創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

個人が自由にふるまえる社会とは

2015-11-21 09:09:08 | 共同幻想
個人が自由に振る舞える社会へ②
私たちは、歴史的に破綻した社会主義革命や共産主義社会を目指しているわけではない。また結果として全体主義を生みだし、あるいは大衆を抑圧したマルクス主義思想に傾倒してもいない。同時に、現在のたとえば日本の戦後民主主義や資本主義が良いとも、まったく思わない。意識の高い方なら当然、不満や改善案、改革のプランを考えるに違いない。私も、その考えをここに提出しているが、専門家達が掲げている、どの改善案や改革プラとも異なっているはずだ。「個人が自由に振る舞える社会へ①」では個人は必要最小限の限定的な共同体からの抑止以外は、より個人的な自由な振る舞いができる。この状態へと向かうことが究極の未来社会だと提示している。どこに価値を置くべきかを、まず明瞭に提示すること。この価値が自分の考えと一致すれば指示し、一致しなければ指示すべきではないと断言することが大事なことだ。では、その共同体の抑圧は最小限、何が含まれているか。私たちは、他国あるいは他宗派、他民族、他人種といった共同性を根拠として戦いを強いるような一切の戦闘行為を否定している。現在、共同体あるいは共同幻想体でもっとも大きくて強制力を持つものは国民国家だ。日本でいえば政府とそれを支える官僚組織だ。国家は法律が根拠となり、強制力を振るう権限を持たされる。それを私たちは権力という言葉で言い換えている。その歴史的背景には宗教性があり、やがてその権力は宗教と実質的武力による強制力を獲得していったのは知られている。その強制力は、国民を戦闘員として利用し、生命をも犠牲に差し出せと強要できるまでになった。私たちはこうした誤った共同体権力へと至ってしまった近代国家の在り方を、一人の命を粗末に扱う政治制度を、とうてい肯定ができない。一部の権力を握った者たちが、多くの大衆、生活を支える常民を強制的に殺戮へと向かわせることを可能とする権力装置を、否定している。それは、同じ人間同士を殺人者に仕立てる殺し合いを演じさせる。
 こうした共同体の個人を圧殺し抑圧する本質を持つ共同幻想は、最小限のことだけを共同でやり、後は個人で自由に振る舞えることが、より価値があるのだという原因究明と対策の理解へと至った。
 ただし誰もが理屈では肯定的であっても、夢物語だと一笑に臥すようでは私たちの理論が、いまだ夢物語にすぎないことになる。では、現状をどう打開していけば、大衆が真に主役として主体的に振る舞うことができる糸口がつかめるのか。
 

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