やさしい人生を皆さんと共に

シンプルに気楽に人生を楽しく?

木炭バス

2011-10-31 10:49:12 | Weblog
『停留場の話』
それに停留場は、昔はバスが木炭車でしたので少し大きなバス停には住み込の人が居てバスに乗る人の事やバスの燃料の薪の事やら準備する人が大きな停留所にはおりました。
我が家では姉が村の新聞配達をしていたので停留所を家の土間をお借りして新聞をたたんだり毎に小分けしたりする場所に利用させて頂きました。私は学校の帰りにわがの50部ほどでしたが毎日とりに行きました。そんな関係で停留所の伯母さんには親切にして頂きました。ここの伯母さんの事は又別にかきます。

小学校入学の思い出

2011-10-30 12:54:19 | Weblog
『子供の頃吹き割れの滝のすぐそばに小学校があり写生に良く行きました。』

『昔の家は土間の裏口がありそこに釜戸や味噌倉があつた』
味噌倉とは、味噌、醤油、漬物、梅干、全てが自家製です。
隣の伯母さんが裏口から入ってきて『梅は今日が入学式ダンベーェ、この草履、履いて行けやー』と言いながら草履を持ってきました。其の当時は、手作りのお洒落にボロ布の生地を入れて作ってありました。記念写真に着物姿に手作り足袋を履いてその草履をはいて写っていました。普段履いている履物は、『足中っかー』と言う『履物は足の半分位まできり無い』ものです。ですからその草履が上等品なのかと思います。カバンも姉さんの着物の帯心で作った手作りでした。何と変てこな一年生だろうと思いました。昔はそんな支度の人が半分ぐらい、いたような記憶があります。
我が家は新聞配達員上から三人目の姉が担当でした。別のところで書き込みますが新聞配達の事ですが、田舎は読売新聞か両毛新聞でした。新聞が定期バスで沼田町から運んで来るので追貝のバス停留所に来るのは10時ごろ、そこで新聞折をして配達に出掛けるのは昼ごろになります。姉さんがごとに部数を分けて置いてあるので学校帰りに私の『大楊』の50部をもって帰るのですが、2キロの新聞が本当に重く感じました。

初参り・小学校入学の思い出

2011-10-29 16:30:53 | Weblog

こんな写真きり無いお恥ずかしい


『元日の朝、神社にの全員が初参りに行く習慣があった』

(母私が五歳の頃)
小さいがでは神社を中心に村の行事が行なわれているようでした。
元日の朝、まず出かける前に年越しそばを食べそして午前0時を合図に全員がお参りに行くのです。雪の中で提灯を下げて家ごとに真夜中に交わす挨拶は普段とちょっと違います。「おめでとうございます」の一言がやけに新鮮で毎日会っているのに一年を仕切るのに改めて交わす。その初参りがすむと家に帰り雑煮を頂く。夜明けを待ち全員子供も含めての人が、各家々を回り新年の挨拶する。挨拶を受ける側でも一人待ち受け人が挨拶を受ける。そこで交わす場所は縁側です。農家にはどこの家にも外に縁側がある。そこに畳みをしき火鉢を横に置き挨拶を交わす。『おはよう御座います。本年も宜しくお願い致します。』のやり取りを交わす。これで一年がはじまる。
だから近所の人とのつながりがきちんと出来親から子供にと引き継がれていくのです。

隣の家が牛乳屋

2011-10-28 09:46:41 | Weblog


『今から70年も前に狭い土地きりないのに乳牛を飼っていた、それにビン詰機があり今風の機械があつた』

直ぐ左隣りの家ですが乳牛を20頭程飼っていました。その頃は川原が殆ど牧草地のように成っていて、その所どころに、松ノ木があり何ともいえないように綺麗に整理されていました。そこに隣の家では牛を連れて行き放し飼いにしていました。川原の幅が300メーター位あり川上に1000メートル程あるので本当に好い運動場でもあり遊び場でもありました。だから牛を放し飼いに出来たのでしょう。手前の橋の上で伯父さんが法螺貝を吹くと牛がどこからとなく集まってくるのです、子供の頃でしたので不思議に思いました。
その平らの綺麗な芝生で、沼田第51連隊の兵隊さんが馬乗りの訓練に良く来ていたようでした。何が言いたかったかと言うとその河原が子供の遊び場所に成っていたからです。
その川原に松林があり松茸が出るところがありました。毎年内緒で摂りに行くのが楽しみでした。
今は農地と川原との境に堤防があり川原には行けません。川原には石砕業者が川原を管理していて石ころだけで砂地はなく近寄る事も出来ません。昔の様な自然の水の流れはなく、これでは子供の川遊びはどうなっているのでしょう。

私が生まれた家・馬屋が三部屋

2011-10-26 14:25:52 | Weblog


昔風に言うと奥行き六間、間口十二間、なんて馬鹿でかい家なのでしょう。土間も広いが左角から馬屋が三部屋その隣に裏口が有り、裏口の通路に釜戸が二つあつた。土間の事は別の所で書きますが、卓球台が置けて試合が出来たのですから、いかに広いか解ると思います。土間の右側に「もろ」がありサツマイモとか寒さに弱い野菜を保管していました。昔し村で映画があると奥の部屋まで襖を外すとの人200名が皆入れるほどでした。あまり家が大きいので奥の部屋を、終戦の疎開者に貸して居たみたいです。
居間の中心に囲炉裏があり奥はうら戸その右に水場と台所の戸棚があり、馬小屋の上が馬の餌や縄などに使う藁『藁は今のように機械刈りでないのでかなりあると思います。』なので全てが入る程の大きな置き場になっている。
囲炉裏の土間から見て正面が、主の座るところでした。主の座っている裏が寝床、この部屋に家族が全部寝られる広さがあり冬でも寒くないほど外からの風の入らない作りになっている。寝床の左脇に大広間、ここでは何でも出来るほど広い、確か30畳ほど有ったと思います。

その中央に何の穴か解りませんが、昔の叔母捨を逃れたとも聞いていました。『其の穴でお役人の目をごまかしていた穴だと聞いていました。』この大広間の右奥に、奥の間と呼び、食料を入れて置く部屋が有りました。ここに取れた穀物を全て入れてありました。

フタ付の一石桶が10個ほど置い
おいてありました。
其の左脇に奥の部屋が有り、その部屋は表に出られるように土間が付いていました。お客さま用だったのかもしれません。其の部屋は神棚もあり掛け軸も有り、何と掛け軸の裏に抜け穴まで開いていました。何とこんなに大きな家なのに、家を支える自重木が無いのには驚きです。柱の下に石があり其の石の上に柱が立っていました。
この大きな平屋作りの家も蚕の時には、屋根裏まで全てを使い本当に上手く広く使っていました。
こうして書き出して見ると文化財にも成るような建物のような気がしました。

母との別れ

2011-10-25 12:31:25 | Weblog

お腹に水が妊婦の生み月のようになり、月に何度も水を抜いていたのを覚えています。こんな病気になるのは子供を生み過ぎかも知れません。あの頃はどこの家でも5~6人はあたり前でした。
病気で寝ている記憶のほうが多いが小学校2年だと思いますが、学校から帰るとお医者さんが来ていて何か話しているので、容態が悪いのかと心配でしたが、どうやら町の病院に連れてゆく話のようでした。大変な事になるように思いましたが母は町の病院に行くのを嫌がっているようでした。小さい子供達を置いて病院に行くのが気掛かりで家から離れるのが嫌だったのでしょう。
いつもより苦しそうでしたが入院しないでお医者さんが来てくれる事に成ったようです。
そんな母でしたが姉さんと良く口げんかをしていました。床の中から姉さんに色々と教えていたのでしょう。母は自分が動けない、じれったさがイライラして姉に当たり散らしたのでしょう。
私は母が寝ているのが解っているくせに学校から帰ると直ぐに『母の事をおっかー』と呼ぶのが癖になっていました。
そんな母がまだ病気にならない時の思い出が母の故郷片品村越本に行くとき15キロほど離れているのですが、バスでないと行けません。バスの窓越しに見る山々が、目の錯覚で山が走っているように見えるのが不思議でした。多分5~6歳の頃だと思います。母の膝の上で窓越しに見た風景なのでしょう。
今一つ面白い話、母の田舎ではお焼を良く作るみたいです。(お焼の作り方)固めにメリケン粉捏ねて中にあんこに季節の野菜、ネギ、茄子、漬物、等を味噌味にして入れる『焙じ鍋』で廻りをほんのり焦がしてから囲炉裏の灰中で焼くので灰が付いているので、其の灰を良く落として食べなさいと言う言葉の意味に『ブチ叩いて食え』と言う方言があります。私の家にいた猫の名前がブチと言う名前でしたので、ブチ叩いて食え。なんか変な言葉に聞こえてしょうがありませんでした。
今一つ、何でと思いますが親同士が話し合って決めたのだと思いますが私と同じ名前の梅吉が母の実家にも居たのです。幾度となく梅と呼ばれると二人でハイ返事をする。
こんな事がよく有りました。
あまりない名前なのに何で同じ親戚にと思いました。

父との別れ

2011-10-25 12:22:34 | Weblog

山仕事と言っても炭焼窯を直していて釜の石が崩れて下敷きになり、そばに姉さんが居たが助ける事が出来なかった、父の事は私の記憶では家にあった写真ぐらいきり有りません。
私が3歳でしたので記憶は殆ど無いが、記憶なのか話で聞いたことが記憶に成って残っているのか解りませんが、の人達が前の川原で怪我をした父を山から運んできた、戸板を燃やしていたことを覚えているような気がします。
父の弟(叔父)が良く来て居たので其の叔父が父に良く似ていたので、間違えて記憶されていたのかも知れません。
姉さんが良く話してくれた記憶では几帳面で怖い父のようでした。

やさしいく 私にも出来る 人生

2011-10-19 11:20:46 | Weblog
想いのまま気儘に私の人生を、思い出しながら書いてみました。
群馬県利根郡東村大字大楊340現在の群馬県利根郡沼田市利根町大楊340番地で戸籍には昭和11年3月22日生父、良作、母、ふく、の5男と成っています。余り詳しくは調べた事は有りませんが12人兄弟の末っ子『なぜか戸籍にはそう成っている。昔の人は本当に子沢山家族が我が家だけでなく多かったと思います。
他人事のようですが、人生50年と言う通り50歳前後で亡くなっています。父は炭焼き小屋で火傷の事故死だそうですが、父の顔など2歳の時ですから知る余地も御座いませんが、周りの人からのお話で聞きました所によるとかなりの、頑固親父のようでした。
お袋は8歳で亡くなりましたが5年ほど床に寝伏せて居たので母の思い出は病院の先生の往診時の姿でした。親の思い出は余り強く残っておりませんが当時は病院の先生に往診して頂く事の費用の事が大変だったようです。病人を出したら家庭が崩壊すると言うぐらい大変でした。兄弟上から女3人下の3人が男ですが、まだ子供です。
15歳を頭に6人ですから一番上の姉が兄弟の面倒を見て、病院費用を用立てる為上から2番目と3番目5番目の3で人質に前借して『義務教育も行かずに出稼ぎ奉公に出されて私たちを育てくれたようです。ですから義務教育を終えて高校に入学が出来たのは私だけでした。』でも何故か不思議に親の居ない寂しさを感じた事は有りません。義務教育を何とか私だけが、兄弟が頑張って卒業までさせて頂きお蔭様で無事に社会人になることができました。私が一番お世話になった一番上の姉も夫婦も仲良く50代で亡くなってしまいました。
そんな生立ちが私の人生の糧に成っているような気がします。一寸横道になりますが結婚したのが23歳、妻18歳若いでしょう。妻も同じような境遇なのには驚きです。父に5歳で死に別れ、母にも12歳で死に分かれ、私と同じく両親が居ませんでした。
そんな二人でしたので本当に誰に気兼ねすることなく自由に遣りたい事をやりこれ以上幸せな人生は無いでしょう。こうして色々思い出すままに書いてみると本当に始めると夢中になり最後まで遣らなければ納得しない性格だと自分で感心しながら自分の人生を振り返っている今日この頃です。自分でも解らないセンチな部分が有るのには驚きです。テレビドラマなどで子供の可哀想な番組を見ると涙ボロボロで見ていられないほどです。