やさしい人生を皆さんと共に

シンプルに気楽に人生を楽しく?

お久振りです

2014-01-22 11:11:49 | Weblog

プログを覗いたのが2ヶ月振りです。毎日パソコンは仕事では遣っているのですが本当に久しぶりです。昨年はホノルルには行って来たが妻と二人とも完走がやっとでした。ボツボツフルマラソンは終わりかな?最近ジョギングもサボり余りやらない?やっぱり年には勝てないのかな、いつもの元気が何処かに、なくなってしまった。こんな書き込みしまいと思ったが何とか書きこんでみた?


まさかの連続

2013-08-27 13:52:23 | Weblog

『2013年8月22日前橋育英優勝』

最近は良い事尽くし、少し詳しく説明します。先ほど全国制覇した前橋育英ピッチャーの高橋光成の事まさか親戚だったなんて知らなかった。どんな系図かと言うと私の父の弟政叔父さんの曾孫であった。我が家は金子家の元祖ですが沼田市利根町高戸谷の高橋家に婿入りして家族ごと追貝の開墾地戸山に入植、其処で大きな農家になり戸山の地主となりました。それと今一人セカンドを守っていた高橋君ですが何でこんなに偶然が有るのか分かりませんが沼田市利根町高戸谷の出身です。高橋君の母が我が社の東明館で働いていました。自分如の様に嬉しく成りました。先月偶然にもその戸山に対した用事もないのにその政叔父さんの家を訪ねた其れも57年ぶりでした。あまり用事も無いのにさり気無く誰か居るかいと声をかけたら70歳位のおばあちゃんが何かようじかいと言葉を返された、用事は無いけれど余りにもなっかしいのでつい声をかけてしまいました。あんたは誰だいと返されたので実はこの家のかなり昔ですがこの家の主は私の叔父さんですと説明するとキョトンとして何が何だか解りそうも無いようでした。でも話をして行くうちに私も田舎弁に成り話が通じたようです。まさかこの家の子倅が高橋光成とは知る余地も有りませんでした。この地にはおさな馴染みの同級生やら昔を思い出して今は皆さん元気で居るのかと思い車のハンドルをこの地え訪ねたのでしょう。


少し長いが歴史に興味があったら見てください。私も最近まで良く知らなかった。

2013-08-13 16:11:10 | Weblog

金子美濃守

『我が家に祭られて有りました。』

 今では村の守り神として実家の直ぐ側に祭られていますが昭和18年の時の戦争の時に我が家の屋敷に防空壕を造る時に穴を掘っていたら金子美濃守の牌が出て来たのでビックリした事が有りました。小さい時に親から聞ければもっと歴史の事も解かったのに残念ですが今になっては何にも残されていませんが歴史書によれば?

[ 金子美濃守 ] - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ

 金子美濃守の手勢に民間人を加え、彼等に旗を持たせて正規兵らしく装った囮である。 勿論、渡辺左近丞の攻撃開始と共に、金子美濃守も反転、総攻撃に移っている。 加えて民間人とは言え、この時代は武装して戦い慣れた者も多い。彼等の金子 泰清(かねこ やすきよ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。新左衛門、美濃守とも。権謀術数に優れ、内政・外交面で活躍した。沼田顕泰の寵愛した側室の兄(又は父)といわれる。沼田景義の伯父(又は祖父)といわれる。 もともとは利根郡追貝村の名主で

金子美濃守・沼田平八郎】(051): 江戸の金善

金子美濃守・沼田平八郎】(051). 1) 平成18年に母方の先祖の墓参りをした。 棹石の正面には大きな字で戒名が三つ彫られている。 三列の戒名のうち左側が母の父の戒名で右側が母の母の戒名である、と龍巖山自性院のご住職が教えてくれた。 上台に丸にしかし側室とその兄、金子美濃守は平八郎を沼田城主にしようと野心を抱き、顕泰に朝憲殺害を働きかける。そして顕泰と平八郎は共謀して ... その間に平八郎の叔父、金子美濃守は歴代の城主に仕え、昌幸にも要領良く取り入っていた。 1581年3月、平八郎

金子美濃守の木像 - 実|伝統文化の森

かねこみののかみのもくぞう-利根町大楊. 沼田の歴史の中で、運命とはいえ悪名高い一人が金子新左衛門である。妹「湯のみ]を沼田氏12代顕泰の後妻に差し出し、自身も重臣となリ顕泰の一字をもらい美濃守泰清を名乗った。そして、沼田氏の藩政に大きく

武将/カ行/金子美濃守

上野・沼田城の将。妹の子・沼田景義を城主にするため、当主・朝憲を暗殺させた。結果、お家騒動が起こり、沼田氏は城を追われた。 その後、真田昌幸に内通。昌幸の意を受けて、 沼田城奪回にきた景義をだまし討ちにした。

なぜ戦国無双2では上田城の戦で金子美濃守や松本図書助がでてるんで ...

2011/05/09 - なぜ戦国無双2では上田城の戦で金子美濃守や松本図書助がでてるんですか? 金子美濃守は1581年に失意のうちに死去 松本図書助は蘆名家臣じゃなかったですっけ?(うろ覚え)やっぱゲームバランスなんですか

沼田城_もっとお城が好きになる

真田昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り城中にいた金子美濃守をだました。貪欲な美濃守は己が栄進したいため平八郎に、必ず城主にしてやるから武装を解きこっそり城中に入るように誘い入れて殺害した。 天正9年、42歳であった平八郎の首は実験の

真田三代: 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る - Google ブック検索結果-平山優

金子美濃守は景義の伯父にあたるという(金子の妹は沼田万喜斎の妻で景義の生母)。昌幸は武田勝頼からの承認を得て、金子を説得した。その結果、金子はこれを了承し、中山右衛門尉・山名弥惣・岡谷平六と謀って、南鵬曲に布陣する景義の陣中に赴き、彼

守将:金子美濃守は合戦が川田で行われていると思い込んで宴を催し500の兵は夜襲の餌食となりました。 金子美濃守は片品川を渡って逃亡しました。 二十一日には長井坂の要害をも失い、二十八日より裸となった沼田城に北条軍5000の総攻撃が開始され

 

金子美濃守、戦続きで乱れた世の中を憂い、

上州沼田の豪族に金子美濃守という人物がいる。少し前の雑談、「ヘタレ武将」の中でも名前が挙がっていた人物ではあるが、実はそれなりの能力は持っていたらしい。
元々は沼田氏の配下だったのだが、娘(妹・姪という説も有)を当主の妾として、沼田氏が北条派・上杉派で内紛を起こした際には北条派を粛清、娘の産んだ子を世継に据える事に成功。
しかし真田氏が進出してくると、孫を捨てて真田に寝返る。あまつさえ由良氏の援助を受けた孫が逆襲に転じると、内応したように見せかけて謀殺してのけるという、戦には弱いが謀略・調略に才能を発揮した武将だったようで、真田家中でも沼田衆のまとめ役を務めたようだ。
そんな金子美濃守、戦続きで乱れた世の中を憂い、平和を祈願する為に、上州の修験道場として有名な湯殿山に参詣しようと志した。湯殿山で修行する僧に道案内を頼み、知り合いでもあった海蔵寺の住職にも同行して貰い、湯殿山に登り始める。
しかし、不思議な事に御山に一歩足を踏み入れた途端、美濃守の手足は竦み、頭はクラクラとして前後もわからないようになってしまった。

案内人達が美濃守に問う。
「これは御山が貴方の入山を拒んでいるのではないでしょうか。貴方は何か、懺悔するべき大罪を犯されておりませぬか?」「し、仕方がなかろう!わしとて重代の主君を殺したくなどなかった!しかもわしに取っては孫に当たる若君だったのだぞ!それでも、殺さねばならなかったのだ!金子の家を残す為だったのだ!!」
美濃守が、山伏達にそう言葉を返した途端、茂みの中から彼等の前に一匹の蛇が姿を現した。百尋もあろうかという巨大な大蛇であり、この大蛇は美濃守をジッと見据えたまま、自らの腹を美濃守の目の前に晒した。「…………平八郎様っ!!」美濃守は騙し討ちにした孫の名を叫ぶと、その場に昏倒してしまう。
山伏達と海蔵寺の住職が大蛇を見ると、蛇の左の脇腹には痣のように見える模様があった。
生前の平八郎にも痣があったか、騙し討ちにした時に左脇を斬り付けたのか、美濃守と平八郎にしか判らない何かがあったのだろう。
だが、この大蛇が平八郎の怨霊である事は確かだと、後に息を吹き返した美濃守自身が語ったという。山伏達&住職に担がれるように山を降りた金子美濃守。海蔵寺の住職には「平八郎様の霊を慰め、菩提を弔う為に出家されては如何だろうか?」と提案されるがそれを拒否。
あくまで在家のままで平八郎の菩提を弔いたいと言って、湯殿山の参詣者達の為に登山道の整備に私財を寄進したり、七度まで執拗に湯殿山参詣にチャレンジしたりもしている。
だが、遂に美濃守が山頂にまでたどり着く事はなかったという。この事があった後、美濃守の館では、日が暮れるたびに平八郎殿の霊が現れたと言う。沼田衆のまとめ役であった美濃守だが、配下の沼田衆の心も離れて行く。この様子を見て真田昌幸・信幸父子も美濃守を見限ったのか、小田原征伐の後、関東が静謐になると、美濃守の所領を替え、少しずつ減らして行った。最後は自らの館もなく、縁者の元で病死して果てたと言う。
真田配下でのヘタレ敗戦の事ばかりが有名な金子さんですが、意外に謀略家だったんですね。出家を勧められて拒否する辺りは「戦国の武士として間違った事はしてない」という矜持でも持っていたのでしょうか。見方に寄ってはちょっと同情出来なくもない、金子美濃守と沼田平八郎の怨霊のお話でした。
なるほど、平八郎のせいで結果的に信之お兄ちゃんの命が縮んだということですね「私の父が何か」良心の呵責ってのがあったんだろうか。そもそも湯殿山に行かなければ良かったんじゃね?真田某「あーしてこーして」山伏達&住職そんなまわりくどいことをあの方が先の逸話では省略してしまいましたが、出典元では海蔵寺の住職が出家を勧めた時、「うちの寺は元々、上杉顕定が討死した時、主君を守れず、仇も討てなかった後悔から、沼田景秀が建立した寺」と、寺の縁起を語り始めます。
自分は「主君の菩提を弔う為の」「沼田氏所縁の寺」の住職である、とまるで説得というより難詰するかのような雰囲気です。平八郎の霊が出るようになって、人も離れたと書かれていますし、昌幸の陰謀云々よりも、真田家中の雰囲気が「……出家すればいいのに」という空気だったんじゃないですかね。本人からしてみたら仕方なくやった暗殺ではあったのだけれど、周りの人達は皆、ドン引きしていた。ってな感じでしょうか?金子美濃守


暫くぶりに老神温泉に行ってきました。

2013-08-03 16:49:08 | Weblog

2日間の予定でゴルフでしたが初日は天候に恵まれて楽しいゴルフをしてきました。

泊まりは東明館でした。夜はお酒飲んだりカラオケして楽しかった。2日目朝起きたら

大雨何か出鼻をくじかれた気分でも雨の中をやる気十分でクラブハウスまで行ったが

どしゃ降りの雨はやまない諦めてキャンセルして家路に向かったコースから高速に出

るのに十五分ほど走った頃に雨がぴたりと止んだ皆さんも同じ思いだろうが引き返せ

ない情けない思いで帰ってきました。

家に帰り昼間から一人で乾杯でした。

 


お久し振りです。

2013-07-06 13:43:52 | Weblog

7月1日に尾瀬に行って来ました。山開きでしたがお客さんが少なかったです。今回が4回目でしたが鳩ノ巣からの登山でしたが前回の時は木道を歩くのに登山者がいっぱいで歩けないほどでした。偶々なのか富士山の山開きと重なったせいかも知れません。逆に空いていてゆっくる案内の人の話を詳しく聞けて良かったのかもしれません。鶴ヶ島を4時半に出て老神温泉でツアーバスに乗り換えて鳩ノ巣迄行そこから歩き一時間ほど下り東電小屋で昼ごはん一時間ほど休憩を取り同じルーとを帰って来ました。老神に来て東明館にて風呂に入り夕食を取り本当に朝早くから遅くまで一日が長い一日でした。


利根村歴史資料・第九章・村の生活・伝説・伝承してある。

2013-04-05 15:08:36 | Weblog
『現在の内楽橋』老神温泉の対岸、内楽に大きな桜の古木があり。これは内楽の櫻と呼ばれ利根村文化財の一つに指定されている。この櫻は一名おせん櫻とも呼ばれている。昔、東入りから他地域への重要な交通路として大間々道があったが、それは平川から千鳥を経て石上坂、そして森山から御座、大楊の大平を通って内楽、島古井、(しまぶり)穴原からこもぎの峠を経て根利へのコースであった。これから島古井を通って穴原への山阪にかかろうとする内楽の小さな平らに一軒の茶店があり、ここにおせんと呼ばれる娘がいた。旅人はこの茶店に立ち寄ってしばらく休息したのであろうが、茶店の櫻大樹は、春は美しく花が開き夏は又旅人に涼しい陰を与えて、美人の『おせん』と共に旅人に憩いの場所であった。時は移って大間々道の交通は絶え、今は茶店のあとかたもないが、尚残る櫻の古木に昔を偲ぶことが出来よう。と記してある

割込み(久し振りの投稿)

2013-01-14 10:34:51 | Weblog
健康マラソンについて?その2
このティシャツはホノルルマラソン40周年記念(我が夫婦にしてみればホノルル20回目の完走記念)マラソンでした。長年良く健康で走れた物だとちょっと満足?
此れからも時間はともかく走れれば続けたいです。私は今年は喜寿とかやらで世間並みに言うと年寄りの仲間入りなのでしょう。自分では全く年寄りと思って居ないのである。

川越小江戸マラソン~ホノルルと本当に忙しいマラソンでした。
今年は東京マラソンに挑戦です。幾ら申し込んでも抽選に外れて走れないので無理やり寄付金を添えて走ります。時間が有るのでゆっくり完走します。

健康マラソンについて?

2012-12-23 19:07:26 | Weblog
出来る事ならお友達とゆっくり走りたい
健康有る限り体を動かしてもっともっと健康に成りたいと思います。
昨夜友達から明日ゴルフに行かないかと電話がありしばらく其の友達とゴルフに行っていなかったので喜んでと言って電話を切り明日に備えてゴルフの準備を始めたら又も其の友達から電話先ほど明日のゴルフ約束を行けなくなったとのこと(言い訳は足の調子が悪いとの事)せっかくその気にさせて置いてキャンセル、無理やりの約束でしたので心の中ではホットした部分も有りましたが毎日走りこんでいる私から見たら本当に私と同じ歳なので健康管理をしないとですね。
この間の事久し振りに風邪予防にと思い病院に行って予防注射をし貰ってきました。病院の先生が何かお薬をと言われたので風邪薬でもといって薬を頂いてきました。
10人ほど患者さんが居ましたが皆未だ若そうでしたが次から次えと、いっぱいお薬をぶら下げて帰るのを見て真面目に飲んで居るのかと思うしだいでした。
其の時の気の付いた事で、なぜ、如何して、の連続でした。私より如何見ても若そうな人が(ちょっと太り気味)でしたが何処が悪くてお医者さんに来たのか知りませんが医療費も大変だろうなと独り言のようにつぶやきながら帰ってきました。



最近書き込みサボっていてごめんなさい。

2012-12-23 18:29:47 | Weblog
久しぶりの書き込みです
NHKオンデーワン放送を見てもっと体が動くうちに遣ることがいっぱいあると思い小まめに書き込みをすることにしました。余り長くは書き込み出来ませんが思い付いた事を書き込むことにします。今月やっと念願のホノルルマラソンを連続20回を妻と二人で完走する事が出来ました。皆様の励ましの賜物と感謝しております。出来る事ならば体の健康が有る限り続けたいと思います。フルマラソンを続ける事の難しさを一年毎に体の衰えと努力だけでは難しいことを感じながら毎日走りこみをしています。私だけでなく妻も同じ事を感じていると思います。マラソンを通して少しでも体が元気に成ればと思い是からも走りますので宜しくお願いいたします。来年は東京マラソンをボランティャランナーで走る予定です。

所沢市緑町4-10に自宅を作る

2012-11-14 10:50:22 | Weblog
『角地35坪に2店舗を作り片方に貸し店舗にして不動産さんに貸し角を自分で中華料理満洲里を始めました。』
3時から牛乳配達をしてその後ラーメン店ですので、今考えると嘘のように頑張って働きました。今も昔も本当に健康だったのですね牛乳屋は朝早い仕事ラーメン屋は昼から夜の八時までラーメン屋さんには一人職人を頼みましたが私の仕事はもっぱら出前専門でした。約1年半位両立で営業しました。こうして書き込んでみるとこの間にいま一件の牛乳店を作ったのが抜けています。先ほど山崎パンの事を書き込みましたが其れはその場所は富士幼稚園がある所に民家がありその貫き先を借りて遣ったお店がありました。牛乳店は北所店・緑町1号店・この店はすべて借り店舗・其の後がやっと自分の物件、こんな事を遣りながら西武丘陵に土地を買ったり今の増田屋の裏の方に土地を買ったり今こうして思い出しながら書き込んでみると、仕事もしたが投資意欲も有り過ぎ位でした。

牛乳販売店

2012-11-02 16:20:09 | Weblog
『ここで今の中華料理の店を開店、やっと自分の家の二階に住む、今考えると次から次へとよく開店しました。』
あの頃は牛乳販売店は町の中でも花形の商売でした。朝3時頃から300軒分700本程の牛乳を妻と二人で配達をしたのを今でも昨日のように思い出します。牛乳店は一軒が1000本程あれば採算がとれました。外交拡張も自分でやり、2年ほどの内に2件目のお店を開店しました。
女房の兄夫婦に1軒の店を任せて次のラーメン店を開店することに成りました。

親の背中を見て育つ子供達

2012-10-31 14:56:52 | Weblog
『自分の仕事を懸命にやれば好い』
今自分の目の前の仕事を無我夢中で取り組むことが大好きで自分でも、自分を何でと思うほどですが、そんな仕事ぶりを見て子供は多分、そこまで出来ないと諦めるのが普通でしょう。
ですが結果が見える様にすればその結果に魅力を感じると思います。
何か例を上げないと話が纏まりませんので、例えば我が家はラーメン屋からの創業ですので多分1軒のラーメン屋でしたら、あんなに夢中でやっても結果が出ていなかったらそんな仕事には魅力が無いでしょう。どんな仕事でも自分の仕事を一生懸命にやれば必ず良い答えが付いてくると信じています。
跡取りの事なんて考えた事は有りません。でも私の兄弟も子供も孫も皆な就職して働いています。
私は自分のやっている仕事が大好きで何でも始めると其の仕事が完成するまで夢中になってやってしまいます。でも本当に商売がすきなのでしょうね。私が社長を次いで頂いたのは私が60歳の時でした。今では隣からそっとアドバイス役に回っています。
こんな性質を兄弟も子供も孫も大好きなのでしょう。
娘社長いつの間にかこうなっていましたと言うほうが正しいでしょう。
倅夫婦も役員になり社長夫婦も役員になり、若い人にお任せしております。
いつの間にか私が必要の無い存在になることを願います。

バイクで宅配

2012-10-26 13:56:05 | Weblog
『所沢にも麦藁葺き屋根の家』
まだ慣れない頃最初に先輩から教えてもらった配達先が田舎回りでした。45年も前ですが、所沢にも茅葺き屋根の家が半分ぐらいありました。牛乳配達も朝が早く3時ごろから始まる。バイクのハンドルの両方に30本ほど入れた配達袋を左右に掛けて後ろの荷台に一箱45本入れを二箱積んでバイクに乗るのですが中々重くて上手く乗れませんでした。これを70軒程のお客さんに時間までに届けるのですが田舎回りは道がまだ悪くてバイクがめり込んだり、石ころに乗り上げて転んだりもしました。でもお客さんがいい人で本当に助かりました。少し慣れてくるといつも待っていて野菜やら果物をくれるお客さんが居ました。本当にそんな暖かい人に逢うのが楽しみでした。
田舎といっても所沢の農家ですから、昔から何代も続いている人たちです。文句を言わず支払いも良いし一番の上客でした。