うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
のんびり更新しますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。

女子バレーが史上初めて五輪のメダルを逃してから22年(中)

2010年09月27日 | 団体球技(室内)
日本の準決勝の相手は、B組を3戦全勝で首位通過したペルー。実はペルーと日本は深い縁があります。それは、日本人の加藤明がかつてペルーを指導していたからです。1965年、母校(慶応大学)の先輩の松平康隆を通じてペルーから指導者の要請があり、加藤は悩んだ末に引き受けて現地に赴任。だが、当時のペルーはあまりにも低レベルで愕然とします。しかも、裕福な家庭で育った白人主体のチーム編成だったので、選手の多くはお嬢様気分で真面目に練習をやらず、精神的にひ弱でどうしようもないチームでした。だが、加藤はそんな白人選手達を全員辞めさせ、ペルー各地を回って人種に関係なく身体能力の高い選手を大勢集めて、猛練習を課します。

当初はチームの内外から反発があったが、加藤は選手達に「日本が戦後の荒廃から復興して繁栄の礎を築いたのは、努力と礼節の賜物だ」と力説。また、練習だけでなく精神面や生活面も指導したり、時には選手達と食事を囲って坂本九の「上を向いて歩こう」をギターで弾いて一緒に歌うなど、選手の心を次第に掴み始めます。そして、ハングリーで精神力の強い選手達も加藤を父のように慕い、メキメキと上達。チームも次第に頭角を現し、メキシコ五輪では低い下馬評を覆して4位入賞を果たすなど、「拾って繋ぐバレー」で弱小国だったペルーを世界的な強豪に引き上げる基礎を作ります。

だが、加藤は1982年3月20日、49歳の若さで現地リマで永眠。ペルー国民は恩人に弔意を表する為、車のクラクションが一晩中鳴らされ、新聞の一面の見出しも「ペルーが泣いている」と報ずるなど、最大級の哀悼の意を示しました。その後、ペルーの監督になるのが、加藤の下でアシスタントコーチをしていた韓国人の朴万福(のちの女子のイトーヨーカドーの監督)です。同年9月に地元ペルーで開催された世界選手権。ペルーは2次リーグ最終戦で、加藤の母国の日本を3-1で降して準決勝に進出(なお、この試合は日本にとっては消化試合です)。準決勝でも米国を破り、中国との決勝戦こそストレートで敗れるものの史上最高となる準優勝を飾ります。加藤が17年かけて蒔いた種が花を咲かせた瞬間でもありました。


☆1984年5月27日に放送されたNHK特集「ペルーの英雄 アキラ」より(※1~6まであります)



一方、日本はこの大会は4位に終わり、初めて世界選手権の決勝進出を逃しただけでなく、世界3大大会(五輪、世界選手権、W杯)で史上初めて表彰台を逃す失態を犯しました。しかし、1983年11月に福岡で開催されたアジア選手権(兼・ロス五輪アジア予選)では、日本は全7試合をストレート勝利で飾って優勝し、復活の兆しを見せます。内容的にも素晴らしく、中でも苦手にしていた世界女王の中国にストレートで完勝した試合は今でも語り継がれてます。翌1984年ロス五輪では、中国を倒した余勢を駆った日本は金メダル獲得を期待されました。だが、準決勝では朗平の活躍で中国(ちなみにこの大会が五輪初参加)にストレート負けを喰らってリベンジされ、史上初めて決勝進出を逃しました。2連覇が期待された1980年モスクワ五輪をボイコットしたことも、少なからぬ影響がありました。

ロス五輪の3位決定戦では、日本は因縁のペルーを3-1で倒して、どうにか銅メダルを確保します。だが、5大会連続の五輪メダル獲得を維持したとはいえ、史上最低の成績でした。しかも、東側諸国が不参加の“片肺大会”だったこともあり、この銅メダルはあまり高く評価はされませんでした。そして、ロス五輪で完敗を喫した中国に対して、日本は再び強烈な苦手意識を抱くことになります。1980年代半ば以降は、アジアの頂点も中国に簡単に引き摺り下ろされるなど、五輪の完敗の後遺症が深刻となりました。栄光に彩られた1970年代とは対照的に、1980年代以降の日本は緩やかに下降線を辿っている事が露になりました。

ペルーは、ロス五輪で4位、1985年のW杯で5位、1986年の世界選手権で3位入賞するなど、「拾って繋ぐバレー」の本家である日本を凌ぐ勢いで強化されました。また、朴監督にとっても、祖国に里帰りしての試合だっただけに、決勝進出を賭けたこの日本戦には特別な思いがありました。


☆アジア選手権で世界女王の中国にストレートで完勝して優勝(1983年11月17日 @福岡)



☆日本の落日を印象付けた1984年ロス五輪のダイジェスト



準決勝の行われたのは今からちょうど22年前の1988年9月27日。午前9時45分と早い時間に試合が行われました。チームスタイルが日本と似ていたペルーは、身長も176cmと日本とそれほど変わりませんでした。それとは対照的に、同胞の監督に対する親近感と常軌を逸した反日感情が混ぜ合わさり、会場は“準地元”のペルーへの応援一色に染まりました。日本が勝てば優勝したモントリオール五輪以来の決勝進出。一方、悲願のメダル獲得を目指すペルーにとっても、前回ロス五輪の3位決定戦で敗れた因縁の相手との再戦だけに、心中期するものがありました。試合序盤は圧倒的な応援を背に受けたペルーが完全に主導権を握ります。日本はレシーブミスやドリブルなどが相次ぎ、本来の調子から程遠い内容。第1&2セットは、ペルーが大型センターのガブリエラ・ペレスの強打が冴え渡り、日本をそれぞれのセットを一桁失点に抑えてものにします。

だが、6大会連続のメダル死守が懸かっていた日本も、その後は必死で猛反撃を敢行。第3セットは、大林と廣の連続ブロックポイントで勢いづき、序盤で日本が5-0でリードして流れに乗ります。メダルがチラついて浮き足立ったペルーがミスを相次ぎ、その間隙を衝くように杉山の連続スパイクなどが決まり、日本がこのセットを15-6で奪い返します。そして、第4セット。前半はシーソーゲームでしたが、ペルーが突き放して4-7とリードします。だが、日本もペルーの強打をよく拾って、底力を発揮。徐々に調子の上がった大林と廣が活躍し、藤田幸子に代わって入った佐藤伊知子も大活躍。日本がこの第4セットを15-10で奪い、ついにセットカウント2-2で並び、勝負は最終セットに縺れ込みます。

そして、運命の第5セット。日本は、ペルーのポイントゲッターのジーナ・トレアルバ、デニス・ファハルドのスパイクを大林と廣のブロックで食い止めるなど、日本が優勢に展開。追い掛ける身の日本が、一時は12-9で日本がリード。このままの勢いで日本が試合を制するのかと思われました。しかし、日本は勝利を意識して動きが硬くなり、スパイクアウトの連発と大林のタッチネットの反則を犯してしまい、徐々にペルーに追い上げられます。

そして、この試合の最も重要な局面だったのが13-12の場面。中田は確実にサーブ権を得る為に、この日最も活躍していた主将の丸山にトスを上げ、フェイントを決めたかに見えました。しかし、主審がこれを丸山のホールディングとジャッジしてペルーにポイントを与え、ついに13-13と同点に追いつかれます。そして、このジャッジで試合の流れは完全に変わります。その後、廣のブロードを悉く拾ったペルーは、セナイダ・ウリベが連続得点を奪い、奇跡の逆転勝利を挙げます。この瞬間、日本の3大会ぶりの決勝進出は消滅。同時に、驚異的な粘りを見せたペルーは悲願のメダル獲得が確定。丸山のプレーをホールディングと下した不可解なジャッジは、日本にとってはあまりにも痛恨でした。

前回に続いてまたしても決勝進出に失敗した日本。
6大会連続のメダル獲得を賭けて、2日後の3位決定戦に臨むことになりました。


(以下、次号へ)


☆明暗を分けたペルー戦の第5セットの攻防(1988年9月27日 @漢陽大学体育館)

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3 コメント

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これまでで一番悔しい敗戦です (こーじ)
2010-09-28 23:47:17
 まず日本がグループ2位になったものの苦手の中国ではなく、ペルーになったのでラッキーだと思ってました。

 既に男子はエジプトに勝っただけでグループリーグ敗退していただけにこの時点では大いに期待してましたし、ペルー相手という事で楽観する気持ちがあった反面 ロスのリベンジに燃えているだろうなとも思い簡単な試合にはならないと考えてました。

 しかも監督が韓国人でしたからね。
 ここで松平氏がミュンヘンの時に開催国の西ドイツの監督に教え子を送り込んでいた理由が分かりました。

 2セットダウンから追いついた時点で勝ちを確信してましたし、実際に12点まで先取したので
‘もう大丈夫’と思っていたのですけどね。

 丸山が取られたホールディングは、この大会では男子のアルゼンチンなど露骨に平気でやっていたので‘日本がなぜやらないのか’と思ってましたけど、最後の肝心な場面でホールディングを取られるとは思いませんでした。

 かつてのファイナルカードの日ソでメダルをかけた3位決定戦になるのか・・・・と思っていたの
ですが、事態は最悪のシナリオに突入しますよね。
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コメントありがとうございます (猫なべ)
2010-09-29 19:53:13
こんばんは、こーじさん

東京もミュンヘンもモントリオールもリアルタイムで知らない私にとっては、
このソウルでのペルー戦が、自分がバレーを観た中で最も金メダルに近づいた試合だったと思います。
前回のロスも準決勝に進出しましたけど、世界女王の中国とは明確に力の差を見せ付けられましたから。

私も2セットダウンから追いつた時はペルーがあたふたしてたので、実績で勝る日本の方が断然有利だと思いました。
それだけに、あのホールディングのジャッジはいくらなんでも・・・と本当に恨みましたね(苦笑)。

ちなみに、この大会の男子は、初戦の米国戦で第1セットこそ大健闘しましたが、
試合中に好調だった井上謙が負傷退場した時点で事実上終わりを告げたと思ってます。
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Unknown (あん)
2013-02-22 17:17:30
中国は確かに苦手にしてしましたが、ソウルでの戦いぶりを見たらペルーと比べればやりやすいのではないかと思っていたくらいです。

私は準決勝の相手がペルーと聞いたとき、「ああ終わった」って思いました。5月か6月あたりのNHK杯でもほぼ完敗に近かったし、1セット取れたら大健闘、それ以上はありえないという印象でした。だから中継もあったと思うけど見ませんでしたし、その日のスポーツニュースも見ないで翌日の新聞を見て驚いたのを覚えています。普通なら第4セットで終わりの試合です。あの頃の両チームの差は実際に相当あったと思います。力の差はあっても短期決戦だからこそ読めない部分もあるのでしょうね。

オリンピックで初めてメダルを逃したと言われていますが、冷静に考えたら4位って十分な成績でしょう。ロス以降は散々な結果しか残していなかったのですから…。

男子はおっしゃる通りですね。アメリカ戦の第1セットは驚きの一言でしたが。3セット目は少しずつレギュラーがはずれていって、最後はエリック・サトーにフェイント?かなんかを決められて終了というのは、屈辱以外の何物でもなかったです。アルゼンチンとフランスにも立て続けに負けて完全に終わってしまいました。

そういえば今年の春高バレーの解説者で、その井上謙と熊田康則を久しぶりに見て少し興奮してしまいました。エリック・サトーの兄のゲイリーが日本男子の監督になるっていうのにも驚きましたが…。
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