素敵な男性だと思った。
一つに世界を駆け回って取材する能力があること。
そして、彼の人々に対する優しい視線。
スーツ姿もストールを巻いた姿も、とても魅力的であった。
人質事件が報道されてから、私はずっと祈りつづけた。
地理的にも縁故的にも遠く離れていて、何もできない私ができること、
それは、祈ることだけだった。
例えば、自転車をこいでいる時、泳いでいる時、
この坂を一息に上れたら、この距離をこのペースで泳ぎきれたら、
その力を後藤さんに捧げたい、そんな気持ちで生活していた。
後藤さんは、シリアに入国する直前、
何があっても自分の責任です、と明言する動画を残していた。
だから、彼は自分の命を失くしたとしても、
決して何人も責めるつもりはなかっただろうと思う。
しかしながら、今回の事件は、個人の責任を超えていた。
彼にしても、自分の命の責任は自分で負うとしても、
その命を国家に対する脅迫として利用されるとは、考えていなかったのではないか?
更に、報道する側の人間が、
素材化され、テロリストの言うままに発言しなくてはならない。
そこは、彼にとって大きな誤算だったと思うし、さぞかし苦しかっただろう、と思う。
テロリストは身代金を要求してきた。
しかし、そこで私は思った。
身代金を払ってはいけない。
それは、よく言われるように、
テロリストに身代金を払う→彼らの武器になる、
とか、
テロリストに身代金を払う→日本国民がお金になると思われ、更に狙われる。
そういう理由だけではなかった。
これは、私の単なる推測であるが、
テロリストに身代金を払う、なんてことは、
後藤さんが最も望んではいないことだと思ったからだ。
彼は中東の人々を愛していた。
アラブの兄弟という言い方をしていた。
そんな彼のことだ。
自分にそんな大金を払う位なら、
難民たちにそのお金を使ってくれ、と思っているように感じた。
彼は愛を知ってる人だと思った。
愛する対象がある人にはわかると思うが、
自分の為に、その愛の対象が困ったり傷ついたりする位なら、
自分の身を投じた方が、体はきつくても心は安らかなものだ。
だから彼はきっと、自分の家族に対しても、国家に対しても、
申し訳なさで一杯だったのではないか、
と思うと、可愛そうで仕方がない。
次にテロリストは要求を変えてきた。
その時に私は思った。
これは難しいことになった、と・・・。
交渉においても、最低限の信頼感は必要なものだ。
人質とお金にせよ、人質と人質にせよ、
渡したらきちんと渡してもらわねばならない。
しかしながら、彼らは、その最低限の信頼を持てる相手であるのか?
約束を守ってくれる相手であるのか?
その部分が、まったく見えなくなってしまったからだ。
だって彼らは、日本における、かつてのオウム真理教のようなもので、
こちらの価値観とはまったく違う基準で生きている。
更に、彼らには大いなる信念がある。
例えば、自爆テロがそうだ。
そこだけみても、命の重みに対しても、
まったく違っていることは明らかだ。
そんな彼らから見たら、我々こそが、汚染されていて、淫らで、許せない人間たちなのだろう。
更に、後藤さんは、決して一般人ではない。
ジャーナリストだ。
私は、この平安な日本において、戦士というものがいるとしたら、
ひとつはジャーナリストだと考えている。
ジャーナリストは武器は持たないが、
カメラとペンで世界中に発信できるのだ。
もし、テロリストにとって不都合な真実をつかまれたとしたら、
それでなくても、命の危険があっただろう。
そんなことを考えて、この取引の難しさに私は苦しくなった。
しかし、それが自由と引き換えの責任なのだと思った。
皮肉なことに、
テロリストの発信も、テロリストのリクルートも、
この自由な世界の中で、保障されている。
同時に、私たちは、自由で得た結果を、
苦痛とともに、受け入れなくてはならない。
私は、
かさこさんの意見に賛成だ。
そこには、こういった責任も含まれていると思っている。
自由を愛する国民は、その自由によってもたらされた結果を引き受ける覚悟が必要なんだ。
後藤さんを失くしたことは、とても悲しい。
しかしながら、やむを得ないことだったのだと思って、自分をなだめている。
彼はジャーナリスト(私から見ると戦士)として自分の職場で殉死したのである。
後藤さんが、その全存在を賭けて残したもの。
それは私の心に強く刻まれている。
中東で何が起こっているのか?
何が行われているのか?
私たちは、目を逸らしてはいけない。
後藤さんの存在は、日本国民に中東の問題について、
大いなる危機感を持って注目させる、そういう求心力があった。
戦争は、もちろん反対だ。
しかし、戦争反対!と、念仏のように唱えていれば、戦争がなくなるわけではない。
戦争反対!と言っていれば、戦火が我々を避けてくれるわけではない。
それは、今回のことで明らかになった。
いかに敵でない!というアピールをしたところで、
先方から敵とみなされれば、攻撃しようがしまいが、
このような結論が導き出される。
ナチスはどうやって止められたのか?
それを思うと、他国が干渉せねば、止められないこともあるのだ、という気がしてしまうし、
そうやって迫害されていた人々を助けた、というのも事実なのだ。
戦争はしない。
でもそれならば、そういう立場で何ができるのか、
離れたところで、平和に暮らしているからこそ、考えなければならないのだな、と思った。
考えることは、余裕のある人でなければできないと思うから。
そういうことを、後藤さんというジャーナリストは私に教えてくれました。
私が考えることは、先に書いた祈ることに似ている。
考えたからといって、それが何かの成果を生むわけではない。
しかしながら、後藤さんが失くしてしまった“命”を持っている者だからこそ、
彼が見届けられなかったことを、これからも見届けたい、と思うのである。
後藤さんの魂が、どうか安らかでありますように。
後藤さんのご家族が、どうか立ち直ることができますように。