創造的深化

より納得のできる未来を、考えてみるには・・・

国家を開くこと   ③

2015-11-20 16:58:57 | 共同幻想
 個人が自由に振る舞える社会へ③
(1)国家を開くこと
 国家を開くという意味は、二面性を持っている。第一に国家(政府)の側から開くということ。第二に国民(大衆)の側に立って開くということ。
 第一の国家(自治体も同様)の側から開くとは、国民(住民)に政治の決定権を移していくということに尽きる。具体的な、内容を挙げてみよう。特に重大な決定をする場合、現在の政治の仕組みでは国会議員がそれぞれの地域の選出された代表として発言権や決定権を委任され、実質的には議員個人が判断して行うことになる。 しかし、その議員は政党に所属している。政党はそれぞれの集団としての政治に閑しての理念と意志を示して行動していく。ここで、共有された政治的な主張に基づいて行動を課せられることになる。すでにこの段階では政治家個人の自由な考えや振る舞いの規制を受けることになる。個人である政治家としての選択で所属政党を選んだ時点で、共同性の逆立である強制という抑圧を受ける。選挙民である国民(住民)は、地元で夏祭りや自治会総会などでよく見かける人物、話したことのある候補、あるいは二世だから、といった理由が大きい。 ただし、その政党が与党か野党かで政治家の発言力、あるいは政治力は大きく変わる。また選出されている回数が何回かで役職も発言権も変わる。こうして、代議員制は実は国民(住民)の思いとは遊離して実行されてしまう。政治の駆け引きや、綱引きや思惑や仲間意識や義理といったレベルが、大きな要因となりやすい。信念を貫き党利党略とは異なる考え、意見を貫こうとすれば離党や、除籍処分が待ち構えている。議員活動としては致命的だ。こうした日本的な政治体質は、選挙民とは隔絶した場所で行われていく。もし与党として政権を担当していれば、いちいち国民の意思を直接反映させるのではなく、形式的な野党との議論や駆け引きも含め、多数派として決定権を強行する。そこには国民の意思は直接反映するかどうかは関係ない。政権担当力で一方的に力の行使をするだけだ。閣議決定あるいは総理一人の考えで強行する。問題は、こうした国民(住民)とは隔絶した状態での政治は可能だということだ。もし、総理1人が仮に集団的自衛権を進めたければ実は可能だし、いざ戦争へと荷担もしくは参戦にともなう攻撃を受けても、戦争は始められる。憲法第九条を破棄し、自衛隊を軍隊とし、戦争がしやすいような条項に変更されれば、総理と一握りの政権与党の閣僚による決定でも戦争は実行可能だといえる。もし、そうなれば民意は仮構され、あるいは無視されても開戦は進められていく。NHKばかりではなく、新聞やメディアも戦争の正当性をはやし立てて国民は情報操作されてしまう。それが戦争だ。また、平和な社会は戦争へと突き進む。家族は離散し、綿者達は戦争のために戦地と行く。戦死は覚悟の上田市、相手国の若者との殺し合いが日常化する。ミサイル攻撃や爆撃などで国民は死に、都市は廃墟と化す。多くの税金が消え、国民は犠牲となって命を奪われ、相手国の国民の命も奪う。戦争は悲惨だ。全体主義は再び頭を持ち上げて、ナチがユダヤ人達をゴミのように機械化して大量虐殺を実行した。満州事変では中国人を大量虐殺したのも日本人だったが、今度は逆も起こりうる。再び原爆が投下されるかもしれない。 東京、大阪などの大都市への原爆投下は大量の国民の命を奪う。戦争を、二度と起こすまい終戦では決意したはずだった。平和を願うことで第九条はシンボルとなった。しかし、今も専科は世界中に絶えない。こうした戦争に再び突入しようとすることは、人間としての良心ががあれば戦争はしないはずだ。平和は大切だ。そこで戦争に関わる重要事項の決定は、国民投票で決める。この条項が入れば、少なくとも決定権が国民に開かれたことを意味する。 国家を開くとは、直接国民が投票し重要事項の判断をする。議会制民主主義と並行して、議員の決定を覆し、議会や閣議決定を覆してでも、国民(住民)の決定が最優先となる。これが、国民に「開く」という意味だ。情報公開や情報共有だけが「開く」ことだと勘違いしている人が多いが、それは大きな誤解だ。同時に、政府のリコール権を国民が持つということが開くことになる。政権与党は民意に離反しても暴走することを保証されている。それでは本末転倒だ。そこで政権与党あるいは政府、閣僚の決定による政治的判断ミスや独断専行を防止するためにも「政府のリコール権」を国民が持ち、いつでもそれを行使できるという条項を加えれば十分だ。よく諸外国の大統領公選制を模倣して、首相公選制を口にする政治家がいるが、首相の決定権は絶対的になる危険をはらむ。そこで、大事な事は「政府のリコール権」と同時に「首相(総理)のリコール権」も加えることだ。これは実は重要なことだ。公選制とリコール権をセットにしなければ、何の意味もない。
 付け加えるなら現在の政府を支える官僚制の実質的な減衰化も進めなければならない。明治以来叫ばれていて、いかなる政治家をもってしても実現できない重要課題は、地方分権だ。先ず公務員の数の縮小は、その背後に中央集権政治の解体を含んでいる。高級官僚の優遇特権を全廃し、給料を一般の労働者並みに引き下げる。ロシヤのレーニンが考えても実現できなかったことで、革命政権が結局は国民の弾圧政権へと横滑りした大きな原因のひとつだ。大企業の平均給与を自らの給与水準の指標にしている。しかし、中小企業の従業員20人以下の労働者の平均給与相当にすべきだ。サレが次期ゲンできず、等の官僚達がお手盛り給与体系を構築しているから、国家は中央集権的な官僚支配の巣窟として肥大化してしまっている。彼等の人件費だけで税金の負担は大きく奪われてしまっている。これは核市町村自治体にもいえることだ。まず、公務員の人件費引き下げと並行して、小さな政府、小さな自治体へと分権を徹底して進めることが不可欠だ。中央政府は、国民にとって最低限必要だと考えられる業務だけに限定し、あとは下へと移譲すること、また可能な限りの徹底した民間へと移譲していくことだ。では、ダウンサイジングした各地方自治体はどうなるのか。当然、道州制論議は別として、各地方自治体も必要最小限のことのみを自治体の業務として、小さな自治体を基礎自治体の機構へつ変える。その主な内容は、小学校区、あるいはそれ以上に細分化して地域住民、地域の企業や団体、老人会、PTAや自治会、NPOなどと、非自治会員などの地域運営協議会を構成し、地域のことは地域の住民が独自に運営するようにし、予算も各協議会で自主運営していく。街頭が消えたり道路が冠水したら、その地域の予算で業者に連絡し、補修すれは済む。こんな小さな琴でも、今は痔地帯の担当がいちいち調査して、業者に連絡し支払いを自治体が行うよに、すべてのことを自治体が担う体質になっている。地域のことは地域がやるようにしていくことが、基礎自治体を強くするし、無駄な経費をも大きく削減できる。住民の最小単位を向こう三軒両隣の発想で、10軒程度がまず相互扶助の基礎の核となるようにしていく。今は、自分のことは自分と孤立しがちな世の中だが、助け合いの核づくりも協力体制も基礎自治体のイメージ転換の要になる。当然、産業も影響しているか、これについては次の項に触れる。また、非政治的な、直接政治に関わらない大衆の同意なしに、軍隊、警察、大衆段圧力となるような機関を絶対に持たないこと。これらは必ず権力による大衆弾圧装置として機能するからです。大衆は武器を持っていないし、戦闘能力もない。国内の権力が同じ大衆を過去に、明治以来いかに拷問し、弾圧してきたかを考えれば、この弾圧装置として機能する軍隊や警察権力を、規制することは大衆にとっては当然のことです。自衛隊も国軍です。憲法九条は、平和憲法の理念であるとともに、大衆の弾圧装置にいつでもなるのが国軍です。ですから、本質論は持ってはいけないのです。ただし、今回は国家が開くということをテーマとしていますから、上記のことで十分だといえるでしょう。

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