
今から15年前の今日、名古屋市総合体育館レインボーホール(現・日本ガイシホール)でWBC世界バンタム級タイトルマッチ・薬師寺保栄vs辰吉丈一郎戦が行われました。この一戦はリングの内外で起きた出来事を含めて、本当に何から何まで極めて異例の一戦でした。
元々この王座は、辰吉が1991年9月19日、大阪府の守口市民体育館でグレグ・リチャードソン(米国)を10回終了TKOで勝利して、日本人最短記録でもあるプロデビューしてから8戦目での世界王座の奪取に成功。辰吉は長期政権が期待されました。しかし、同年暮れに、左目の網膜裂孔の為、李勇勲(韓国)との初防衛戦が延期。その間、ビクトル・ラバナレス(メキシコ)が辰吉の休養期間中に暫定王座に就きます。復帰した辰吉は、1992年9月17日、大阪城ホールで行われた王座統一戦でラバナレスと対戦しますが、1年間のブランクによる影響もあり、9回TKOで防衛失敗。ラバナレスが正規王者に昇格しました。
だが、ラバナレスは、翌1993年3月28日、暫定王座から通算して5度目の防衛戦でサウスポーの技巧派の辺丁一(韓国)に判定負けして、まさかの防衛失敗。ちなみに、辺丁一はソウル五輪で判定に抗議して67分間に及ぶ「座り込み抗議事件」を起こしたあのボクサーです。この両者の対戦は下馬評では圧倒的にラバナレスの有利でしたが、ラバナレスは私生活で24歳と16歳(!)の2人の妻とのトラブルや、韓国に入国する際の手続きのトラブルなどで万全な体調ではなかった事が大きく響き、不覚の敗戦を喫しました。
辰吉は大阪で辺に挑戦する予定でしたが、辺が右手を負傷した為、急遽ラバナレスと暫定王座を賭けて再戦する事に変更。同年7月22日、大阪府立体育館で辰吉が2-1のスプリットデシジョンで勝利して2度目の世界王座を獲得。同年の秋に辺と王座統一戦を行う予定でした。しかし、辰吉は今度は左目の網膜剥離を患い、せっかく獲得した暫定王座を返上。更に、当時の国内の規定で、辰吉は引退の危機に追い込まれました。そして、王座返上した辰吉の代わりに辺に挑戦したのが薬師寺でした。
薬師寺は同年12月23日、愛知県体育館で辺が保持する王座に挑戦。試合は、盛り上がりに欠けて、大して見せ場の無い内容に終始。薬師寺のパンチを自慢の技巧でいなした元オリンピアンの辺が有利だと思われましたが、2-1の際どい判定で薬師寺が勝利して世界初挑戦で世界王座を獲得。しかし、一部では、「辰吉不在で巡ってきた僥倖」とか「疑惑の地元判定」呼ばわりもされました。
当時の薬師寺は名古屋のジム所属ということもあり、比較的に地味な扱いを受け、打たれたら後ろに下がるので「チキンハート」と酷評されるなど、評価は極めて低く、短命政権だと誰もが思いました。やはり、全盛期の辰吉の残像が強烈にファンの記憶に残っている事も、低評価に追い討ちを掛けました。関東のボクシングファンとして言わせて頂ければ、名古屋のジムに所属している薬師寺の存在は専門誌では知っていましたけど、試合をテレビで殆ど見た事が無かったので、尚更そのように思いました。また、この両者は、辰吉が世界初挑戦した時にスパーリングで対戦し、薬師寺が子供扱いされてあしらわれた事も、低い評価の根拠となりました。
また、所属ジムの関係するテレビ局などの理由で、この両者が対戦する事はまず無いだろうと思われました。辰吉が所属する大阪帝拳ジムは日本テレビの系列ですし、薬師寺が所属する松田ジムは中部日本放送(TBS系)の系列だったからです。それに、当時は、日本人では辰吉に誰も敵わないだろうと思われていたので、辰吉が日本人と対戦する事自体、極めて異例でした(日本人との対戦を避けまくっている亀田一家とは正反対の意味です)。また、世界王者になる前の薬師寺は、知名度も評価も低かったから、興行上の意味でも辰吉が薬師寺を選ぶとは思えませんでした。この当時のボクシングファンなら、辰吉は薬師寺よりも、鬼塚勝也との対戦を望んでいた人の方が多かったと思います。
その後、薬師寺は翌1994年4月13日にホセフィノ・スアレスに10回KOで勝利して初防衛に成功。7月31日には、2度目の防衛戦では辺と再戦。今度は薬師寺が辺を5度のダウンを奪い、11回TKO勝利で王座防衛に成功。辺は、薬師寺に王座を奪われたあと兵役に就いた為、体調面で不安があり、その影響がモロに出ました。ただ、世界王座を奪った後の薬師寺は、名伯楽のマッククリハラの指導の下、自慢の右ストレートを磨き、上手いマッチメークもあって世間の低い評価を覆すべく着実に成長しました。しかし、薬師寺の辺との防衛戦の前の7月2日には、日本ボクシングコミッション(JBC)の管轄が及ばないハワイで辰吉が復帰。相手は薬師寺が初防衛戦で倒したスアレスとノンタイトル戦で対戦し、3回KO勝利で復帰を飾ります。腹がダブついていたスアレスでしたが、鮮やかなKO勝利だった事もあり、辰吉ファンだった私を含めた多くのボクシングファンの批評眼も結果的に曇らせる事になりました。
そして、辰吉がスアレスに勝利した事により、事態はかなり複雑になります。というのも、世界ボクシング評議会(WBC)の規定では「王者が病気もしくは兵役等で王座を返上した場合、復帰戦に勝利したら暫定王座を認める」というルールがあり、辰吉は戦わずして暫定王座に再び就きます。これに関しては、薬師寺陣営(中でも、松田ジムの松田鉱二会長)は、この措置に対して強い異議を唱えました。これが、後の、両陣営の激しい戦いの火蓋となります。その後、辰吉の復帰を求めたファンの署名運動が功を奏し、国内復帰への世論が日増しに高まります。それまで頑なに復帰を拒んでいたJBCもついに折れ、特例で辰吉の国内復帰を容認。ただし、「負けたら引退」の厳しい条件を辰吉に要求します。
両陣営は試合の交渉をしましたが、案の定、互いにテレビの中継局や試合会場を巡って衝突。辰吉陣営(=帝拳ジムの本田明彦会長)は折衷案を提案するものの、松田会長は正規王者を抱えるプライドもあり断固拒否。結局、交渉は決裂し、異例の入札となります。同年9月1日、ロサンゼルスで入札を実施。なんと、世界の大物プロモーターのドン・キング(=実質的に帝拳の味方)まで参戦し、3者の虚々実々の駆け引きが繰り広げられます。そして、落札したのは薬師寺陣営。その落札額は342万ドル。なんと、当時のレートで3億4200万円の巨額なファイトマネーとなりました。ちなみに、辰吉の帝拳側は2億3800万円、ドン・キングは3億2000万円を提示しました。また、この試合は王座統一戦なので、両者はファイトマネーを折半。双方のファイトマネーは1億7100万円にもなりました。
ちなみに、この巨額のファイトマネーにはカラクリがあります。というのも、両陣営とも、興行の収入からファイトマネーや会場使用料などの諸経費を含めた支出を差し引くと、数千万円の巨額の赤字を抱え込む事になるからです。なので、両陣営とも支出を抑える為、落札したら自陣営のボクサーに対して、規定通りのファイトマネーを支払わない旨を入札前に伝えてました。つまり、落札した薬師寺陣営は相手の辰吉には1億7100万円は支払うが、薬師寺には同額を出さないという事です(一説には、薬師寺のファイトマネーは3~4000万円らしいです)。ファイトマネーからジムが徴収できるのは33%なので、不当な搾取が無い限り、辰吉は差し引き1億円以上もの大金を手にした事になります。もちろん、この額は、現在においても日本ボクシング史上最高のファイトマネーです。
その後の展開はご存知の通り、お互い敵意を剥き出しに激しい舌戦を展開します。お互いに試合前に罵り合う状況は、この当時の日本での世界戦としては極めて異例でした。『カン違いくん』や『思い上がりちゃん』と“可愛い愛称”で応酬。その後、辰吉が『社会人面して、髪を染めているのはあかん!』に対して、薬師寺は『大人気ない人だ』とやり返します。しまいには両陣営までヒートアップして「スパイ疑惑」やら「ドーピング発言」まで飛び出す始末。もはや、「名古屋vs大阪」のタイマン勝負の様相を呈しました。ただ、こういった激しいやりとりが、世間の話題や反響を呼び、チケットは販売してからあっという間に完売。しかも、高い値段のチケットから売れたそうです。
そして、運命の1994年12月4日。本来なら絡むことは無いだろうと思われた、この両者による史上初の日本人同士の世界王座統一戦。名古屋市総合体育館レインボーホールには9800人の大観衆が「3億円興行」を見守りました。暫定王者とはいえ、挑戦者扱いの辰吉は「死亡遊戯」のテーマソングとともに青コーナーから入場。辰吉にとっては、前年にラバナレスに雪辱して以来、ちょうど500日ぶりの国内リングへの帰還。名古屋は薬師寺の地元でしたが、大勢の辰吉ファンが駆け付け、決して辰吉にとっては敵地ではありませんでした。一方、正規王者の薬師寺は、赤コーナーからアース・ウィンド・ファイヤーの「Let's Groove」で入場。リング上の辰吉は大袈裟に両手を叩いて歓迎するパフォーマンスをし、会場のボルテージは最高潮に達します。試合前の殺気立った異様なあの雰囲気は、テレビで見ていても尋常じゃなかったのを今でも覚えています。

事前の予想は圧倒的に辰吉有利。歴代世界王者で薬師寺の勝利を予想したのは少数で、輪島功一とガッツ石松ぐらいでしょうか。薬師寺はプロアマ通じてダウン経験が無いにも関わらず、何回までに辰吉が薬師寺を倒すのかが焦点だとする見方すらありました。しかし、大方の予想に反して、お互いの意地とプライドが激突した日本ボクシング史上に残る凄まじい戦いとなりました。
初回、薬師寺は顔面のガードを固めて左ジャブから入るオーソドックスのスタイル。一方、辰吉は両腕をダラリとたらしてフリッカー気味のフックを打ついつものスタイル。開始20秒過ぎ、辰吉は両腕を伸ばして薬師寺の顔の前に当てる「猫だまし」のパフォーマンスを披露。ただ、お互いに相手の出方を伺う、手数が少ない静かな立ち上がりでした。しかし、このわずかな攻防が両者の明暗を分けます。青コーナーに戻った辰吉は左拳に違和感を覚えました。それは剥離骨折をしていたことです。左を出せなくなった辰吉にとっては致命的なダメージとなります。
3回までは、お互いに距離をとって的確にパンチをヒットさせた両者は一歩も引かない戦いでした。4回、1分過ぎにロープ際に追い込まれた薬師寺は打ち返して窮地を脱しますが右目をカット。1分40秒過ぎには、辰吉は再び薬師寺をロープ際に追い込んで連打を繰り出すが、揉み合った時に誤って薬師寺を投げ飛ばします。しかし、辰吉は薬師寺に謝って事なきを得ます。2分40秒過ぎにも辰吉が連打を浴びせます。ただ、打たれたら後ろに下がってロープを背負う悪癖があった薬師寺は、この日は全く逆でした。ロープ際に追い詰められても打ち返して前に突進。ロープを背負っても、スルリと体を入れ替えて逆に激しく打ち合って応戦。このロープ際での戦い方が、師匠のマック・クリハラが薬師寺を徹底的に鍛えあげた成果でした。

6回には、薬師寺の自慢の右ストレートでついに辰吉の左目が切れて出血。大方の予想とは明らかに異なる展開でした。7回、完全にペースを掴んだ薬師寺が左ジャブから右ストレートを繰り出し、2分40秒過ぎには強烈な左右のコンビネーションブローを浴びせます。辰吉の左目は完全に塞がり、右目も半開きになるなど、鮮血で真っ赤に染まった顔面は原型を留めない状態に変化。辰吉がKOを予告した8回、左ジャブを再三浴びせてリズムに乗った薬師寺は、2分10秒過ぎにはいきなりの右アッパーで辰吉の顎を跳ね上げます。そして、薬師寺は、容赦無く弱点の左目を徹底的に狙い続けました。
9回、1分10秒過ぎ、距離を置いた薬師寺は左ストレート2発のあと右ストレートと返しの左ストレートのコンビネーションブローが炸裂。被弾した辰吉はそれでも前へ出続けましたが、如何せん手数が少な過ぎでした。一方、薬師寺も左目をカット。10回、ポイントをリードしている事を意識した薬師寺は、左のリードパンチを駆使して積極的に足を使います。この終了間際、辰吉は打ち合った時に左フックがカウンターで薬師寺の顔面を捉えます。薬師寺は腰を落としますが、打ち合って応戦してなんとか堪えます。勝負はラスト2ラウンドに持ち込まれます。

11回、30秒過ぎ、薬師寺は左のボディーへのアッパーから左右のフックを主体に連打を浴びせて仕留めに掛かります。辰吉は右フックを打たれてクリンチになった時に「効いてない!」と首を振ってしきりにアピール。しかし、辰吉はここから息を吹き返します。必死に薬師寺にプレッシャーを掛けてパンチを出して追い回します。だが、2分15秒過ぎには、勢い余って両者がもつれ合って倒れてしまいます。辰吉は手を差し伸べて薬師寺の体をおこします。このシーンは、試合がいかにクリーンファイトだった何よりの証左です。
最終の12回、もう倒すしかなかった辰吉は徹底的にプレッシャーを掛けます。一方、薬師寺は足を使って相手の攻撃を上手く凌げば勝利は確実でしたが、逆にパンチを出して応戦。塩見啓一アナウンサーが「あっけないパンチで決まってほしくない」と実況しましたが、実に相応しい表現でした。1分30秒過ぎには、辰吉は薬師寺をロープ際に追い込んで連打を繰り出します。しかし、薬師寺も打ちながら前に出て応戦。このラウンドは辰吉が優勢でしたが、お互い終了ゴングが鳴るまで打ち合う展開。
そして、終了のゴング。死力を尽くした両者はお互いに抱き合って健闘を称え合いました。暫くして、リングアナウンサーが3人のジャッジの採点が読み上げられました。採点は、カロール・カステラーノが116-112、森田健が114-114、そして浦谷信彰が115-114。結果、2-0のマジョリティデシジョンをもって、薬師寺が3度目の防衛に成功。辰吉の世界挑戦は失敗に終わりました。判定を告げられた後、敗者は勝者を抱きかかえて勝利を祝福しました。
ちなみに、インタビューで薬師寺は、散々自分を馬鹿にした世間を見返す強気のコメントを事前に用意したそうですが、実際に薬師寺が発したのは「辰吉君は今まで自分がこれまで26戦戦った相手の中で一番強い相手だった。今日勝てたのはただの運で、どっちが勝ってもおかしくないない試合だったと思いました」と敗者を賞賛。一方、辰吉は控え室で詰め掛けた記者に対して、「強かったよ。彼もよく頑張ったし。今まで侮辱したことを深く詫びを入れたい」と試合前に薬師寺に挑発したことに対して、潔く謝罪。試合が終わった直後にも、辰吉は同様のコメントを薬師寺の耳元で告げたそうです。
のちに薬師寺が語ってましたが、この一戦は薬師寺にとって、とてつもなく大きなメリットのある試合だったと思います。たしかに、薬師寺はファイトマネーを満額受け取れませんでしたが、この勝利でこれまでの低評価を覆し、「辰吉に勝った男」として世間に認知されます。また、その後の薬師寺の人生にも大きな影響を与えたので、本来得られるはずだったファイトマネー分を取り戻すどころか、十分お釣りが来るほど富と地位と名声を得たはずです。まさに、一世一代の大勝負だったので、モチベーションは相当なはずでした。「ファイトマネーが1万円でも戦っていた」というのも、決して大袈裟では無いです。逆に言えば、この試合で下馬評どおりに薬師寺が負けていたら、きっと今頃名前すら誰も覚えていなかったと思われます。また、薬師寺が挑戦者の立場だったら、違った試合展開になっていたのかもしれません。
一方、この一戦で、国内最高のファイトマネーを得た辰吉でしたが、負けたら引退の条件(のちにJBCは辰吉の現役続行を認可)だったので必要以上に重圧が掛かり、何よりも2度の眼疾の為、長期間のブランクを作ったのが不運でした。ただ、ブランクや左手の怪我をおして、試合を捨てずに最後まで戦い抜いた辰吉も、初めて日本人に負けても決して人気や評価が落ちることはありませんでした。その後、辰吉はその後1階級上げてダニエル・サラゴサ(メキシコ)に2度挑むものの、いずれも失敗。再び世界王座に返り咲くのは、薬師寺戦の3年後の1997年11月22日、大阪城ホールでシリモンコン・ナコントン・パークビュー(タイ)を7回TKOで勝利した一戦です。
この一戦の視聴率は、関東地区では平均39.4%、関西地区では平均43.8%。
そして試合が開催された名古屋地区では平均視聴率52.2%。瞬間最高視聴率はなんと65.6%でした。
長年ボクシングは見てきましたけど、おそらく後にも先にも、こんな試合はもう無いようが気がしますね。
☆日本ボクシング史に残る伝説の一戦(1994年度の年間最高試合)
元々この王座は、辰吉が1991年9月19日、大阪府の守口市民体育館でグレグ・リチャードソン(米国)を10回終了TKOで勝利して、日本人最短記録でもあるプロデビューしてから8戦目での世界王座の奪取に成功。辰吉は長期政権が期待されました。しかし、同年暮れに、左目の網膜裂孔の為、李勇勲(韓国)との初防衛戦が延期。その間、ビクトル・ラバナレス(メキシコ)が辰吉の休養期間中に暫定王座に就きます。復帰した辰吉は、1992年9月17日、大阪城ホールで行われた王座統一戦でラバナレスと対戦しますが、1年間のブランクによる影響もあり、9回TKOで防衛失敗。ラバナレスが正規王者に昇格しました。
だが、ラバナレスは、翌1993年3月28日、暫定王座から通算して5度目の防衛戦でサウスポーの技巧派の辺丁一(韓国)に判定負けして、まさかの防衛失敗。ちなみに、辺丁一はソウル五輪で判定に抗議して67分間に及ぶ「座り込み抗議事件」を起こしたあのボクサーです。この両者の対戦は下馬評では圧倒的にラバナレスの有利でしたが、ラバナレスは私生活で24歳と16歳(!)の2人の妻とのトラブルや、韓国に入国する際の手続きのトラブルなどで万全な体調ではなかった事が大きく響き、不覚の敗戦を喫しました。
辰吉は大阪で辺に挑戦する予定でしたが、辺が右手を負傷した為、急遽ラバナレスと暫定王座を賭けて再戦する事に変更。同年7月22日、大阪府立体育館で辰吉が2-1のスプリットデシジョンで勝利して2度目の世界王座を獲得。同年の秋に辺と王座統一戦を行う予定でした。しかし、辰吉は今度は左目の網膜剥離を患い、せっかく獲得した暫定王座を返上。更に、当時の国内の規定で、辰吉は引退の危機に追い込まれました。そして、王座返上した辰吉の代わりに辺に挑戦したのが薬師寺でした。
薬師寺は同年12月23日、愛知県体育館で辺が保持する王座に挑戦。試合は、盛り上がりに欠けて、大して見せ場の無い内容に終始。薬師寺のパンチを自慢の技巧でいなした元オリンピアンの辺が有利だと思われましたが、2-1の際どい判定で薬師寺が勝利して世界初挑戦で世界王座を獲得。しかし、一部では、「辰吉不在で巡ってきた僥倖」とか「疑惑の地元判定」呼ばわりもされました。
当時の薬師寺は名古屋のジム所属ということもあり、比較的に地味な扱いを受け、打たれたら後ろに下がるので「チキンハート」と酷評されるなど、評価は極めて低く、短命政権だと誰もが思いました。やはり、全盛期の辰吉の残像が強烈にファンの記憶に残っている事も、低評価に追い討ちを掛けました。関東のボクシングファンとして言わせて頂ければ、名古屋のジムに所属している薬師寺の存在は専門誌では知っていましたけど、試合をテレビで殆ど見た事が無かったので、尚更そのように思いました。また、この両者は、辰吉が世界初挑戦した時にスパーリングで対戦し、薬師寺が子供扱いされてあしらわれた事も、低い評価の根拠となりました。
また、所属ジムの関係するテレビ局などの理由で、この両者が対戦する事はまず無いだろうと思われました。辰吉が所属する大阪帝拳ジムは日本テレビの系列ですし、薬師寺が所属する松田ジムは中部日本放送(TBS系)の系列だったからです。それに、当時は、日本人では辰吉に誰も敵わないだろうと思われていたので、辰吉が日本人と対戦する事自体、極めて異例でした(日本人との対戦を避けまくっている亀田一家とは正反対の意味です)。また、世界王者になる前の薬師寺は、知名度も評価も低かったから、興行上の意味でも辰吉が薬師寺を選ぶとは思えませんでした。この当時のボクシングファンなら、辰吉は薬師寺よりも、鬼塚勝也との対戦を望んでいた人の方が多かったと思います。
その後、薬師寺は翌1994年4月13日にホセフィノ・スアレスに10回KOで勝利して初防衛に成功。7月31日には、2度目の防衛戦では辺と再戦。今度は薬師寺が辺を5度のダウンを奪い、11回TKO勝利で王座防衛に成功。辺は、薬師寺に王座を奪われたあと兵役に就いた為、体調面で不安があり、その影響がモロに出ました。ただ、世界王座を奪った後の薬師寺は、名伯楽のマッククリハラの指導の下、自慢の右ストレートを磨き、上手いマッチメークもあって世間の低い評価を覆すべく着実に成長しました。しかし、薬師寺の辺との防衛戦の前の7月2日には、日本ボクシングコミッション(JBC)の管轄が及ばないハワイで辰吉が復帰。相手は薬師寺が初防衛戦で倒したスアレスとノンタイトル戦で対戦し、3回KO勝利で復帰を飾ります。腹がダブついていたスアレスでしたが、鮮やかなKO勝利だった事もあり、辰吉ファンだった私を含めた多くのボクシングファンの批評眼も結果的に曇らせる事になりました。
そして、辰吉がスアレスに勝利した事により、事態はかなり複雑になります。というのも、世界ボクシング評議会(WBC)の規定では「王者が病気もしくは兵役等で王座を返上した場合、復帰戦に勝利したら暫定王座を認める」というルールがあり、辰吉は戦わずして暫定王座に再び就きます。これに関しては、薬師寺陣営(中でも、松田ジムの松田鉱二会長)は、この措置に対して強い異議を唱えました。これが、後の、両陣営の激しい戦いの火蓋となります。その後、辰吉の復帰を求めたファンの署名運動が功を奏し、国内復帰への世論が日増しに高まります。それまで頑なに復帰を拒んでいたJBCもついに折れ、特例で辰吉の国内復帰を容認。ただし、「負けたら引退」の厳しい条件を辰吉に要求します。
両陣営は試合の交渉をしましたが、案の定、互いにテレビの中継局や試合会場を巡って衝突。辰吉陣営(=帝拳ジムの本田明彦会長)は折衷案を提案するものの、松田会長は正規王者を抱えるプライドもあり断固拒否。結局、交渉は決裂し、異例の入札となります。同年9月1日、ロサンゼルスで入札を実施。なんと、世界の大物プロモーターのドン・キング(=実質的に帝拳の味方)まで参戦し、3者の虚々実々の駆け引きが繰り広げられます。そして、落札したのは薬師寺陣営。その落札額は342万ドル。なんと、当時のレートで3億4200万円の巨額なファイトマネーとなりました。ちなみに、辰吉の帝拳側は2億3800万円、ドン・キングは3億2000万円を提示しました。また、この試合は王座統一戦なので、両者はファイトマネーを折半。双方のファイトマネーは1億7100万円にもなりました。
ちなみに、この巨額のファイトマネーにはカラクリがあります。というのも、両陣営とも、興行の収入からファイトマネーや会場使用料などの諸経費を含めた支出を差し引くと、数千万円の巨額の赤字を抱え込む事になるからです。なので、両陣営とも支出を抑える為、落札したら自陣営のボクサーに対して、規定通りのファイトマネーを支払わない旨を入札前に伝えてました。つまり、落札した薬師寺陣営は相手の辰吉には1億7100万円は支払うが、薬師寺には同額を出さないという事です(一説には、薬師寺のファイトマネーは3~4000万円らしいです)。ファイトマネーからジムが徴収できるのは33%なので、不当な搾取が無い限り、辰吉は差し引き1億円以上もの大金を手にした事になります。もちろん、この額は、現在においても日本ボクシング史上最高のファイトマネーです。
その後の展開はご存知の通り、お互い敵意を剥き出しに激しい舌戦を展開します。お互いに試合前に罵り合う状況は、この当時の日本での世界戦としては極めて異例でした。『カン違いくん』や『思い上がりちゃん』と“可愛い愛称”で応酬。その後、辰吉が『社会人面して、髪を染めているのはあかん!』に対して、薬師寺は『大人気ない人だ』とやり返します。しまいには両陣営までヒートアップして「スパイ疑惑」やら「ドーピング発言」まで飛び出す始末。もはや、「名古屋vs大阪」のタイマン勝負の様相を呈しました。ただ、こういった激しいやりとりが、世間の話題や反響を呼び、チケットは販売してからあっという間に完売。しかも、高い値段のチケットから売れたそうです。
そして、運命の1994年12月4日。本来なら絡むことは無いだろうと思われた、この両者による史上初の日本人同士の世界王座統一戦。名古屋市総合体育館レインボーホールには9800人の大観衆が「3億円興行」を見守りました。暫定王者とはいえ、挑戦者扱いの辰吉は「死亡遊戯」のテーマソングとともに青コーナーから入場。辰吉にとっては、前年にラバナレスに雪辱して以来、ちょうど500日ぶりの国内リングへの帰還。名古屋は薬師寺の地元でしたが、大勢の辰吉ファンが駆け付け、決して辰吉にとっては敵地ではありませんでした。一方、正規王者の薬師寺は、赤コーナーからアース・ウィンド・ファイヤーの「Let's Groove」で入場。リング上の辰吉は大袈裟に両手を叩いて歓迎するパフォーマンスをし、会場のボルテージは最高潮に達します。試合前の殺気立った異様なあの雰囲気は、テレビで見ていても尋常じゃなかったのを今でも覚えています。

事前の予想は圧倒的に辰吉有利。歴代世界王者で薬師寺の勝利を予想したのは少数で、輪島功一とガッツ石松ぐらいでしょうか。薬師寺はプロアマ通じてダウン経験が無いにも関わらず、何回までに辰吉が薬師寺を倒すのかが焦点だとする見方すらありました。しかし、大方の予想に反して、お互いの意地とプライドが激突した日本ボクシング史上に残る凄まじい戦いとなりました。
初回、薬師寺は顔面のガードを固めて左ジャブから入るオーソドックスのスタイル。一方、辰吉は両腕をダラリとたらしてフリッカー気味のフックを打ついつものスタイル。開始20秒過ぎ、辰吉は両腕を伸ばして薬師寺の顔の前に当てる「猫だまし」のパフォーマンスを披露。ただ、お互いに相手の出方を伺う、手数が少ない静かな立ち上がりでした。しかし、このわずかな攻防が両者の明暗を分けます。青コーナーに戻った辰吉は左拳に違和感を覚えました。それは剥離骨折をしていたことです。左を出せなくなった辰吉にとっては致命的なダメージとなります。
3回までは、お互いに距離をとって的確にパンチをヒットさせた両者は一歩も引かない戦いでした。4回、1分過ぎにロープ際に追い込まれた薬師寺は打ち返して窮地を脱しますが右目をカット。1分40秒過ぎには、辰吉は再び薬師寺をロープ際に追い込んで連打を繰り出すが、揉み合った時に誤って薬師寺を投げ飛ばします。しかし、辰吉は薬師寺に謝って事なきを得ます。2分40秒過ぎにも辰吉が連打を浴びせます。ただ、打たれたら後ろに下がってロープを背負う悪癖があった薬師寺は、この日は全く逆でした。ロープ際に追い詰められても打ち返して前に突進。ロープを背負っても、スルリと体を入れ替えて逆に激しく打ち合って応戦。このロープ際での戦い方が、師匠のマック・クリハラが薬師寺を徹底的に鍛えあげた成果でした。

6回には、薬師寺の自慢の右ストレートでついに辰吉の左目が切れて出血。大方の予想とは明らかに異なる展開でした。7回、完全にペースを掴んだ薬師寺が左ジャブから右ストレートを繰り出し、2分40秒過ぎには強烈な左右のコンビネーションブローを浴びせます。辰吉の左目は完全に塞がり、右目も半開きになるなど、鮮血で真っ赤に染まった顔面は原型を留めない状態に変化。辰吉がKOを予告した8回、左ジャブを再三浴びせてリズムに乗った薬師寺は、2分10秒過ぎにはいきなりの右アッパーで辰吉の顎を跳ね上げます。そして、薬師寺は、容赦無く弱点の左目を徹底的に狙い続けました。
9回、1分10秒過ぎ、距離を置いた薬師寺は左ストレート2発のあと右ストレートと返しの左ストレートのコンビネーションブローが炸裂。被弾した辰吉はそれでも前へ出続けましたが、如何せん手数が少な過ぎでした。一方、薬師寺も左目をカット。10回、ポイントをリードしている事を意識した薬師寺は、左のリードパンチを駆使して積極的に足を使います。この終了間際、辰吉は打ち合った時に左フックがカウンターで薬師寺の顔面を捉えます。薬師寺は腰を落としますが、打ち合って応戦してなんとか堪えます。勝負はラスト2ラウンドに持ち込まれます。

11回、30秒過ぎ、薬師寺は左のボディーへのアッパーから左右のフックを主体に連打を浴びせて仕留めに掛かります。辰吉は右フックを打たれてクリンチになった時に「効いてない!」と首を振ってしきりにアピール。しかし、辰吉はここから息を吹き返します。必死に薬師寺にプレッシャーを掛けてパンチを出して追い回します。だが、2分15秒過ぎには、勢い余って両者がもつれ合って倒れてしまいます。辰吉は手を差し伸べて薬師寺の体をおこします。このシーンは、試合がいかにクリーンファイトだった何よりの証左です。
最終の12回、もう倒すしかなかった辰吉は徹底的にプレッシャーを掛けます。一方、薬師寺は足を使って相手の攻撃を上手く凌げば勝利は確実でしたが、逆にパンチを出して応戦。塩見啓一アナウンサーが「あっけないパンチで決まってほしくない」と実況しましたが、実に相応しい表現でした。1分30秒過ぎには、辰吉は薬師寺をロープ際に追い込んで連打を繰り出します。しかし、薬師寺も打ちながら前に出て応戦。このラウンドは辰吉が優勢でしたが、お互い終了ゴングが鳴るまで打ち合う展開。
そして、終了のゴング。死力を尽くした両者はお互いに抱き合って健闘を称え合いました。暫くして、リングアナウンサーが3人のジャッジの採点が読み上げられました。採点は、カロール・カステラーノが116-112、森田健が114-114、そして浦谷信彰が115-114。結果、2-0のマジョリティデシジョンをもって、薬師寺が3度目の防衛に成功。辰吉の世界挑戦は失敗に終わりました。判定を告げられた後、敗者は勝者を抱きかかえて勝利を祝福しました。
ちなみに、インタビューで薬師寺は、散々自分を馬鹿にした世間を見返す強気のコメントを事前に用意したそうですが、実際に薬師寺が発したのは「辰吉君は今まで自分がこれまで26戦戦った相手の中で一番強い相手だった。今日勝てたのはただの運で、どっちが勝ってもおかしくないない試合だったと思いました」と敗者を賞賛。一方、辰吉は控え室で詰め掛けた記者に対して、「強かったよ。彼もよく頑張ったし。今まで侮辱したことを深く詫びを入れたい」と試合前に薬師寺に挑発したことに対して、潔く謝罪。試合が終わった直後にも、辰吉は同様のコメントを薬師寺の耳元で告げたそうです。
のちに薬師寺が語ってましたが、この一戦は薬師寺にとって、とてつもなく大きなメリットのある試合だったと思います。たしかに、薬師寺はファイトマネーを満額受け取れませんでしたが、この勝利でこれまでの低評価を覆し、「辰吉に勝った男」として世間に認知されます。また、その後の薬師寺の人生にも大きな影響を与えたので、本来得られるはずだったファイトマネー分を取り戻すどころか、十分お釣りが来るほど富と地位と名声を得たはずです。まさに、一世一代の大勝負だったので、モチベーションは相当なはずでした。「ファイトマネーが1万円でも戦っていた」というのも、決して大袈裟では無いです。逆に言えば、この試合で下馬評どおりに薬師寺が負けていたら、きっと今頃名前すら誰も覚えていなかったと思われます。また、薬師寺が挑戦者の立場だったら、違った試合展開になっていたのかもしれません。
一方、この一戦で、国内最高のファイトマネーを得た辰吉でしたが、負けたら引退の条件(のちにJBCは辰吉の現役続行を認可)だったので必要以上に重圧が掛かり、何よりも2度の眼疾の為、長期間のブランクを作ったのが不運でした。ただ、ブランクや左手の怪我をおして、試合を捨てずに最後まで戦い抜いた辰吉も、初めて日本人に負けても決して人気や評価が落ちることはありませんでした。その後、辰吉はその後1階級上げてダニエル・サラゴサ(メキシコ)に2度挑むものの、いずれも失敗。再び世界王座に返り咲くのは、薬師寺戦の3年後の1997年11月22日、大阪城ホールでシリモンコン・ナコントン・パークビュー(タイ)を7回TKOで勝利した一戦です。
この一戦の視聴率は、関東地区では平均39.4%、関西地区では平均43.8%。
そして試合が開催された名古屋地区では平均視聴率52.2%。瞬間最高視聴率はなんと65.6%でした。
長年ボクシングは見てきましたけど、おそらく後にも先にも、こんな試合はもう無いようが気がしますね。
☆日本ボクシング史に残る伝説の一戦(1994年度の年間最高試合)