うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

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平成初の金メダルから20年

2012年02月18日 | ウィンタースポーツ
今から20年前の1992年2月18日、アルベールビル冬季五輪のノルディック複合の団体が行われました。次の1994年リレハンメル五輪からは冬季大会は夏季大会の中間年に開催時期が変更したので、このアルベールビル五輪は夏季五輪と同じ年に開催される最後の大会でもありました。

日本は前年の1991年6月15日に、英国のバーミンガムで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、1998年の冬季五輪が開催が決定してました。このアルベールビル五輪は、長野五輪の開催決定直後の大会でもあり、6年後に向けての強化の意味もありました。ただ、ウィンタースポーツがお世辞にも強いとは言えない日本は、過去の冬季五輪では選手団全体でメダル1個取れれば御の字でした。日本が同一大会で複数のメダルを獲得したのは、地元開催だった1972年札幌五輪の1度だけです。しかも、この時は、ノルディックスキー・ジャンプの70m級で「日の丸飛行隊」が表彰台を独占したので、同一大会で複数の種目でメダルを獲得したことは皆無でした。

しかし、このアルベールビル五輪の日本選手団は多くのメダル有力候補を揃えてました。中でも、大会前に最も注目を集めていたのは、フィギュアスケートの女子シングルの伊藤みどりです。伊藤は1989年にパリで開催された世界選手権でアジア人初の優勝の快挙を達成。1990年7月から規定(コンパルソリー)が廃止されたので、それを大の苦手にしていた伊藤にとっては追い風でした。大会前は、伊藤はライバルの日系米国人のクリスティー・ヤマグチと金メダルを争うだろうと思われてました。伊藤の他には、前回の1988年カルガリー大会で5種目全てに入賞した橋本聖子、宮部兄弟(保範&行範)、黒岩敏幸、井上純一らを擁したスピード陣、この大会から初めて正式種目に採用されたショートトラックなど、スケート競技でメダル量産が期待されてました。

事前の期待が高かったスケートとは対照的に、スキーはどちらかというと地味な扱いでした。アルペンは岡部哲也と川端絵美、距離は佐々木一成(この大会の日本選手団の主将)を擁して入賞は期待されてましたが、日本人が最も大好きなジャンプは当時は低迷に喘いでました。なにせ、カルガリー五輪では個人2種目で入賞者すら1人も輩出してません。極めつけだったのは、この大会から正式採用された団体で11ヶ国中最下位の大惨敗に終わる屈辱を味わったことです。まさに低空飛行の状態でした。この敗北後、日本ジャンプ陣は踏み切りや空中姿勢などの技術で体力差をカバーできる「V字ジャンプ」を導入に踏み切ります。また、W杯にもシーズンを通じてフル参戦します。1991年2月にヴァル・ディ・フィエンメ(イタリア)で開かれた世界選手権では、東和広がノーマルヒルで5位入賞し、ようやく復活の兆しが見え始めました。

実はこの世界選手権では、日本勢は別の種目でメダルを1つ獲得してました。それは、ノルディック複合団体です。複合は、ジャンプの瞬発力と距離の持久力という相反する能力が求められ、ノルディック競技の要素全てが試されます。本場の北欧では「キング・オブ・スキー」と称され、この競技の王者は大変尊敬されてます。この大会の日本は、三ヶ田礼一、阿部雅司、児玉和興の3人が出場し、オーストリアとフランスに次いで3位入賞の快挙を果たします。この銅メダルは、日本複合陣にとって、五輪と世界選手権の両大会を通じて初のメダル獲得でもありました。

日本複合陣は、過去の世界大会ではあまり実績がありませんでした。五輪では、札幌五輪の勝呂裕司の5位が最高成績であり、唯一の入賞です。世界選手権でも、1970年大会の勝呂の8位が最高でした。カルガリー五輪でも、個人では阿部雅司の31位が最高で、初めて正式種目に採用された団体では9位に終わってます。それだけに、「ウィンタースポーツの後進地域」であるアジアの国が、強豪のノルウェー、ドイツ、フィンランドを抑えてのメダル獲得だったので、非常に価値があります。単独の世界選手権大会では、1970年ホーエタトラ(チェコスロバキア)大会のジャンプ個人70m級で2位になった笠谷幸生以来となる、ノルディック競技でのメダル獲得だったので、業界では史上初の五輪でのメダル獲得が期待されてました。

だが、大会前は、複合のことはメディアであまり取り上げてもらえませんでした。やはり、メジャー格のジャンプが長年不振だった影響も、少なからぬあったのでしょうか。それどころか、世間一般には、複合という競技自体があまり知られておらず、選手の名前すら殆ど知られてませんでした。ちなみに、世界選手権の複合の銅メダルを獲得した試合は、テレビ東京で中継してました。ただ、深夜の録画中継だったので、まさに知る人ぞ知る貴重なメダル獲得シーンでした。ただ、“隠れメダル候補”のような扱いだったので、プレッシャーを感じなかったことが、むしろ幸いとなります。

アルベールビル五輪は1992年2月8日に開幕。大会5日目の2月12日、橋本が女子1500mで、優勝候補だったボニー・ブレア(米国)の失速も手伝って3位に入り、夏冬合わせて4度目の五輪出場にして初のメダル獲得を果たします。橋本の銅メダルは、日本女子史上初の冬季五輪のメダリストの誕生でもありました。3日後の2月15日には、男子500mで黒岩が銀、井上が銅メダルを獲得。日本選手団が同一大会で3個のメダルを獲得するのは、実に札幌五輪以来でした。しかも、大会後半戦に伊藤やショートトラックが控えていたので、空前のメダルラッシュが期待されました。ただ、金メダル候補の伊藤は、メディアから過剰なまでの集中的な取材攻勢を受けたこともあり、次第に神経質になって調子を崩していきます。

国民から期待どころか、殆ど注目されない中、伸び伸びと戦ったのが複合陣でした。他国に先駆けていち早くV字ジャンプを取り入れてマスターした日本は、まず個人戦で22歳の大学生だった荻原健司が7位に入り、五輪では札幌五輪の勝呂以来となる入賞を果たします。ただ、個人戦では、五輪に2度目の出場だった阿部が30位と不調に陥ります。日本は、団体ではチームリーダーの阿部を外し、「4番目の選手」で個人戦19位に終わった河野孝典を起用する重大な決断を下します。本来なら、河野は団体ではサポートに回るはずだったので、まさに賭けでした。3人全員が五輪初出場の選手となりましたが、この賭けは吉と出ます。

大会10日目の2月17日、団体の前半であるジャンプを実施。「ジャンプで5分ぐらいつければメダルを狙える」と目論んだ日本は1回目で、荻原が90m、河野が80m、三ヶ田が89mをマークし、いきなり首位に立ちます。続く2回目も、荻原が88.5m、河野が86m、三ヶ田が89.5mをマーク。合計645.1点を挙げた日本は、2位オーストリアに2分27秒、3位ドイツに2分57秒、4位米国に4分28秒とそれぞれ大差を付けて、前半を首位で折り返します。中でも、個人戦で金メダルを獲得したファブリス・ギーを擁するフランスは5分33秒差で5位、距離を得意とするノルウェーが6分16秒差で6位に沈んだことが、他国に比べて走力がやや弱い日本にとって大きなアドバンテージとなります。

翌2月18日、後半の距離を実施。10km×3人で行われる距離は、前半のジャンプでのポイント差をタイムに換算して、ジャンプの成績が良かった順から時間差で開始する「グンダーセン方式」でした。日本は、三ヶ田→河野→荻原の順番でリレーしました。走力の弱い三ヶ田を第1走者に立てて、後半勝負に持ち込むのが狙いでした。三ヶ田は個人戦では、前半のジャンプで2位につけながら、後半の距離では足が止まり、最下位の42位に沈んだので不安がありました。しかし、この日は雪温低く、雪の状態も滑りやすくてサラサラとしたのが、日本に幸いします。三ヶ田は2位オーストリアに26秒縮められますが、2分1秒差で第2走者の河野の背中にタッチして引き継ぎます。

“代役”の河野も快調に飛ばし、2位オーストリアに6秒縮められるも、1分55秒差で日本チームの中でクロスカントリーを最も得意にする最終走者の荻原に引き継ます。そして、このあたりから、ジャンプでは6位に沈んでいたクロスカントリー王国のノルウェーが徐々に追い上げ、2位のオーストリアに激しく猛追。荻原の背中を追いかける両国が、首位日本との差をじわじわと詰め寄ります。しかし、8.5km地点を通過した時点で、荻原は600m以上もの差を付けて独走状態となります。

そして、ゴールまで残り100m付近で、荻原はコーチから日の丸を受け取り、それを振りながら余裕でゴールを切ります。日本は、2位ノルウェーに1分26秒4の差を付けて1時間23分36秒5のタイムで逃げ切り、同種目ではアジア勢として初優勝。同時に、札幌五輪のノルディックスキー・ジャンプの70m級の笠谷幸生以来、冬季五輪では日本勢20年ぶりとなる金メダル獲得でした。もちろん、元号が昭和から平成になってから、夏冬通じて初となる五輪の金メダル獲得でした。

その後、日本は、同日に行われたスピードスケート男子1000mで宮部弟の行範が銅メダルを獲得。更に、大会最終日にショートトラックの男子5000mリレーで銅メダルも獲得。ジャンプはメダルこそ逃すも、団体とラージヒルの原田雅彦がそれぞれ4位入賞し、健闘します。最も期待された伊藤でしたが、フリーの演技後半で3回転アクセルに挑んで成功するも、オリジナルプログラムでコンビネーションジャンプの失敗が響き、ライバルのクリスティー・ヤマグチに一歩及ばず銀メダルに終わります。最終的に、この大会の日本選手団は、金1・銀2・銅4の合計7個のメダルを獲得。冬季五輪で同一大会で当時の史上最多となるメダル数を獲得しただけでなく、過去に日本が出場した全ての大会で獲得した総メダル数(金1・銀4・銅2)にも並び、6年後の長野五輪に向けて光明を見出した大会となりました。

その後、日本複合陣は、2年後のリレハンメル五輪で2連覇し、世界選手権でも2連覇を飾るなど、団体で世界大会4連勝を飾り、黄金時代を築きます。個人戦でも、荻原が1992-1993年シーズンからW杯総合3連覇の偉業を成し遂げ、世界選手権でも1993年ファルン(スウェーデン)大会と1997年トロンハイム(カナダ)大会で2度優勝。荻原は「時代を創った英雄」となり、今までマイナー扱いだった複合の存在を世間に広く知らしめました。

ちなみにだが、複合陣がアルベールビル五輪の表彰式でF1のようなシャンパンファイトをしたのは有名ですが、こうした態度を気に食わなく思った箱根駅伝を主催する某新聞社が、名指しこそ避けたものの、「はしゃぎ過ぎの感のある振る舞いが無いではなかった」と社説で言及。しかし、この某新聞社の押し付けがましい姿勢に対し、逆に世間や識者から批判や苦情が舞い込んだそうです。20年ぶりの金メダルも衝撃的でしたが、「新人類」と呼ばれた荻原を含めた複合陣の物怖じしない明るい性格は、悲壮感が漂っていたそれまでの日本のスポーツ選手のイメージを一変させ、中高年を中心にジェネレーションギャップを感じた人は少なくなかったでしょう。むしろ、求道者のようだった橋本や伊藤が「旧世代の選手」ようにも感じました(ちなみに、荻原と伊藤は同学年)。

好き嫌いは別にして、この頃から「自分の為に戦う」とか「オリンピックを楽しめました」などと発言する選手も増え始めました。このアルベールビル五輪は、平成になってから最初の五輪でしたが、昭和の時代に比べて選手や応援するファンの気質が変わるターニングポイントとなったような気がしますね。


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2 コメント

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まさか金とは思いませんでした (こーじ)
2012-02-27 19:35:47
 とりあえず大会前に複合関係者が‘団体で銅メダルが・・・・’と言っているのを聞きましたし
個人戦ではジャンプ終了時点で三ヶ田が2位と荻原が5位?と頑張ってましたから最終的に荻原が7位に入ったので‘メダル取れるかも’と思ったものです。

 それがジャンプで2位に大差を付けたのでメダルは確保できたなと思いましたけど、まさか金が取れるとは最後まで思いませんでした。

 冬季五輪は気象条件などの運に左右されるケースが多いので屋外で行われたスピードスケートなど優勝候補もメダルが取れないケースが多々ありました。

 だから大会前の予想で男子1000の黒岩敏幸と
伊藤みどりの金予想が外れたのも仕方ないですが、いい方に外れた珍しい例でしたね。

 ちなみにアルベールビル大会の成績は国外で行われた冬季五輪では最多獲得メダルですけど
2年後のリレハンメルでは金1・銀2・銅2と数を減らしているのです。

 つまりマスゴミが唱える‘長野五輪に備えて
強化したから’という事にはなりません。

 それよりもバブル景気でスポンサーからの資金が潤沢だったからインフラをはじめとした環境がよくなったからというのが正しいと思います。

 長野後の低迷は ただでさえバブル崩壊で経済が下降線を辿っていたのに長野終了で企業が金をかけなくなったからというのが大きいと思ってますよ。
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コメントありがとうございます (猫なべ)
2012-02-28 22:21:14
こんばんは、こーじさん

>つまりマスゴミが唱える‘長野五輪に備えて
強化したから’という事にはなりません。

この1990年代前半当時の日本は、若手選手の育成や先を見据えた強化を割りとやっていたと思うので、この点に関しては私は見解は異なります。

まず、1991年に札幌でユニバーシアードを開催してます。
大学生レベルとはいえ、日本は金メダル獲得数では首位になってます。
また、この大会の代表選手だったのが、複合の荻原・河野、ジャンプの西方、スピードスケートの黒岩・宮部兄、アルペンの木村など、のちに各競技で日本を背負う選手が出場してました。
あと、アルベールビルには、ジャンプの原田と葛西、スピードの白幡ら、長野を見据えて当時の若手選手を起用して経験を積ませてますね。

また、リレハンメルはメダル数は2個減少したけど、逆に入賞者数は16から21に増やしてます。
この大会でメダルを減らした最大の要因は、量産が期待された男子のスピードスケート陣が代表選手の選考を大会直前に決めたので、選手が本番前に既に消耗してしまい、本調子とは程遠かったからです。
この時の反省が、のちの「内定選手制度」の創設に繋がりました。
だから、この大会は決して「低迷」ではなく、長野で飛躍する為に「踊り場」で踏みとどまっていたのだと思います。

ただ、当時の日本は長野で勝つ為だけに執心して、次世代の育成を怠っていたのが、最大の問題です。
更には、北海道経済の低迷、ウィンタースポーツの最大のパトロンだった堤義明氏の失脚など、経済面でも追い討ちを掛けました。
長野後の低迷は、まさに「集中強化体制」の弊害だと思います。
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