うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
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女子バレーが史上初めて五輪のメダルを逃してから22年(上)

2010年09月26日 | 団体球技(室内)
現在、イタリアでは男子バレーボールの世界選手権が開催されてます。そして、女子大会は、来月の10月29日から11月14日まで日本で開催されます。それにしても、相変わらずバレーの大きな世界大会は日本開催ですねぇ~(苦笑)。私は日本女子バレーが黄金時代だった1970年代前半に生まれました。なので、この黄金時代は幼少の頃なのでリアルタイムでは記憶には殆ど存じませんが、1980年代以降のバレーなら少しは分かります。今回は日本女子バレーにとって分水嶺となった1988年ソウル五輪の記憶を紐解きながら話したいと思います。



ソウル五輪の女子バレーの出場国は、12ヶ国の現在と違ってまだ8ヶ国の時代でした。出場チームは開催国の韓国の他に、前回ロス五輪優勝の中国、ソ連、東ドイツ、ブラジル、ペルー、日本、キューバ・・・となるはずでした。ところが、北中米カリブ海代表だったキューバ(1986年世界選手権準優勝)は友好国の北朝鮮に配慮して大会をボイコットした為、同地区2位で前回五輪銀の米国にお鉢が回ります。大会は抽選の結果、日本はA組に入り、ソ連、東ドイツ、韓国と一緒になります。対するB組は、中国、米国、ペルー、ブラジルとなりました。

1980年代の女子バレーは圧倒的に中国が強かったです。中国は1979年のアジア選手権では、1976年モントリオール五輪優勝国の日本を倒して初めてアジアの頂点を制し、橋頭堡を築きます。期待された1980年モスクワ五輪こそボイコットしましたが、1981年の日本開催のW杯で日本、ソ連、米国、キューバなどを倒して7戦全勝で優勝を飾り、世界3大大会(五輪、世界選手権、W杯)を初めて制覇。この大会以降、中国は、1982年世界選手権、1984年ロス五輪、1985年W杯、1986年世界選手権と世界大会5連勝を飾り、黄金時代を築きます。しかし、エースアタッカーの郎平が1986年に引退したこともあり、チーム力が落ちてました。

一方、日本はボイコットしたモスクワ五輪の翌1981年に地元で開催されたW杯こそ2位に入りますが、翌年にペルーで開催された世界選手権では4位に終わり、世界3大大会の表彰台を初めて逃します。ロス五輪こそ銅メダルは確保しますが、翌1985年のW杯では4位、1986年世界選手権では史上最低の7位に終わるなど、強豪国には全く歯が立たずに低迷を印象付けました。また、この頃はナショナルチームの編成を巡って、選抜チームか単独チームにするのか、揺れ動いていた事も少なからぬ影響がありました。

1970年代まで日本と世界の覇権を争っていたソ連も、地元開催のモスクワ五輪こそ優勝しましたが、この大会は金メダル筆頭だった日本と、躍進著しかった中国と米国がそれぞれボイコットで不在だった為、主要国が不在の骨抜き大会でした。モスクワ五輪以降のソ連は、ロス五輪の報復ボイコットの影響や、中国や中南米勢の台頭を許したこともあり、世界の頂点から転落して成績不振に陥ります。過去に五輪で金メダルを獲った3ヶ国はそれぞれ不安を抱えてました。他の参加国もレベルアップし、メダル候補のキューバが不在という事もあったので、大会は混戦が予想されました。



1988年9月20日、日本は初戦を迎えました。相手は五輪で3度優勝経験のあるソ連。平均身長173cmの日本は出場8チーム中、下から2番目の小柄なチームでした。大型チームのソ連には10cmも劣ってました。日ソ両国はこの年は7度対戦し、日本の3勝4敗。しかし、この頃のソ連は、1981年W杯3位、1982年の世界選手権は6位、1985年のW杯は3位、1986年の世界選手権は6位と成績不振でした。さらに、1987年の欧州選手権の決勝戦で東ドイツにフルセットの末に敗れて準優勝に終わって五輪出場権を得られず、世界最終予選に回る事を余儀なくされたほどでした。それでも、日本はソ連よりも低迷していたので、下馬評では不利と予想されてました。

日本のメンバーは、結婚後ナショナルチームに再び復帰した丸山(旧姓・江上)由美が主将でした。右膝の大怪我から奇跡の再起を果たした中田久美がセッター。攻撃の中心には、21歳の若さで日本を背負っていたサウスポーの大林素子。センターは世界にひけを取らない高さとパワーを持つ廣紀江。その他に杉山加代子と藤田幸子がレギュラーでした。対するニコライ・カルポリ監督率いるソ連は、セッターがイリーナ・パルホムチュック(のちにクロアチアに帰化)。センターがワレンチナ・オギエンコ。そして、イリーナ・スミルノーワとタチアナ・シドレンコの2人の若手エースを擁してました。日本とソ連は、過去の五輪では4度も金メダルを賭けて戦い、お互いに2度ずつ分け合った文字通りの宿敵です。因縁のあるこの両者が、いきなり初戦で対戦しました。

ソ連のサーブで始まった第1セット(なお、この当時のルールは全セットが15点先取のサイドアウト制です)。大林素子と廣紀江のサービスエースと丸山由美のブロックが冴え渡り、なんと日本が僅か11分で15-2でものにします。その後、第2セットはイリーナ・スミルノワの強打が冴え渡り、ソ連が15-8で奪い返します。第3セットは両チームとも競り合いますが、終盤に廣のブロックが決まり、今度は日本が15-12で奪います。次の第4セットも一進一退の展開でしたが、日本は大林の強打がソ連のブロックに捕まり始め、サーブでも守備が崩されてしまい、ソ連に10-15で奪われます。お互いに一歩も引かない緊迫した展開となりました。

最終の第5セット。序盤はソ連に2-5とリードを許すものの、廣と大林の強打が決まり始め、日本が11-10と逆転。そして、ここからが本当の死闘の始まりでした。日本が14-12とリードを奪い、あと1点で勝利まで漕ぎ着けますが、ソ連が驚異的な粘りで同点に追い着きます。デュースのあと、逆転したソ連がマッチポイントを2度握りますが、今度は日本が同点に追いつき、逆に18-17とリードします。この後、ソ連が激しく抵抗し、次の1点が中々入らずスコアが動きません。だが、8回目のマッチポイントを迎えた日本は大林が決めて、ついに2時間にも及んだ死闘に終止符を打ちました。


☆壮絶な戦いとなった、五輪で通算5度目の日ソ対決のファイナルセット(1988年9月20日 @漢陽大学体育館)



日本の山田重雄監督が「私の三十年に及ぶ監督生活のなかで、歴史に残る勝利だ」(1988年9月21日 朝日新聞朝刊より)と述べているように、日本は強敵ソ連相手にフルセットに渡って壮絶な死闘を演じ、初戦で大きな白星を手にして幸先の良いスタートを切りました。日本はこの初戦のソ連戦を相当重視していたので、メダル獲得に向けてこのまま勢いに乗るのかと思われました。

ところが、日本は3日後の次の試合で思わぬ躓きをします。欧州王者の東ドイツは、初戦で開催国の韓国に1-3で敗れてました。なので、この日本戦も続けて落とすと、限りなく予選敗退に近づく事を意味します。一方、日本は2連勝すれば、準決勝進出がほぼ濃厚となる状況でした。試合は第3セットまでは日本ペースで、セットカウントを2-1で日本がリードします。しかし、第4セット以降は東ドイツの強打をまともに受けて劣勢に立たされます。リズムが狂った日本は第4セットを2-15、最終の第5セットを7-15と簡単に失い、逆転負け。これで、この組は4チームが全て1勝1敗となり、最終戦の勝者が準決勝に進出する状況となりました。

9月25日の予選リーグ最終戦。相手は地元の韓国でした。耳を劈くような敵地での大声援の中、試合は行われました。第1セットは、敵地の異常な雰囲気に呑み込まれて浮き足立ってしまい、日本は攻撃が単調になって得点が伸びません。逆に、韓国の強打や露骨な地元判定を下す審判の偏ったジャッジも日本に不利に傾き、このセットを8-15と失います。だが、第2セットは右への移動攻撃が冴え、日本の一方的なペースになって15-3で奪い返し、波に乗り始めます。第3セットこそ競り合いますが、日本が15-11でものにします。そして第4セット、大林と廣の移動攻撃が随所に決まり、日本がこのセットを15-8でものにして3-1で韓国に勝利。ソ連に次いで予選リーグ2位で準決勝進出を決めました。

準決勝で待ち受けていた相手は、日本にとって因縁めいた相手でした。
そして、日本はその相手と壮絶な戦いを繰り広げることになります。


(以下、次号へ)

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3 コメント

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思い出しますよ (こーじ)
2010-09-27 00:41:44
 86年の世界選手権では東ドイツやブラジルにも負けるなど‘ここまで弱くなったのか’と驚愕してましたけど、五輪本番になったら・・・と
いう淡い期待も持ってました。

 それが全てを賭けるといわれていたソ連戦。
 第1セットを取った時は‘楽勝かも’と思っていたらフルセットになってマッチポイントを奪われた時に最後のタイムアウトが残っていて助かったと思ったのを覚えてます。

 最後はパルホムチュックがトスアップに失敗して西田善夫アナの‘決まった’が印象に残ってます。

 だから東ドイツ相手に第3セットを取って2-1とリードした時点で‘勝った’と思ったのですけどね。

 韓国戦は負ける相手ではなかったので安心してましたが、酷いラインジャッジが印象的でした。

 とりあえず2位だったもののBグループを2位通過したのが中国だったので‘2位でラッキー’と思っていたのですけどね。
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コメントありがとうございます (猫なべ)
2010-09-27 01:23:43
こんばんは、こーじさん

たしかこのソ連戦は中3の時でしたが、友達と一緒に掃除の時間にサボって放送室で観てました(笑)。
フルセットにまで縺れ込んだので、肝心の勝利の瞬間は生で見られませんでしたが、
ソ連に勝った時は少なくともメダルは間違いなく獲れるかと思いましたけど・・・。

また、この当時のソ連が印象的だったのは、お世辞にも美人ではなかったことですかね。
スミルノーワは、オバさんみたいなパーマを掛けているから、てっきり30代の引退間近のベテラン選手かと思いましたが、
実はソウルの時はまだ20歳だったのには驚きました(笑)。

ソ連からロシアに変わって、女性選手が随分と垢抜けているのをみると、時代が変わっているんだなぁと思いますね。
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Unknown (あん)
2013-02-22 16:53:52
ソウルオリンピックについて調べていたら、このブログにたどり着きました。もう四半世紀がたってしまいましたね。私も中学生のころ見てましたよ。

ソ連戦は第2セット以降は相当おされてましたよね。第3セットだって8-12までリードされての7連続ポイントでしたし…。

こーじ様のおっしゃることはすごくよくわかります。山田さんは当時、2点リードされるとタイムアウトをどんどんとる監督でしたから、第5セットで2-4の場面で取り、6-8でコートチェンジをして6-9のところで取るかなと思っていたら取らなかったんですよね。あのタイムアウトが15-16の、それもスミルノーワにサービスエースを決められた段階で使えたのは大きかったです。あれなかったら負けていた可能性が高いですよね。でも東ドイツ戦は、第5セットで0-2と0-4の場面で連続的に使ってしまい、7-11まで追い上げてきて突き放された場面で使えなかったということもありました。

韓国戦はよく勝利を拾ったなという印象です。1つ負けて第1セットを失って、完全アウェーの中での勝利ですから。

あとはチビッ子軍団(失礼)が好きでしたね。藤田幸子、佐藤伊知子、高橋有紀子とか。ほとんど出なかったけど(もしかしたら全然?)山下とか。佐藤と山下はあの身長で日本電気を引っ張っていたんだから大したもんです。
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