やさしい人生を皆さんと共に

シンプルに気楽に人生を楽しく?

楽しい盆踊り大会

2011-12-28 11:15:28 | Weblog
『今では多分出来ないでしょう。総での盆踊り』
私は小さい時からお盆は9月と思っていました。都会に出てお盆が7月のところがあるのに驚きました。そして又驚いたのには8月盆、お盆の時期が違うのは、農作業が暇の時期を選んだのでしょう。昔は蚕があったので蚕が食べる桑の葉の生育に合わせたようです。
私の田舎は寒いので、殆どのが9月盆でした。3日が迎え盆で6日が送り盆でした。それに合わせて盆踊りが3日が段取りで4日5日が本番で6日が片付け、最初の段取りの日に、やぐら作り、飾りつけそして本番片付けと青年会が主役です。はやしの太鼓は樽、横笛、鐘 八木節どれをとっても全てがの人なんでこんなに大きなイベントが整然と出来るのでしょう。踊り子も子供から全てが村人総出200人位。踊りの種目は、手踊り、手ぬぐい踊り、菅笠踊り、八木節の語りは、の長老が若い人に教えながらやっていたみたいです。
横笛、鐘、太鼓の練習はかなり早くから5、6人でやっていたようです。
昔の盆踊りは音響設備がなかったので八木節も樽太鼓も笛も静かな田舎にはかなり響いていたように記憶しています。
今の盆踊りは音楽で遣りますので音も大きいしその辺が大分違います。

屋根の話でなく麻の話

2011-12-26 16:27:00 | Weblog
『麻は農家では無くては成らない貴重品です。』
私の覚えているだけでも沢山有ります。今ではお店で売っていますが昔はどこの家でも作っていました。作り方は私の覚えている限りでは最初に太さによりますが、手で予めの太さに仕上げの長さの三倍ほど綯っておき、細いロープは芯はいらないので三本よりにする。三人いないと出来ないのですが一人は片方の三本を固定しながらよりをかける。真ん中で三本を上手く調整しながら移動してロープになる。口では説明しにくいがこうして昔の人は時給自足したのである。太いロープは芯があるので一本を固定して作る。
太いロープにして井戸のつるべ縄から細いのでは織物の糸、足袋の裏地の刺し糸に、本当に貴重品でした。
麻がどのようにして出来るか、2メートル程になった、青い麻を畑から刈り取りの一か所に集めてで準備した麻釜で『大きな長さが2メーター幅が70センチ深さが50センチ位の釜をで持っていて』麻の取入れる頃に成るとが交代でその釜で麻を茹で柔らかくして皮をむいて乾燥させてロープなどにしています。細い細工用の麻糸は、先ほどの茹でたての内に、金へラで硬い部分を取り除き、あの白い綺麗な麻に仕上げます。

合羽・箕の・草鞋・麻・マニラ麻

2011-12-22 14:23:44 | Weblog
『全てが自給自足でした。』
本当に昔の人は良く働いた。合羽、箕、草鞋、を全て自家製で作るのですから寝る暇がないようです。友達同士の家を交代に藁を持って行き3~4人で集まり世間話をしながら藁を叩いて柔らかくして縄を綯い作るのを見ていると本当に楽しそうに次から次へ仕上げるのです。
昔の人の手は魔法の手のようです。

『麻のみは美味しい』
昔は今のように規制は無く何処の家でも作っていました。麻の実は琺瑯鍋で炒って香料にするといい香りがして美味しいです。
麻殻が子供の遊び道具に成っていたからかも知れません。軽くて白くて真っ直ぐですので弓矢とか、笛、焚き火の付け火などです。
又茅吹屋根の下地に無くては成らない材料でした。『茅吹屋根と言っても私の覚えている限りでは一番下に竹の簾、そのうえにオガラ『麻殻』『オガラとは麻をむきとった残りの部分の事』そして麦藁、そのうえが茅』麦藁は茅の代わりに使ったのだと思います。


雪の中で履く履物『今は無くなってしまった』

2011-12-19 10:54:21 | Weblog
『藁靴かもしれない』
呼び名は解らないが、藁で作るのですが見た目より軽くて暖かい履物です。終戦後、長靴は配給制でくじ引き、それも当たってもお金がなければ買えません。そんな時代でしたので冬の履物として藁靴は大切な履物でした。毎晩のように『夜なべ仕事にして作り貯めていました。』この夜なべ作業が楽しそうにも見えました。男女共に集り藁を柔らかく叩き、足なっかー作りも、そうでした。どこの家にも夏の履物に200足~300足位作り貯めして置くのでした。

はさみ書き込み『20日は講演会です。中学校は初めてです!』

2011-12-18 10:43:46 | Weblog
ちょっと緊張しています

中学生なのでどんな話をしようか考え中です。いつもやっているのになぜか気上がり気味です。私は原稿が苦手なので頭の中で何をしゃべるか整理して時間配分をします。
お役所みたいにお偉い人ばかりの時は意外に話しやすいですが中学生の場合はどうなのか?こんな事を書き込みするのですからかなり緊張しているようです。
まず自分が中学生になりきって60年昔を思い出して何を考えていたか整理して?
ほとんど忘れている。何でこんな爺を頼みに着たのかその辺を考えれば話がし易いのではないか、多分そうなんだと勝手に考えて話をまとめよう。こんな風に考えれば良いのかもしれません。と思うことにしたら急に頭の中が楽になりました。講演は自分磨きには最高です(心でにんやり)

3人一緒の丁稚奉公

2011-12-17 15:35:01 | Weblog
『集団就職県内桐生市立商業高校に通いながら勤める』
最初は、只の丁稚奉公でした。学校から約束して行ったのは、働きながら夜学に行けることが一番の目標でした。丁稚奉公に入ってから一年が立ち、夜学のことなど忘れて居た見たいに言われましたので学校に問い合せて話して貰ったら、夜学行ける様に成りましたが何かぎくしゃくして余りうまく行きませんでした。桐生市立商業高校定時制でしたがまだ定時制制度が初めての時でしたので入るのがかなりやっかいな制度でした。中学の担当の先生が頑張ってくれて何とか3年程通う事ができました。卒業こそしなかったが其の当時の先生が、好い人ばかりで、私の人生を変えたのは多分こんな経験からだと想います。夜学で先生が少なかったみたいで、良く教えて頂いた校長先生の講義の中に出てきた言葉に人生『人とは文字で見た通り助け合い生きる』と言う言葉があり今でもスピーチなどで使わせて頂いています。

わり込み『ホノルル報告』

2011-12-15 13:30:54 | Weblog
ホノルル完走報告、走り込みは無駄でなかった
タイムは5時間23分私が行ったツアーでは一番年寄りでした。初心者が70%それに女性が多かった。前にも触れましたが足の捻挫で走りこみ不足がたたりタイムには結果が出ませんがかなりきっく感じました。今年は雨に遣られませんでしたがヤッパリあつかった。女房もいつもより楽そうに完走しました。これで夫婦二人で完走19回目の年中行事が終わりました。
朝3時にホテルをスタート地点までツアーの方と一緒に約4キロの道則を徒歩で行きスタートを待った。あちら、こちからからのランナー選手達が続々と集まり何時の間にか沿道が埋まるほどの賑わいに成りました。毎年の光景ですが花火を合図のスタートするのですが、この花火が一番の盛り上がり、ホノルル時間の5時は日本の6月位の気候と同じです。朝は20度位ですが太陽が上がって来ると27度位になる。5時間位で走る人には良いが7時間組みはもろに暑さに遣られてしまう。だからホノルル名物のシャワーに遣られると丁度良い感じ。
例の如く完走パーティの乾杯の挨拶も無事に終わりやっと今年の行事が終わった感じ、皆さん応援有り難う御座いました。

はさみ書き込み『19回目のホノルルマラソン今週の日曜日に!』

2011-12-07 12:10:15 | Weblog
『先々週小江戸川越マラソンが終わり今年最後のマラソンです』
昨年時間が掛かり過ぎたので今年は走りこみを何時もの年より多めにはしりこみました。
それが良しと出るか走って見ないと解りません。今食事をしながら今年は6時間を目標に無理をしないで遣って来ると言ったら娘に活を入れられた。先週ハーフを2時間2分で走ったくせに4時間30分位で走って来なさいと言われた。
急に心が引き締まる思いをしました。自分に甘えていたのかもしれませんね、兎に角よく走りこんだ事には間違いありません。途中でギブアップしない様に自己管理をしながら頑張って見たいです。この写真は今から8年前の写真です。この時は4時間で走れたのですからもしかしたら4時間30分位で行けるかも知れません。何時に成ってもこれでは年を取れませんですね。女房ともよく話し合ってそこそこ頑張って走って見ます。

小学6年生の時泊まりに行った思い出

2011-12-07 11:37:18 | Weblog
『小森と言う山奥の不便な所で友達が住んでいた』

でもここには私の従兄弟が農業をして住み着いていたのだから昔の人は大変なことをしていたのです。それ以前に2回ほど従兄弟のところに行ったことはありましたが、その山奥に仲の良い友達が引っ越して行くとは思ってもいませんでした。其れと言うのは戦後東京から親戚を便りに疎開して来たので農地も無く、たったの二軒きりない寂しい山奥にまで行かなければ農地が無いので行か無ければ成らなかったのでしょう。私のから二時間も歩かなければ成らない、友達の家族はお母さんと姉さん妹と4人、電気も無い所に行かなければ食べて行けなかったのです。
冬になると私のところより200メートルほど高地の為、雪が多く降るし山が近いせいか早く暗くなるし、考えただけでも恐ろしいです。泊まりにこないかと言われて学校から歩くこと二時間、やっと着いたのが夕方の五時、もう辺りが暗くなっていました。お母さんが本当に嬉しそうでした。二人で入った風呂、寝た時の毛布、東京からの毛布、田舎にはそんな贅沢な物は無かったあの温もりの毛布の思い出が今でも忘れられません。頭が良かったその友達も肺癌の為45歳でなくなってしまいました。こんな記録はどこにも残っていないでしょう。この友達を東京に運転士として連れてきて、可愛い奥さんを貰い幸せそうでしたのに残念です。?

中学生の思い出

2011-12-05 16:43:43 | Weblog
『学芸会に初出場』

何と言っても一番の思い出は、学芸会に出たことでした。
それまでは間違っても先生に選ばれる事なんか無かったのに3年生に成った頃から私なりに頑張って勉強をしたのが先生に認められたのでしょう。人前で手を上げて勉強した事のない私が学芸会に参加したのですから其れは私にとっては大変な事だったのに間違えありません。
この先生は私の担任で一番苦手の英語の先生でした。やればできるとみんなの前で私の事を褒めてくれた事をいまでも良く覚えています。
最近会社でも叱ることより褒める事の難しさを学んだのもこんな事からかも知れません。

3人一緒の丁稚奉公

2011-12-05 15:59:19 | Weblog
『集団就職県内桐生市立商業高校に通いながら勤める』

最初は、只の丁稚奉公でした。学校から約束して行ったのは、働きながら夜学に行けることが一番の目標でした。丁稚奉公に入ってから一年が立ち、夜学のことなど忘れて居た見たいに言われましたので学校に問い合せて話して貰ったら、夜学行ける様に成りましたが何かぎくしゃくして余りうまく行きませんでした。桐生市立商業高校定時制でしたがまだ定時制制度が初めての時でしたので入るのがかなりやっかいな制度でした。中学の担当の先生が頑張ってくれて何とか3年程通う事ができました。卒業こそしなかったが其の当時の先生が、好い人ばかりで、私の人生を変えたのは多分こんな経験からだと想います。夜学で先生が少なかったみたいで、良く教えて頂いた校長先生の講義の中に出てきた言葉に人生『人とは文字で見た通り助け合い生きる』と言う言葉があり、今でもスピーチなどで使わせて頂いています。

小学6年生の時泊まりに行った思い出

2011-12-05 15:16:23 | Weblog
『小森と言う山奥の不便な所で友達が住んでいた』

でもここには私の従兄弟が農業をして住み着いていたのだから昔の人は大変なことをしていたのです。それ以前に2回ほど従兄弟のところに行ったことはありましたが、その山奥に仲の良い友達が引っ越して行くとは思ってもいませんでした。其れと言うのは戦後東京から親戚を便りに疎開して来たので農地も無く、たったの二軒きりない寂しい山奥にまで行かなければ農地が無いので行か無ければ成らなかったのでしょう。私のから二時間も歩かなければ成らない、友達の家族はお母さんと姉さん妹と4人、電気も無い所に行かなければ食べて行けなかったのです。
冬になると私のところより200メートルほど高地の為、雪が多く降るし山が近いせいか早く暗くなるし、考えただけでも恐ろしいです。泊まりにこないかと言われて学校から歩くこと二時間、やっと着いたのが夕方の五時、もう辺りが暗くなっていました。お母さんが本当に嬉しそうでした。二人で入った風呂、寝たと時の毛布、東京からの毛布、田舎にはそんな贅沢な物は無かったあの温もりの毛布の思い出が今で忘れられません。頭が良かったその友達も肺癌の為45歳でなくなってしまいました。こんな記録はどこにも残っていないでしょう。この友達を東京に運転士として連れてきて、可愛い奥さんを貰い幸せそうでしたのに残念です。?


土方仕事

2011-12-05 12:49:27 | Weblog
『夏休みに兄と土方仕事に行き稼いだ経験』
田舎の夏休みは長く、体の大きいのを武器に兄と一緒に行き働きました。モッコかつぎ、堤防の穴掘り等大人の人と同じ仕事をし、中学生と言う事がバレない様に働き高い賃金を頂いたことを覚えています。冬休みは山に薪切りに行き良く働きました。今のように石油がない時代でしたので薪は大切な燃料資源で工場やバスの燃料になくては成らないものですので高く売れたようです。一日に50束位作り良い稼ぎに成ったような気がします。
お陰で修学旅行の費用や洋服など自分で作る事ができました。子供の頃から自分の事は自分でしなければと言うことが自然に身に付けたみたいです。

次男

2011-12-03 17:12:48 | Weblog
『このころ世の中が一番変わった時代でしょう。』
通知簿で世の中の変化を書いて見ます。
義務教育6 昭和何年か解りませんが 甲 乙 丙 丁
義務教育6/2昭和17年頃から 優 良上 良 良下 可
義務教育6/2昭和20年頃から +3 +2 +1 0 -1 -2 -3
義務教育6/2昭和23年頃からかな 1 2 3 4 5
直ぐ上の兄の学歴は中学2年迄、義務教育の見直し時期でしたので、どちらでも良かったのですが、中学3年まで行った人と行かない人が半々位でした。学校にも行かず家の為に何でこんなに働くのかと思うぐらい良く働いていたように思います。
土方仕事、薪きり何でも、私が中学を卒業して商店に小僧奉公して帰る迄でしたから多分4年ぐらい経っていたと思います。兄貴と将来の事を良く話した事を思い出します。20歳に成ってから自転車屋に小僧奉公に行き、其れから兄貴の人生ががらりと変わり、当時は本当にうらやましいほどの良い人生に見えました。何がきっかけで変わるか解りませんが、当時は村の目抜き通りの一等地を250坪も買い自転車から自動車販売も出来る家を建築し、華やかな人生そのもので順調でした。
ところが、国土計画で国道が移動になり路線が変わり、現在では車は殆んどの人が通るぐらいです。本当に世の中の移り変わりを見て先見の目を見損なわないようにしないとなりません。世の中の変化を捕らえて計画しなければなりません。人事でなく世の中を見る目を養いたいです。そんな訳で商売も思うようにうまく行かず、大分前ですが援助して欲しいと言われ、兄に15年ほど前ですが援助しましたがいまだに回収出来ません。金額こそ違いますが兄貴には世話にもなりましたので諦めるきりしょうがないようです。気持ちだけでも頑張って欲しいです。今では以前とまったく違った田舎のお店になってしまいました。ちょっと残念