やさしい人生を皆さんと共に

シンプルに気楽に人生を楽しく?

はさみ書き込み『講演会の学習』

2011-11-11 11:23:14 | Weblog
ブログに社会貢献と思い書き込んで見た
中学校の講演を頼まれて何時もそうだが喜んでと答えてしまう

中学・高校時代
さてどんな話をしたら良いか考える。勿論講演料はお断りしましたが、子供の頃あまり良い成績ではなかった。クラスでも目立たない存在でした。通知表で自己評価すると真ん中位の成績だったと思います。私の記憶では手を上げて答えた覚えはありませんでした。
中学生の時二度ほど理科の実験のことで全生徒の前で褒められた事を今でも鮮明に覚えて居ます。
成績の悪い私がクラブ活動とか何か行動をする時は何時もまとめ役でした。現在の事はよく分かりませんが毎年学年末に学芸会の話、当時は成績の良い男女8名位の人が選ばれてやるのが風習でした。成績の悪い私がなぜ選ばれたのか分かりませんでした。あの時やっぱりやれば出来ると皆さんの前で先生に褒められ本当に嬉しかった事、今思い出しても褒める大切さを感じます。
定時制桐生商業高校の時の話、夜学でしたので校長先生に直接講義をして頂く事があり、人と言う文字について講義を受けたことを思い出します。最近テレビなどで人の大切さを教えていますが、社会に出ても人間一人では何にも出来ないことを社業に取り入れて助け合いの心を大切にしております。

ホーム㌻作成
パソコンの勉強は独学なので3年ほど掛かりました。こんな話をすると信じないでしょうが殆どがローマ字英語の分からない私には大変な事でした。アルファベットからのおさらいですので大変な作業でした。今でも会社のホーム作成管理は生甲斐に頑張ってやって下ります。

フルマラソンを始めて30年・完走する事の意義、皆さんも部活をしている方は分かると思いますがマラソンを通して会社の経営を学んでおります。歩く3時間、走る1時間と言われておりますが能力の限界を探すのがマラソンだと思います。目的は何だろう、どんなに辛くても、走り切ったときの喜び、達成感、全ての辛さを忘れてしまいます。毎月200キロ程走り込む目的は何だろう?この準備が無いと完走が無いだろう。
ただひたすら42,195と言うとてつもない長さに尽きるでしょう。マラソンしている人の健康をみてください何歳になっても自分の健康が自慢になります。
言葉では簡単ですが行動有るのみです。皆さんも今から体を動かして自分の限界を探してください。これが社会奉仕に繋がるのです。

就職活動・会社が欲しい人材
入社式に一人ひとりに挨拶をして貰いますが大きな声で心の底から挨拶の出きる人そんな方を募集しております。私の経営理念は挨拶・やさしい一言です。
マナー例
自然から学んだ優しさと思いやり、山に登った事有りますか?朝お母さんにおにぎりを作ってもらいリュックを背負い近くの目的地まで多分車か電車でしょう。目的地に向かい、いざ出陣?山登りのマナー誰が教えるでもなく狭い上り坂で下りの人との出会いに下りの人が崖側によけて上り優先にする、挨拶も朝ならばお早う御座います。昼ならば今日は下ってくる人にはお疲れ様、なんでこんな良い事が自然に出きるのでしょう。もっとやさしく考え事業にこれが出来ないものかと取り組んでおりますが、時間が掛かりそうですが頑張っております。

人生に大切なもの
最後に大きな声で挨拶が出来る人に成ってください。誰もがあの時もっと頑張ってやれば良かったと必ずそう思うが後の祭りです。


真綿作り

2011-11-10 15:49:33 | Weblog
『正式の呼び名は解りません。』

見た事をそのままの話、繭の大き過ぎた物や蛹が出て穴の空いてる繭を釜で良く煮てふやかして置くと大きくなります。水の中でピチャピチャと叩くとやわらかくなり、少し大きくなったら穴を開けて其の穴から指を入れて少しずつ広げて行き、厚い板に30センチ四方に5寸釘を半分ほど打ち込んで其の真ん中に平らの石を置き、釘の頭にひやかした繭を上手く四方に掛けて、ここで中の蛹『さなぎ』をとり平らに広げて作るのです。これを30枚ほど重ねて乾燥するとふんわりとした真綿の出来上がりです。
『真綿の使い方は用途によって違いますが、布団の場合は布と綿を動かないようにする役割』
囲炉裏端などで着ると暖かい、どてら、半纏に袖の無い、綿入れなどです。はんてん、寝るときに掛ける時とか子供をおんぶする時に使う着物『綿入れの着物』

鍛冶屋の叔母さん

2011-11-05 10:53:52 | Weblog
『親戚付き合いの追貝の鍛冶屋の叔母さん』

どんなお付き合いが有ってのことか解かりませんが、ちいさい時から祭りなどに、とまりに行きました。親戚でもないし多分死んだ父が炭焼きの道具を何時も直して居たか、それとも道具を買っていたのかも知れません。叔母さんは良い人でした。小遣いまで頂き可愛がってもらいました。だから祭りが来るのが楽しみでした。その叔母さんの家から学校が近いので帰りにカバンを置いて遊んだこともありました。母か、父の付き合い方がよほど良かったのでしょう。こんな付き合いが今の時代にあったら世の中が住みやすくなるでしょう。

親切な停留場の叔母さん

2011-11-02 09:57:16 | Weblog
『本当に良くしていただきました。』

あの頃床屋さんは何時も停留所の叔母さんにしてもらうのが当たり前のようにして頂きました。今考えるとあの親切な人の心が懐かしさだけが残ります。
今でも覚えているのは私ばかりでなく、どこの家でも『シラミ』が居て頭にまでたかっていて退治してもらった事を良く覚えています。
肌着の縫い目などにも卵を産み付けてあり退治するのが大変でした。囲炉裏の火で煮て退治してもらったことなど、昔話にもならないようなことが沢山あり本当にあの頃は皆で何とか生活して居たように思います。停留場の叔母さんにも私と同じ年の同級生の女の子が居て同じ様な境遇だったと思います。
頭にたかったシラミ退治のやり方はバリカンで短く刈り今では使用禁止の『DDT』を良くこすり込んでいました。

赤いパンツ

2011-11-01 15:09:50 | Weblog
何歳の頃でしたか
父には三人兄弟がいて一番上の叔父と一番下の叔父が大原にいて真ん中の叔父が(とやま)追貝の原の奥のほうにある小さな開墾でした。
父母が早く亡くなっていたので多分叔父達が話し合って面倒を見てくれたのでしょう。今もそうかも知れませんが私が小さい頃は田舎ではごとに春夏秋と楽しい祭事が有りました。が10ケ所位あり祭りがかさらない様に有るので、あっちのこっちのと、泊り掛けで、よく行きました。
一番上の叔父さんの家に泊まりにいったときの出来事に、赤いパンツがありました。
今考えると本当に叔父さん達が気を使って面倒を見てくれていたのがよく解ります。何か祭事が有る度に本当に良く泊まりがけで遊びに行きました。そんな晩の出来事でした。梅お風呂に入れと言われたので今日は入らないと言ったらいつも喜んで入っているくせに早く入れと叱られてしまいました。私は小さい頃から泣き虫で余りハッキリ言える性質ではなかったようです。
叔父さん叔母さんが親切に言ってくれるのに泣きだしてしまい、家に帰るの、何で帰りたいのかと聞き正されても何としても帰るとの一点張りで言う事が出来ないでいると、姉が来てそうか梅は赤いパンツをはいて居るのを見られたくないのだろうと言われて、みんなを困らせた事を覚えています。情けない言い訳、その頃はパンツなんて無い、ふんどし、秋祭りと言えば結構寒い頃モンペ下に、ふんどし、姉が作ってくれたパンツのような股引『姉の腰巻を治して作ったヘンテコなパンツ』毛糸で出来ているので履いては暖かい、でもこの色が真っ赤子供心に、赤いパンツを見せたく無かったのでしょう。