電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「ワールド・カップ」

2006-06-19 00:26:04 | スポーツ・ゲーム

 沢木耕太郎さんのサッカー観戦記に『杯[カップ] 緑の海へ』(新潮文庫/2006.5.1)がある。私は、時々現在進行中のワールド・カップをテレビで観戦しながら、沢木さんの文章を読んだ。日本対クロアチア戦が始まる少し前に、この本を読み終えた。この本では、1998年のフランス大会で最初にサッカーに目覚めた、沢木さんがそれから4年後、日韓共催で行われたワールド・カップを殺人的なスケジュールで、日韓両国を移動しながら、彼が重要だと思った試合を見ることとそのための移動の中で出会った、日本と韓国の人々や生活などを記している。

 ところで、沢木さんは、私と同じ年齢で、子どもの頃のスポーツは、野球が中心だった。サッカーなどやったことがなかったという。スポーツライターでもある沢木さんがサッカーに関心を持ったのは、Jリーグができてからだと言う。私の記憶でも、子どもの頃からサッカーをやっていたという人がいたらそれはかなり珍しい存在だったと思う。私の弟のうち3人までが、サッカーをやることになったが、それは高校には行ってからだった。つまり、小学校や中学校で正式にサッカークラブがあったのは珍しかったと思う。だから、次のような沢木さんの指摘は、その通りだと思った。

 ところが、サッカーに関心を持っていた少年にとって事情は全く違っていた。当時の日本にはサッカーのプロリーグがなかったことはもちろんのこと、アマチュアにも大したチームがなかった。そのため、サッカー好きの少年たちは、ヨーロッパや南米のチームと選手に感心を向けざるをえなかったのだ。眼を世界に向け、新聞や雑誌でわずかな情報を自分で集め、苦労しながら知識を積み重ねていったような子たちが多かった。その意味で、彼らはインテリジェンスがあり、賢かったはずだが、同時に、みんなが「おい野球をやろうぜ」と誘いに来ても背を向けるような、わりと偏屈なところがある子だったような気もする。それが私たちの世代における「サッカー少年」の像だった。(『杯』p91・92)

 Jリーグは1993年に開幕したが、その前後に、少年野球チームと少年サッカーチームが逆転した。そして今では、子どもたちの間で最も人気のあるスポーツにサッカーはなった。私の息子もサッカーチームに入っているくらいだ。子どもたちの間でどうして、野球をするのが減って、サッカーをやるものが増えたのだろうか。Jリーグができる直前に、テレビで特別番組が組まれ、その中でサッカー少年たちにインタビューをするというコーナーがあったそうだ。その時の少年たちの言葉に沢木さんは、驚いている。

 そこにおける問いのひとつに、どうして君は野球ではなくサッカーをやったのか、と言うのがあった。言い換えれば、君はどうして野球は嫌いなのだ、というわけだ。
 最も多かった理由は何だったか? 彼らが野球を選ばなかった理由は、ユニフォームのカッコ悪さでもなければ、先輩との上下関係の厳しさでもなかった。彼らが野球を選ばなかった理由は私の想像を絶するものだった。なんと、もっとも多かった理由は「野球はルールが難しいから」というものだったのだ。(同上・p93)

 確かに、野球のルールは難しい。漫画や野球を見て、そして子どもの頃から野球をやってきた我々は、野球というスポーツを自然に覚えていったものだが、いざ初めにサッカーと野球を並べてどちらのルールの方が分かり易いかと問われたら、今の子どもならサッカーだと答えるに違いない。サッカーのルールで難しいのはオフサイドくらいしかない。オフサイドのルールは時代のよってかなり変化してはいるが、基本的には、ボールを前に出したとき、そのボールを受ける味方の選手と相手のゴールラインとの間に、相手の選手がいなければならないと言うルールである。現在は相手チームの選手が2名いればいいことになっているが、ゴールキーパーがたいてい一人いるので、もう一人いればいいことになる。

 私には、将棋のルールと囲碁のルールのような違いを、野球とサッカーのルールの違いに感じる。サッカーも囲碁もルールはとてもシンプルだが、シンプルゆえに奥が深い。しかし、囲碁とサッカーとは全く違うところがある。サッカーは、人間が体を使ってやるスポーツである。身体の動き自体がゲームを進行させる。囲碁は、必要なら自分で打たなくても戦うことができる。そして、サッカーの本当の面白さは、身体と身体の接触の仕方が反則になったり、反則にならなかったりするという微妙な綾によって加速される。ボールの奪い合いは、身体と身体が接触することによって行われることが多い。意図的に接触したのか、自然と接触したのかの違いが、審判によって判定される。その意味では、審判の主観がかなり強く入り込む余地を持っている。

 日本チームは、第1試合のオーストラリア戦に敗れたが、この試合でも身体と身体の接触の仕方が微妙に勝負のゆくえを左右した。ある時には、反則になり、ある時には反則にならなかったりした。そして、結局は日本は、破れてしまった。最初に1点を取られたオーストラリアのほうが、その意味では、幸運だったのかも知れない。彼らは、審判をも味方につけてしまったのだから。そして、審判は、絶対でもある。後でどうこう言っても始まらない。とにかく、相手以上のパワーを出すしかないのだ。1点取られた後が大事なのだと思う。それからの展開が観るものを暑くさせてくれるのか、冷めさせてしまうのかが、その試合を面白くさせてくれるのだ。

 ところで、沢木さんが最初に見たワールドカップはフランス大会であったのだが、その時は地元フランスが優勝した。その時、日本は、1次リーグで敗退した。日本の相手は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカだった。そう、その時も2戦目がクロアチアだったのだ。日本は、アルゼンチンに1対0で負けた。そして、次にクロアチアにも1対0で負けてしまった。これで1次リーグを突破できないことがほぼ決まったわけだ。今日の試合は、日本はよく頑張った。あのクロアチアに0対0で引き分けたのだ。首の皮一枚で残っている感じだ。一応、日本もクロアチアも、1引き分け1敗と言うことになった。

 ワールド・カップの楽しみ方には、自国の選手を応援し、その勝利の美酒に酔いしれてみるという楽しみ方と、最高の試合に出会い、その一部始終を見届けるという楽しみ方がある。その二つは全く別の楽しみ方なのだが、できたら二つとも同時に楽しみたいと思うのは、とても贅沢なのかも知れない。沢木さんの本は、サッカーの魅力がよく分からなかった私に、サッカーの楽しみ方を教えてくれた。