小生のマンションは、駅からバスを利用しないとちょっと遠い距離にある為、ごたぶんにもれず自転車が多い。初期設計で1世帯あたり1.5台という中途半端な設計のため、大量の自転車が外にはみ出したままである。
定期的に管理組合の理事がボランティアで整理、不審自転車の撤去など行っているが一向に減る気配がない。とうとう、有料化方針を持ち出して自転車使用規則の改正にこぎつけたところまでは良かった。しかし、この段階になって問題が発覚した。販売時の容認事項として、一世帯あたり一台の無償使用が、管理規約の附則として記載されていたのである。当然、管理規約は規則に優先するわけで、1台目は無償とせざるを得なくなってしまった。そうなると、有償化での台数削減、使われないで専有されているラックを有効利用したいという当初の目的は効果が薄れてしまう。
さらに、玄関側の通路を門扉で区切られてポーチとして使用している家からクレームが出た。本来、玄関側通路は共有部分であり物を置いてはいけない。ベランダとて緊急避難路である以上、本当は物を置いてはいけないのである。しかし現実は、ベランダは各家庭の完全な私有スペースになっており構造上それをむげにひていするわけにはいかない。しかし、ポーチは別である。簡単な門扉しかないので、誰でも入れるし、私有性はベランダに比較すれば少ない。従ってベランダに置くのは黙認せざるを得ないが、ポーチは安全性を考えれば「ダメ」というのが常識的結論だと思うが、これもなかなか浸透しない。
「私」は「公」に優先しないと思うのだが「私」が「公」に優先するのが時代の風潮なのだろうか?みんなのためにお金は出したくないけど自分のためなら使うという考え方が強くなると、マンションのような共同生活体ではきわめて危険である。全体で実施しなければならない修繕などのお金さえ拒む人が出てくるからである。また、時間も(場合によってはお金さえも)体力も?必要なマンションの管理に携わる理事など、なり手がいないことになる。そうなってしまっては管理会社にお金を吸い取られるだけのマンションになり、本当に気が付いたときには手遅れの状況になると心配になっているが、こういうことを考えるのは小生だけだろうか?
情けは人の為ならず が 本来の意味、「情けをかけることは回りまわって自分のためにもなるのだから、非情な行いはするなよ、、、」ということが通じないというニュースが出ていたが、このまま行くとカルタゴみたいになるのではないかと不安になる今日この頃なのである。
定期的に管理組合の理事がボランティアで整理、不審自転車の撤去など行っているが一向に減る気配がない。とうとう、有料化方針を持ち出して自転車使用規則の改正にこぎつけたところまでは良かった。しかし、この段階になって問題が発覚した。販売時の容認事項として、一世帯あたり一台の無償使用が、管理規約の附則として記載されていたのである。当然、管理規約は規則に優先するわけで、1台目は無償とせざるを得なくなってしまった。そうなると、有償化での台数削減、使われないで専有されているラックを有効利用したいという当初の目的は効果が薄れてしまう。
さらに、玄関側の通路を門扉で区切られてポーチとして使用している家からクレームが出た。本来、玄関側通路は共有部分であり物を置いてはいけない。ベランダとて緊急避難路である以上、本当は物を置いてはいけないのである。しかし現実は、ベランダは各家庭の完全な私有スペースになっており構造上それをむげにひていするわけにはいかない。しかし、ポーチは別である。簡単な門扉しかないので、誰でも入れるし、私有性はベランダに比較すれば少ない。従ってベランダに置くのは黙認せざるを得ないが、ポーチは安全性を考えれば「ダメ」というのが常識的結論だと思うが、これもなかなか浸透しない。
「私」は「公」に優先しないと思うのだが「私」が「公」に優先するのが時代の風潮なのだろうか?みんなのためにお金は出したくないけど自分のためなら使うという考え方が強くなると、マンションのような共同生活体ではきわめて危険である。全体で実施しなければならない修繕などのお金さえ拒む人が出てくるからである。また、時間も(場合によってはお金さえも)体力も?必要なマンションの管理に携わる理事など、なり手がいないことになる。そうなってしまっては管理会社にお金を吸い取られるだけのマンションになり、本当に気が付いたときには手遅れの状況になると心配になっているが、こういうことを考えるのは小生だけだろうか?
情けは人の為ならず が 本来の意味、「情けをかけることは回りまわって自分のためにもなるのだから、非情な行いはするなよ、、、」ということが通じないというニュースが出ていたが、このまま行くとカルタゴみたいになるのではないかと不安になる今日この頃なのである。