■額田姫王の真実
額田姫王(ぬかだのおうきみ)が女王卑弥呼とともに古(いにしえ)の時代のなかでも、ひときわ興味をそそられる女性の一人であることは周知のことです。前回、三角関係が興味の引き金になって、少し調べてみました。当然、歴史を一人の人物像に迫ると、その当時の様子が際だって浮き上がって来ます。そこで、額田王という人物像に迫ってみます。ご一緒する万葉の旅ですね。こんな文学デートをいつかできるといいな。
万葉集に書かれている歌が12首、書紀に1首の計13首という少ない掲載にもかかわらず、ここまで名を残すには様々な理由がありました。
万葉集の第一巻・8首 彼女の有名な次の歌があります。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな
これは、「月が出たし潮時もよく、風流にも熟田津に舟を出し恋しいあなたと、たのしい一時を過ごしましょう。」などという、恋の歌かと思いきや、とんでもない。実は当時、朝鮮半島では熾烈な覇権争いを新羅、任那 、百済の三国が行っており、当時の倭国が力を入れて交流を図っていた百済に対しい、唐が支援していた新羅が力を強め、朝鮮半島統一しようと戦争になっていました。そこで、倭国は交流のあった百済を援助するための、朝鮮出兵をすべく援軍を送る際に、額田王によって公ての場で初めて読まれたという歌です。戦争に赴くために士気を鼓舞せんという思いが込められているのもです。なぜなら、女帝斉明天皇が崩御され、その報が百済救援にいざ向かわんとする兵士達の耳に入り、士気が低下していたということが想像されます。ですから、額田自身も大きな衝撃を受けている中での、しかも、この歌の内容となれば、彼女も気丈に大きな声を出して歌っている歌謡だといえます。この写真の舟は百済船で、乗船は歩いて乗り込み、干潟に潮が満ちてきたら出港します。場所は現在の四国松山説が有力で道後温泉郷の近くですが、額田自身、どのような戦になるかも分からず、不安な気持ちで出港を待っていたことでしょう。結果は、百済が敗北、加勢した大和朝廷も逃げ帰る結果になったわけです。まさか、額田姫王もその舟に同乗して百済の地へと赴いたとは、調べてみて初めて分かりました。歴史が、一人の女性に視点を据えることで手に取るように臨場感で浮き上がってきます。白村江に到着した弊は二万七千人、倭国の将軍と百済王は適新羅と唐の連合軍を迎え撃とうと隊列を組んで待期してましたが、左右ら挟み撃ちに合い、あっという間に大敗したそうです。白馬江に面したところに落下岩と呼ばれる断崖が在り、僕自身も実際に韓国に旅行して、その落下岩を船上からみてきました。当時の宮廷女官達は百済が滅びた際、三千人近くがそこから身を投げて自害しました。そのときの様子が、女官達の服がひらひらと花びらが舞うようにその岩から落ちていったとガイドから説明を受け、思わず沖縄で身を投げた女性達をも思いだし、目頭が熱くなりました。現在は「百花亭」としてその岩の上に楼観が立てられ、そこも見て来ましたが、ちょうど韓国学生達の修学旅行と同行することになり、騒々しい生徒達の声の中で見た記憶がよみがえります。額田も恐らくそれを体験しつつ舟で帰途についたはずですから、生死の狭間で恐怖にさらされ、さぞや緊張していたでしょう。これが白村江の戦いとして史実に残ることになりました。百済の王族を含めて多くの百済人が倭国に来ています。
高校の国語の教科書にも載っていますが、こうして時代状況が分かっていないと、とんでもにい誤訳を犯してしまいます。恵美さんのご両親達の国語の授業での腕の古いどころでです。なお、それ以前からも百済との交流は盛んで、仏教や漢字など多くの大陸の文化が、恐らく数百年を掛けて移入されてきています。古式・日本書紀などが最古の神話で、初めて漢字に和語が転記されたと考えられてはいますが、当然それ以前から漢字も渡来人・帰化人達によって持ち込まれていたと考えられ、その過程でも文字による表記はなされていたと考えてなんら不思議はないといえます。では、彼女がこの歌を女帝のように士気を鼓舞する重要な立場として歌ったのか。側近が天皇の立場で歌を歌うほどの女性だったということが理解できます。帰国後は、亡き斉明天皇の喪葬儀礼に一貫して奉仕、嬪宮儀礼から埋葬までお世話をして、明日香村の斉明天皇陵には何度も通ったことでしょう。以後、引き続き中大兄皇子に使えて活躍しています。
しかも、これからが実は彼女の歴史的悲劇ですが、それほど位の高くない貴族・鏡王の娘として生まれた額田姫は、天武天皇の最初の后で、十一皇女を娘としています。この娘十市皇女は天智天皇の息子大友皇子と結婚。ところが、この大友皇子は天智天皇(大海人皇子)と壬申の乱で戦い、25歳の時に殺されてしまいます。このとき、額田姫王はどうしていたかというと、天武天皇とは離婚。鵜野皇女(持統天皇)が後妻に入り、額田はすでに他界している天武天皇の兄・天智御陵の奉仕のため大津宮に敵方として尽くしておりました。身内の熾烈な権力闘争に巻き込まれた額田姫王もその娘の十市皇女も悲劇の女性といえそうです。しかも古代の皇族の常として、我が子を育てることができず、額田は十市県主家にその養育をゆだねるしかなかった。大友皇子との婚姻は、さぞ喜んだに違いない。しかし、その十市皇女は33歳で急死、我が子に先立たれた額田の悲しみはいかばかりかと察しられます。なお、当時の女官は基本的に恋愛も、結婚も禁じられていました。
では、天武天皇と額田姫王との出会いから婚姻はどのような経緯であったか。それは、一般に天皇が元服の祭、添い伏しといって成人の儀にために年上の女官と同衾するいう仕来りがあり、そこで額田姫王がそのお相手だったとされています。ただ、斉明天皇に3年ほどお仕えし、側近として歌も才も気に入られていたことから、大海人皇子の添い伏しに選んだのは母親そのものではないかと考えられています。そして、かねがね目にとまっていた、その最初の相手を后とし、婚姻し、当然当時は一夫多妻ともいえる宮廷の環境でしたから、やがて額田王は次のお相手に取って代わられることになったという経緯ではないかと考えられます。ただ、疑問が残るのは、天智天皇、天武天皇と額田王との三角関係の真実は、それになぜ天智天皇と別れた彼女が、天智陵御の奉仕をしていたかです。また、万葉集に12歌もの短歌を掲載されている素養を、どこで身につけることができたか。
その素養については、彼女の父親は鏡王で額安寺を中心とした額田部氏は天津彦根命を祖神とする出雲系氏族で、恐らく幼少期から出雲系の祭儀に関わる古伝承や土謡歌謡に親しみ、そのような生育環境が歌謡の習熟をはぐくんでいたと考えていいのではないでしょうか。宮廷女官達は地方豪族の娘達が差し出されていますが、そもそも彼女達は巫女から宮廷女官になり、初期の頃は祝詞、神語の語り聞かせという呪術的職務から、やがて現世的に分化し、それに伴い歌諺、歌謡、物語の創造による教育といった役所も担い、やがて女流物語文学や日記、随筆といった仮名文学の成立に関わる道を開いていったといえます。
秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 菟道(うぢ)の宮(みや)処(こ)の念(おも)ほゆ
この歌は万葉集の彼女の歌として最初に登場しますが、十代の頃に女帝(皇極)と共に宇治を訪れ、女孺(ぬのわらは)として出仕し吉野宮の肆宴(とよのあかり)で宮廷を代表して詠んだ歌だとおもわれます。畿内の氏族から献上される娘達同様に出仕した中で、その才能から頭角を現し、こうして天皇の側近として歌の披露もでき、目にとまっていたとはかんがえられます。ただ、このシャーマン的な能力を持っていたとされている女帝の側近であったという意味は、大きいでしょう。これは、まさに女帝の気持ちを代弁して歌ってさしあげた歌といえます。女帝の記憶にも残り、万葉集にも載せられ、歴史を越えて伝えられる歌になったと思うと、感慨深いと共に額田の地位、評価を押し上げたものともいえのしょう。こうして、大きく彼女は歴史に関わる女性になってきます。
さて、ここからが謎解きです。女帝・皇極天皇とは第37代の斉明天皇のことで、舒明天皇の皇后として、中大兄皇子ー(天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、さらに大海人皇子(天武天皇)の母親だということです。この斉明天皇の宮女として、ぴたりと側に付いていた額田姫です。中大兄皇子、大海人皇子の目にとまり、声を掛けられ関わらないわけがないと勘ぐります。
気になるのは、紀の温泉で額田王が作った歌
莫囂圓隣之大相七兄爪謁気 吾が背子が い立たせりけむ 巖橿が本
万葉集一巻九にありますが、どう読むべきかでも学説がいろいろ別れてはいますが、これは本人が個人的に温泉へ行って読んだのではなく、当然その時代の動向を天皇もしくはその代読として歌ったと考えられます。時代背景からすれば、中大兄皇子(天智天皇)が有間皇子をライバル視して、紀温湯に呼び寄せ尋問します。皇位継承に絡み、謀反を察知して結局、その二日後に有間皇子を殺してしまいます。 額田王はそのとき、斉明天皇の御行幸の随行として紀温湯にいたとされ、その際女帝の心情を代弁して、その後の宴席にて読まれた歌のようです。ここでいう吾が背子とは中大兄皇子を指すと考えられています。
では、宮廷歌人としての額田姫はどうだったのでしょう。さらに、何かが見えてきそうなので、もう少しお付き合いください。
白村江の敗戦後、中大兄皇子は都を夷(近江)へ遷都します。それは国防と同時に国内の各豪族達の侵攻にに備える地として、畿内よりも流人の流罪地に遷した方が合理的と、住み慣れた生活基盤の地を離れていますが、額田を含む宮廷人達の不安はいかばかりであったか。ただ、その大津宮で額田の創作活動が花開き、「塞翁が馬」のごとく白村江の敗退が彼女には新たなきっかを与えたようです。そこでは、天智天皇の息子の大友皇子が百済からの亡命貴族や渡来人達の漢詩、歌を通じた交流を図り、近江令の編纂など中央政治にも参加してもらっていました。兵法・薬学・五経・陰陽など漢字や高い異文化が百済人達から中央にもたらされています。
①三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや
(三輪山の神・大物主命が顔を見せようとしているのなら、せめて雲だけでも情をもっ て三輪山が見えるように協力すべきだ)といったような意味ですが、何が珍しいかというといえば、今までは代弁歌として天皇の立場で歌を書いていた額田が、二拍三日約30キロをかけて大津へと移動する際に、中大兄皇子とともに多くの人数も遷都していく途中、彼女自身の私感情を前面に出して歌を詠んでいます。大和を後にしていく寂しさと不安、不満の心情の吐露ともいえます。ここでいう雲行きとは雨雲で、一行が天候の変化の不安も抱えながら移動している様子もうかがえます。こうして、いよいよ歌が額田という女流宮廷歌人を通して叙情歌の幕を開けたといっても良い作品です。 こうして、近江朝にあって、額田王は天智天皇の側近として文雅の宴を盛り上げる立役者となっていきます。
その近江朝の明日香宮でのある宴席で、宴を盛り上げるために即興の歌を披露する催しが多々あり、額田が恋の歌で彩りを添えました。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守りは見ずや 君が袖振る
ここで宴席の座興は完結していました。が、突然、皇太子が大胆な求愛かいてあるそこで披露しました。
むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人づまゆゑに 吾戀めやも
この訳は、(紫色があたりに照り映えるような輝きをはなつあなたを、私がもし憎く思っていたのならば、あなたは触れてはならない人妻であるがゆえに、なおさら心がそそられる、どうしてこんなに恋い慕うことがあろうか、いや、あるはずがない)
当時、額田は42歳の威厳を持っているベテラン女官。大海人皇子との間にもうけた一人娘十市皇女にはすでに孫の葛野王も生まれている。そこに、大海人皇子が額田に歌いかけた。老妻に向けての破格の賛辞を、宴を盛り上げるために歌いかけたと取れば和む。しかし、皇太子が大友皇子とすれば、義理の母に対しての道ならぬ恋を座興で歌ったと考えられます。様々な解釈は成立するものの、本気で歌い合っている恋愛歌ではなさそうだということも分かってきました。
自然宗教から理念宗教である道教、仏教、儒教といった新たな宗教の移入は、漢字の流入とともに意識にも大きな影響を与え、それも詩的言語をさらに物語言語へと導く外因となっています。こうして王権の危機を、一人の女性が身をもって共有し、まさに政治の中心で生きた額田姫王のつらく悲しい物語が、彼女の歌の周辺から聞こえてくるようです。二人の天皇との三角関係という不純な興味が、まさか個々までの女性の人物像に触れられるとは予想だにしていなかったので、大変興味深く、歴史物語の深さ、臨場感、人間関係を手に取るように追体験できて良かったと思います。
調べてみると、書物によってみな意見が異なり、何が真実なのかを確定することがなかなか難しい。多くを想像で書かざるを得ないのが実態です。
額田姫王(ぬかだのおうきみ)が女王卑弥呼とともに古(いにしえ)の時代のなかでも、ひときわ興味をそそられる女性の一人であることは周知のことです。前回、三角関係が興味の引き金になって、少し調べてみました。当然、歴史を一人の人物像に迫ると、その当時の様子が際だって浮き上がって来ます。そこで、額田王という人物像に迫ってみます。ご一緒する万葉の旅ですね。こんな文学デートをいつかできるといいな。
万葉集に書かれている歌が12首、書紀に1首の計13首という少ない掲載にもかかわらず、ここまで名を残すには様々な理由がありました。
万葉集の第一巻・8首 彼女の有名な次の歌があります。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな
これは、「月が出たし潮時もよく、風流にも熟田津に舟を出し恋しいあなたと、たのしい一時を過ごしましょう。」などという、恋の歌かと思いきや、とんでもない。実は当時、朝鮮半島では熾烈な覇権争いを新羅、任那 、百済の三国が行っており、当時の倭国が力を入れて交流を図っていた百済に対しい、唐が支援していた新羅が力を強め、朝鮮半島統一しようと戦争になっていました。そこで、倭国は交流のあった百済を援助するための、朝鮮出兵をすべく援軍を送る際に、額田王によって公ての場で初めて読まれたという歌です。戦争に赴くために士気を鼓舞せんという思いが込められているのもです。なぜなら、女帝斉明天皇が崩御され、その報が百済救援にいざ向かわんとする兵士達の耳に入り、士気が低下していたということが想像されます。ですから、額田自身も大きな衝撃を受けている中での、しかも、この歌の内容となれば、彼女も気丈に大きな声を出して歌っている歌謡だといえます。この写真の舟は百済船で、乗船は歩いて乗り込み、干潟に潮が満ちてきたら出港します。場所は現在の四国松山説が有力で道後温泉郷の近くですが、額田自身、どのような戦になるかも分からず、不安な気持ちで出港を待っていたことでしょう。結果は、百済が敗北、加勢した大和朝廷も逃げ帰る結果になったわけです。まさか、額田姫王もその舟に同乗して百済の地へと赴いたとは、調べてみて初めて分かりました。歴史が、一人の女性に視点を据えることで手に取るように臨場感で浮き上がってきます。白村江に到着した弊は二万七千人、倭国の将軍と百済王は適新羅と唐の連合軍を迎え撃とうと隊列を組んで待期してましたが、左右ら挟み撃ちに合い、あっという間に大敗したそうです。白馬江に面したところに落下岩と呼ばれる断崖が在り、僕自身も実際に韓国に旅行して、その落下岩を船上からみてきました。当時の宮廷女官達は百済が滅びた際、三千人近くがそこから身を投げて自害しました。そのときの様子が、女官達の服がひらひらと花びらが舞うようにその岩から落ちていったとガイドから説明を受け、思わず沖縄で身を投げた女性達をも思いだし、目頭が熱くなりました。現在は「百花亭」としてその岩の上に楼観が立てられ、そこも見て来ましたが、ちょうど韓国学生達の修学旅行と同行することになり、騒々しい生徒達の声の中で見た記憶がよみがえります。額田も恐らくそれを体験しつつ舟で帰途についたはずですから、生死の狭間で恐怖にさらされ、さぞや緊張していたでしょう。これが白村江の戦いとして史実に残ることになりました。百済の王族を含めて多くの百済人が倭国に来ています。
高校の国語の教科書にも載っていますが、こうして時代状況が分かっていないと、とんでもにい誤訳を犯してしまいます。恵美さんのご両親達の国語の授業での腕の古いどころでです。なお、それ以前からも百済との交流は盛んで、仏教や漢字など多くの大陸の文化が、恐らく数百年を掛けて移入されてきています。古式・日本書紀などが最古の神話で、初めて漢字に和語が転記されたと考えられてはいますが、当然それ以前から漢字も渡来人・帰化人達によって持ち込まれていたと考えられ、その過程でも文字による表記はなされていたと考えてなんら不思議はないといえます。では、彼女がこの歌を女帝のように士気を鼓舞する重要な立場として歌ったのか。側近が天皇の立場で歌を歌うほどの女性だったということが理解できます。帰国後は、亡き斉明天皇の喪葬儀礼に一貫して奉仕、嬪宮儀礼から埋葬までお世話をして、明日香村の斉明天皇陵には何度も通ったことでしょう。以後、引き続き中大兄皇子に使えて活躍しています。
しかも、これからが実は彼女の歴史的悲劇ですが、それほど位の高くない貴族・鏡王の娘として生まれた額田姫は、天武天皇の最初の后で、十一皇女を娘としています。この娘十市皇女は天智天皇の息子大友皇子と結婚。ところが、この大友皇子は天智天皇(大海人皇子)と壬申の乱で戦い、25歳の時に殺されてしまいます。このとき、額田姫王はどうしていたかというと、天武天皇とは離婚。鵜野皇女(持統天皇)が後妻に入り、額田はすでに他界している天武天皇の兄・天智御陵の奉仕のため大津宮に敵方として尽くしておりました。身内の熾烈な権力闘争に巻き込まれた額田姫王もその娘の十市皇女も悲劇の女性といえそうです。しかも古代の皇族の常として、我が子を育てることができず、額田は十市県主家にその養育をゆだねるしかなかった。大友皇子との婚姻は、さぞ喜んだに違いない。しかし、その十市皇女は33歳で急死、我が子に先立たれた額田の悲しみはいかばかりかと察しられます。なお、当時の女官は基本的に恋愛も、結婚も禁じられていました。
では、天武天皇と額田姫王との出会いから婚姻はどのような経緯であったか。それは、一般に天皇が元服の祭、添い伏しといって成人の儀にために年上の女官と同衾するいう仕来りがあり、そこで額田姫王がそのお相手だったとされています。ただ、斉明天皇に3年ほどお仕えし、側近として歌も才も気に入られていたことから、大海人皇子の添い伏しに選んだのは母親そのものではないかと考えられています。そして、かねがね目にとまっていた、その最初の相手を后とし、婚姻し、当然当時は一夫多妻ともいえる宮廷の環境でしたから、やがて額田王は次のお相手に取って代わられることになったという経緯ではないかと考えられます。ただ、疑問が残るのは、天智天皇、天武天皇と額田王との三角関係の真実は、それになぜ天智天皇と別れた彼女が、天智陵御の奉仕をしていたかです。また、万葉集に12歌もの短歌を掲載されている素養を、どこで身につけることができたか。
その素養については、彼女の父親は鏡王で額安寺を中心とした額田部氏は天津彦根命を祖神とする出雲系氏族で、恐らく幼少期から出雲系の祭儀に関わる古伝承や土謡歌謡に親しみ、そのような生育環境が歌謡の習熟をはぐくんでいたと考えていいのではないでしょうか。宮廷女官達は地方豪族の娘達が差し出されていますが、そもそも彼女達は巫女から宮廷女官になり、初期の頃は祝詞、神語の語り聞かせという呪術的職務から、やがて現世的に分化し、それに伴い歌諺、歌謡、物語の創造による教育といった役所も担い、やがて女流物語文学や日記、随筆といった仮名文学の成立に関わる道を開いていったといえます。
秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 菟道(うぢ)の宮(みや)処(こ)の念(おも)ほゆ
この歌は万葉集の彼女の歌として最初に登場しますが、十代の頃に女帝(皇極)と共に宇治を訪れ、女孺(ぬのわらは)として出仕し吉野宮の肆宴(とよのあかり)で宮廷を代表して詠んだ歌だとおもわれます。畿内の氏族から献上される娘達同様に出仕した中で、その才能から頭角を現し、こうして天皇の側近として歌の披露もでき、目にとまっていたとはかんがえられます。ただ、このシャーマン的な能力を持っていたとされている女帝の側近であったという意味は、大きいでしょう。これは、まさに女帝の気持ちを代弁して歌ってさしあげた歌といえます。女帝の記憶にも残り、万葉集にも載せられ、歴史を越えて伝えられる歌になったと思うと、感慨深いと共に額田の地位、評価を押し上げたものともいえのしょう。こうして、大きく彼女は歴史に関わる女性になってきます。
さて、ここからが謎解きです。女帝・皇極天皇とは第37代の斉明天皇のことで、舒明天皇の皇后として、中大兄皇子ー(天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、さらに大海人皇子(天武天皇)の母親だということです。この斉明天皇の宮女として、ぴたりと側に付いていた額田姫です。中大兄皇子、大海人皇子の目にとまり、声を掛けられ関わらないわけがないと勘ぐります。
気になるのは、紀の温泉で額田王が作った歌
莫囂圓隣之大相七兄爪謁気 吾が背子が い立たせりけむ 巖橿が本
万葉集一巻九にありますが、どう読むべきかでも学説がいろいろ別れてはいますが、これは本人が個人的に温泉へ行って読んだのではなく、当然その時代の動向を天皇もしくはその代読として歌ったと考えられます。時代背景からすれば、中大兄皇子(天智天皇)が有間皇子をライバル視して、紀温湯に呼び寄せ尋問します。皇位継承に絡み、謀反を察知して結局、その二日後に有間皇子を殺してしまいます。 額田王はそのとき、斉明天皇の御行幸の随行として紀温湯にいたとされ、その際女帝の心情を代弁して、その後の宴席にて読まれた歌のようです。ここでいう吾が背子とは中大兄皇子を指すと考えられています。
では、宮廷歌人としての額田姫はどうだったのでしょう。さらに、何かが見えてきそうなので、もう少しお付き合いください。
白村江の敗戦後、中大兄皇子は都を夷(近江)へ遷都します。それは国防と同時に国内の各豪族達の侵攻にに備える地として、畿内よりも流人の流罪地に遷した方が合理的と、住み慣れた生活基盤の地を離れていますが、額田を含む宮廷人達の不安はいかばかりであったか。ただ、その大津宮で額田の創作活動が花開き、「塞翁が馬」のごとく白村江の敗退が彼女には新たなきっかを与えたようです。そこでは、天智天皇の息子の大友皇子が百済からの亡命貴族や渡来人達の漢詩、歌を通じた交流を図り、近江令の編纂など中央政治にも参加してもらっていました。兵法・薬学・五経・陰陽など漢字や高い異文化が百済人達から中央にもたらされています。
①三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや
(三輪山の神・大物主命が顔を見せようとしているのなら、せめて雲だけでも情をもっ て三輪山が見えるように協力すべきだ)といったような意味ですが、何が珍しいかというといえば、今までは代弁歌として天皇の立場で歌を書いていた額田が、二拍三日約30キロをかけて大津へと移動する際に、中大兄皇子とともに多くの人数も遷都していく途中、彼女自身の私感情を前面に出して歌を詠んでいます。大和を後にしていく寂しさと不安、不満の心情の吐露ともいえます。ここでいう雲行きとは雨雲で、一行が天候の変化の不安も抱えながら移動している様子もうかがえます。こうして、いよいよ歌が額田という女流宮廷歌人を通して叙情歌の幕を開けたといっても良い作品です。 こうして、近江朝にあって、額田王は天智天皇の側近として文雅の宴を盛り上げる立役者となっていきます。
その近江朝の明日香宮でのある宴席で、宴を盛り上げるために即興の歌を披露する催しが多々あり、額田が恋の歌で彩りを添えました。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守りは見ずや 君が袖振る
ここで宴席の座興は完結していました。が、突然、皇太子が大胆な求愛かいてあるそこで披露しました。
むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人づまゆゑに 吾戀めやも
この訳は、(紫色があたりに照り映えるような輝きをはなつあなたを、私がもし憎く思っていたのならば、あなたは触れてはならない人妻であるがゆえに、なおさら心がそそられる、どうしてこんなに恋い慕うことがあろうか、いや、あるはずがない)
当時、額田は42歳の威厳を持っているベテラン女官。大海人皇子との間にもうけた一人娘十市皇女にはすでに孫の葛野王も生まれている。そこに、大海人皇子が額田に歌いかけた。老妻に向けての破格の賛辞を、宴を盛り上げるために歌いかけたと取れば和む。しかし、皇太子が大友皇子とすれば、義理の母に対しての道ならぬ恋を座興で歌ったと考えられます。様々な解釈は成立するものの、本気で歌い合っている恋愛歌ではなさそうだということも分かってきました。
自然宗教から理念宗教である道教、仏教、儒教といった新たな宗教の移入は、漢字の流入とともに意識にも大きな影響を与え、それも詩的言語をさらに物語言語へと導く外因となっています。こうして王権の危機を、一人の女性が身をもって共有し、まさに政治の中心で生きた額田姫王のつらく悲しい物語が、彼女の歌の周辺から聞こえてくるようです。二人の天皇との三角関係という不純な興味が、まさか個々までの女性の人物像に触れられるとは予想だにしていなかったので、大変興味深く、歴史物語の深さ、臨場感、人間関係を手に取るように追体験できて良かったと思います。
調べてみると、書物によってみな意見が異なり、何が真実なのかを確定することがなかなか難しい。多くを想像で書かざるを得ないのが実態です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます