃やしている時に、お金や、ミカン、干し柿、などを投げて皆さんで拾うと言う行事に成っていたようです。そして其の夜に村の人全員に『男厄年、25歳42歳、女性厄年19歳33歳』麹で作った本格自家製甘酒を振舞っていました。子供の頃はそれがすごく楽しみでした。厄年の家を回りご馳走になりました。

はさみ書き込み『小江戸川越マラソン』

2011-11-28 14:56:31 | Weblog
無駄ではなかった走り込み
足の捻挫で5ヶ月も走り込みが出来なくてイライラの毎日でしたがやっぱり体は嘘はつかなかった。何時も口癖のように言って入るが今回ほど切実に感じたことは無い?
多分この30年間で一番頑張ったでしょう。
能書は後にしてタイムですが2時間2分でした。走る前は2時間25分位で完走を予定していた。何時もなら17キロ地点で足が動かなくなるのが今回は何時もと違った。
最初から少し早めに走って見たが何となく足の出が楽に感じた。もしかしてあの走り込みが役に立ったのだろうか?ちょっと心配したが続けてスピードを落さないで走ってみたらやっぱり足が軽い。心の中で微笑んだ。遣れば出来ることを今更ながら感じた。
小江戸川越マラソンのスポンサーなので我が社からの関係者だけで65名走った。遠くは農家のお米屋さんの岩手県からの参加者も居た。多分年令別のタイムでは一番良かったと思います。
余りにも興奮気味なので書き込みが進む
毎日1時間の走り込みが約2ヶ月其の半分は2時間走りこんだ自分でも何で其処までやったか分からない唯ヒタスラ必ず答えは出ると信じて走った。
後2週間でホノルルですがどんなタイムが出るか楽しみです。

小江戸川越マラソン完走パーティ風景

通学路

2011-11-26 13:44:07 | Weblog
『今の時代から見るとうそみたいに真面目』
私のでは、同級生が男女合わせて10人でした。一年生~中学3年生迄で70名でした。
僅か50軒きり無い家族で子供が多かったです。今考えると嘘のようです。楽しかったのは、春祭り、夏祭り、秋祭り、冬は大晦日の神社の雪かき、祭毎に神社の回りの掃除、道路の掃除、と良くやったと思います。中学3年生の時は私を中心に村の習慣や子供の頃の行事をしたのを懐かしく思います。この頃からたいがいの行事はなぜか私が仕切り屋の様でした。まめだったのでしょう。通学路は2キロほどでしたがまとまりが良く週に一度のごとの朝礼集会も上手く出来ていた事を覚えています。

火の用心

2011-11-25 11:56:28 | Weblog
『子供の夜回り』
今は止めているようですが、どの位前からやって居たか解りませんが。昔からの習慣で12月1日~2月末日迄、夜7時から8時頃までを一軒残さず回り、これが大変なのです。一軒ずつ家の前で止まり、拍子木を三回打ち『カチカチカチ火の用心』と言うと家の人がご苦労さんと答える。それに合わせて『ハイ』答えて次に拍子木をカチカチ叩きながら次の家に行く、此れを毎晩3ヶ月続けるのですから大変な行事です。あの頃は子供がたくさんいて小学生~中学3年生まで男の子だけで50人位いたと思います。ですから4人~6人のグループになり交代で一日も休まず。本当にグループ分けやら、回る時間の管理やら、良くやりました。これは先輩からの引次ぎ行事で頑張りました。でも終る時に中を回り寄付を頂き皆さんで分けるのが楽しみでした。

義理兄に叱られる

2011-11-23 10:32:33 | Weblog
『これ以上良い人はいないほどの良い人でした』

一番上の姉、(通称ネーヤン)の旦那さん。今考えるとかなりの悪学生、中学2年のときカバンに入れてあったナイフの事。あの頃はかなりの悪ガキだったみたいでナイフと言っても短刀、加治屋さんで作ってもらい、白木のサヤまで作り布で包んで持っていたのを見つかり、こっぴどく叱られたのを覚えています。長さも30センチは有ったと思います。そのナイフをなぜ作り持っていたのかも、何の目的もなく、たぶんその時はカッコいいと思っていたのでしょう。
兄の叱り方が上手、多分姉さんが頼んで叱ったのでしょう。やんわりとそっと強く言われた事を思いながら大好きの義兄さんを思い出します。中学に入り勉強も少しは頑張りましたが、相当の悪だった様です。
今考えると何を考えてそんなことをやっていたのか目的も動機も解りませんが有った事は事実なのです。今の子供の事をとやかく言える資格はありません。こんな悪がきだった私が今偉そうに講演会やらロータリーの会長を務めて奉仕活動をしております。
今ここにこんな立場で居ることが嘘のようですが小さいときの思い出が嘘のように今の自分を支えているのでしょう。

叱られて『淋しい時には、いつもこの歌を』

叱られて~叱られて~あの子は~町まで~お使いに~
夕べ淋しい~村はずれ~コンと~狐が~泣きゃ~せぬか~~

今でも淋しい時にはこの歌を良く口ずさんで一人で涙を出して大泣きする事があります。
逆に勇気付けられることもあります。どんなに仕事に困っても小さい時のことを思うと勇気付けられます。最初に前書きのところで書き込みましたが、特にテレビドラマで子供番組には良く泣かされます。何か私には人に無いものを持ち合わせているような気がします。
夢のことですが寝ている間、自分では全て夢を見ているような気がするのです。それが子供のときの夢が本当に多いのです。夢の話は余り誰もしませんが私だけなのでしょうか?まったく現実離れした夢、二番目に良く見る夢、恋愛の夢相手が判れば楽しいのでしょうが空想の人すごく素敵な夢、自分の夢で寝言を言い目を覚ますことが有ります。
こんな書き込みは誰にも叱られることがないので、これが本当の私の夢かも?

今日の書き込みは涙ぼろぼろで少し興奮気味ですが凄く嬉しいです。

修学旅行6年生の記憶

2011-11-22 13:49:32 | Weblog
『かねの使いかたを知らない私』
修学旅行が終戦後最初でしたので県内でした。木炭のバスで利根村から伊香保に行くのですが道路が砂利道で、でこぼこ道だった記憶があります。何の話をしても信じていただけないような事ばかりなのですが小遣いの事や何を食べたか等記憶に残っている事だけ書いてみます。小遣いは一人300円以内だったように思います。お金の使い方が解らない、初めて飲んだサイダーの炭酸がグワート出てくるゲップの経験をしました。一本10円でした。
それっきり使わずに帰って来たら、梅は馬鹿だなーと言われた事を覚えています。
(小遣い兄弟でカンパ)

兄夫婦

2011-11-22 13:37:22 | Weblog
『二人とも早死に』
(我が家の墓、石碑)
年に二回墓参りに行くたびに思い出すのですが甥、健在は3人ですが
石碑に刻んである名前は5人です。8人も生んで3人きり育てられなかったもどかしさを感じます。私の記憶に姐さんは自分で抱いて居る子供が冷たくなっているのに気がつかずぐっすり寝ていたのには子供の頃の私でも驚きました。Ⅰ才未満で5人も続けて亡くなるなんて親の責任だと思います。毎年墓参りに行くのですが、お墓の前に行く度にそんな事を思い出します。お墓に刻まれた1歳未満の5人の名前を見て子育ての難しさと親の責任を感じます。
6人目から生まれた3人は健在です。
一年ほど前に、兄の孫に当たる子供が亡くなり葬儀に行って来ましたが、亡くなった子供が20歳で話によると体重が103キロだったそうです。兄が亡くなったときの体重が100キロでほとり過ぎが原因でしたので兄の死を、学習出来ないもどかしさを感じました。
健康管理を懸命にしている私から見たら残念でたまりません。後ほど健康については書き込みますが?
兄の一番上の倅が私のところで3年ほど働いていました。其の倅が田舎でラーメン屋をしています。何とか家族を支えているのでホッとしています。

隣の家との声の掛け合い・姐さん

2011-11-21 10:38:50 | Weblog
『隣は何軒か有るが田舎の隣は中の良い近所3~4軒が隣です』

(我が家の裏山とお隣さん)
その時は何とも思はなかったが、今考えて見ると本当に隣同士のお付き合いが上手く出来たのでしょう。我が家の家族は6人でした。隣の家の家族が12人でした。其れなのにお風呂が沸いたよ~と声を掛けると隣からありがとうの声が戻ってくる。家族全員が来る訳でもないが、お互いに一日おきにお風呂を沸かして声の掛け合いをして入るお風呂ですが、やはり大きな桶の前に釜が付いている。沸かし時間が一時間ほど掛る。水くみもつるべ井戸からですので大変の作業。
次から次へと12~13人は入ると思いますのでかなり汚れると思います。
でもそんな事、気にしたことはありません。お風呂ですが、何処の家でも入り口の脇に有る。多分お風呂の使い残りの水を利用するので、そこにあるのがベストなのでしょう。ここで『便所の説明』をしないと成らないので説明します。何処の家の入り口の外にも、大きな桶を埋めてあるトイレが有るのです。その桶に子供が落ちない様に板が二枚渡してあり、そこで男女共に小便の便所が有りましたが囲いはありません。大便の便所はその近くに囲い付きが有りました。今でしたら大変ですね。(笑い)ちょこっとしたエピソード子供のトイレは良いのですが昔の大人の人はモンペの下に腰巻きりはいていないので男と同じスタイルで用をたすのです。
ですから人が来ると丸見えです。でもそれが当たり前で何にも恥じることなく用を足している姿を良く見受けます。昔の家はが50件程の小さなでしたが、今は住宅事情が変わり昔の面影はありません。今は茅葺の家は無くなりました。


はさみ書き込み『ホノルルマラソン』

2011-11-19 14:08:37 | Weblog
年に一度の夫婦仲良しホノルルマラソン

毎年恒例のように続けていますが今年で連続19回目です。
フルマラソンですから本当に健康でなければ続かないと我ながら自負しております。
毎年の事ですがいつも今年で辞めようと言いながら又遣ってしまいます。特に今年は足の怪我で5ヶ月も走り込みが出来なかったので完走できるか心配です。今は毎日ヒタスラ黙々と走り込んでいます。フルマラソンは500キロ位の走り込みがないと完走は難しいのです。体を壊さない様に朝に晩に走り込んでおります。
私は何とか完走できると思いますが女房は心配です。二人で続けて20回の完走はギネスだそうです。
なんでも大変ですが私にとってマラソンを続けることが楽しみのようです。今年はホノルルに行く2週間前にハーフですが小江戸川越マラソンがありますので頑張って走って来ま~す。

つるべ井戸

2011-11-19 13:55:24 | Weblog

『つるべ落としからきているのかな、この名前』

この写真が現在の我が家昔の家は茅葺屋根でした。
太い縄で両端に桶を取り付けて有りかわるがわるの桶に自動的に水が入り次々と汲むその仕組みが『つるべ』井戸です。その太い縄ですがすべてが藁(稲ワラ)です。
この井戸の深さは10メートルほどでしたがでは高台に家があるので井戸は深いほうだった。田舎ではこの井戸が冷蔵庫代わりに上手く利用されていて夏になるとトマトや胡瓜など籠に入れてぶら下げて入れて置くと冷えて美味しく食べられるので便利に利用しました。
井戸は四角い屋根つきになっていましたが、何か物を落とすと大変拾いに入らなければなりません。良くボールを落とし拾いに入るのが怖かったです。いつも入るのは俺の役割でした。
中に入ると夏は涼しく、冬は暖かい僅か10メートルの深さなのに別世界です。

兄弟揃って国体選手の二人の姉

2011-11-18 13:12:33 | Weblog
『今から68年は昔の事なので良く覚えている事だけ書き込みます。』
競技は明治神宮外苑運動場のようでした。写真を見た限りではグランドに芝は無く学校の大きな校庭のように見えました。何で姉が選手に成ったかは解りませんが、昔はバケツに砂を入れてグランドを走る競技が有り、群馬県代表ですから、よほど力持ちだったのでしょう。姉さんが練習やら東京まで行くために農業の仕事が出来ない為に、大勢の方が農作業を手伝いに来てくれたことを覚えています。其の時の賞状やら記念写真が有りましたので凄く自慢でした。確か2年位続けて行ったような気がします。其の時期になると皆さんが手伝いに来るのでよく覚えています。なぜそうなったかは解りませんが次の妹も『現在も健在86歳』姉も早かったので国体の選手に選ばれて神宮迄行った事を良く覚えています。

とうもろこしの水団

2011-11-18 12:49:28 | Weblog
『水団、田舎では(つみっこ)とも言っていた』

すいとんといえば、小麦粉のやわらかくて美味しいと直ぐに思うでしょう。トウモロコシの粉と成ると先ず口当たりが苦い、昔のトウモロコシの粉と現在の粉との違いは皮まで粉にしていること、色が黄色い、煮ても焼いても硬い、其れでも、稗かきや粟粥に比べたら格段に美味しいので一番多く食べたと思います。
味噌汁に具沢山にして良く食べました。
作り方は、粉を固めに『耳たぶ位の柔らかさに』練り少しずつ、つまみながら入れたところから『つみっこ』と言う方言なのかも知れません。俺んちの田舎独特の食べ物かもしれません。

粟粥・粟餅

2011-11-16 12:51:45 | Weblog
『粟餅、まずいですが何とか食べられます。』

今の餅と同じ用に蒸かして杵でついて餅にするのですが、粘りがないので餅米を10%ほど入れて作るのですが昔の人は上手く作りました。
粟ご飯は、美味しくないですが外に食べるものが無いのでしょうがなく食べました。
米1に粟9の割合ですから、米を拾って食べたくなるようなものです。
最近は粟ご飯の事を健康に良いとかで話しは良く聞きますが米95%粟5%ですのでただ色が黄色いだけで多分美味しいでしょう。
昔は小麦粉のことをメリケン粉と言う位貴重な食べ物でした。
うどんは、お祭、お盆、正月、位きり食べられませんでした。
砂糖、塩、たばこは配給なので貴重品でした。中でも比較的に足りていたのが塩でした。だから今では考えられない様な塩の使い方をしていました。お正月に良く作る、ぜんざい、おしるこ、が塩味でした。
おはぎ、ボタ餅、大福餅の餡も塩餡でした。何か嘘のよう話ですが本当の話です。

稗かき

2011-11-16 11:22:15 | Weblog
『こんな食べ物を食べた事が不思議に思います。』

よそ様の事は良く分かりませんが、でも我が家では良く食べていました。皆さんは知らないでしょうが、私が5年生頃は何処の農家でも畑で作っていたのですから、皆さんも食べていたと思います。思い出すのも嫌ぐらい美味しくない食べ物でした。でも今だから。そう感じたのでしょう。何処の農家でも食べ方は色々有ると思いますが、手軽に食べるには、稗かきが簡単に出来て食べて一番美味しいかもしれません。『ひえカキ』とは、ソバかきと同じ作り方、具に白菜の漬物を入れると美味しく食べられます。
稗焼餅は硬くなるし苦味がきつくて食べにくいので嫌いでした。とはいっても他に食べるものがないのですから仕方なしに食べましたが今では犬も食べないでしょう。

麹作り

2011-11-14 11:23:34 | Weblog
『何をするのにも昔はお隣同士との関係が無ければ先に進まない様でした。』
米麹、麦麹、こうして見ると用途は色々。何処の家庭でも自家製でしたので隣同士での作業でした。必ず4~5軒に一軒ぐらい麹作りの蒸し釜やムロがあり、2~3日掛けて作るので交替で管理して作ります。味噌用とか、醤油用とか、甘酒用、用途によって違うので何処の家でも麹が必要なのです。
今ではこんな農家が殆ど無くなり、たまに田舎に帰るのですが昔のような隣同士の繋がりは無いようです。昔が懐かしく思うだけです。
こんなところにも現代の食生活の変化があるのかもしれません。