電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『脳はなぜ「心」を作ったのか』

2004-12-05 16:53:07 | 自然・風物・科学
 前野隆司さんの『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房)という本は、分かり易く書かれているが、とてもエキサイティングな本だ。私は、ほとんど一気に読み終えた。茂木健一郎さんの『脳と仮想』(新潮社)では、「クオリア」が少し神秘化されて描かれていたが、前野さんは「エピソード記憶」を作るために脳が必要とした「錯覚」というように説明している。前野さんは脳のニューラルネットワークによって、すべてが説明できると考えているようだ。

 私たちは、何かをしよするとき、まず、これから行動する何かを思い浮かべ、その次にそれをやろうと意識し、ついで脳の神経に指令がいき、実際の行動が行われると思っている。しかし、アメリカのリベットという人の実験によれば、指を動かそうと意識するより早く、脳内の無意識下の活動が始まっているという。また、体性感覚野に電気刺激を与えると、本来そこが処理するはずの感覚を感じることが知られているが、リベットは、指に何か触れた感じがする感覚を起こさせるように大脳皮質を刺激してみたところ、0.5秒以上続けたとき初めて感覚として意識されたという。逆に0.5秒以下のときは、感覚として意識されないという。この二つの事例から、前野さんは、意識は実際は後追いであり、同時だと思っているのは「錯覚」だという。

 つまり、「私」(意識)は、意図した瞬間や刺激を受けた瞬間を遅れて感じているに過ぎないのに、「意識は無意識よりも前にあるように感じる」と脳に錯覚の決まりが書かれているために、あたかも「私」が初めに自分でやったことであるかのように、たとえば、指を自ら動かそうと意図したかのように錯覚しているのだ。しかも、そのようにリアルに勘違いできるように、脳内では時間調整が行なわれ、つじつまが合わせられているのだ。(脳はなぜ「心」を作ったのか』p89)


 しかし、こういったからと言って、自分の行動が誰かに操られて起きているわけではない。実際は脳のニューラルネットワークによってすべては決まり、行動が開始されているのであり、それを意識化しているだけに過ぎない。いずれにしても自分が決めて行動しているのだから、脳はあたかも意識上は、「私」が決めたと錯覚していても、現実的には不都合ではないわけだ。「クオリア」によって一層リアルに感じるのもそれが錯覚であるからだといことになる。

 実際、私たちは、指で何かに触ったとき、それは指先で感じる。決して、脳の中で感じているとは思わない。視覚から入ってきた刺激を脳が分析し最終的に外界の像を造り出しそれを見ていても、私たちは目を通して外界を眺めているように感じる。耳から聞こえてくる音についても、左側の遠くから人の声が聞こえてくると感じる。目の前のコップに向かって、手を動かし、それをつかむことでできる。それは、意識が脳の活動の結果をモニターしているからだが、あたかも主体的にそう感覚していると感じた方が都合がいい。

 ところで、私たちが、自分の意識で決めていると思っているような行動は、では脳はどのように決めているのだろうか。前野さんによれば、それはニューラルネットワークによって行われるのであるが、原理は多数決であり、反応が大きいほどリーダーシップを取ることができるという。つまり、これまでの経験や学習によって脳内に膨大な知が蓄積され、ニューラルネットワークによって網の目のように張り巡らされており、そうした知の多数決(複雑系)によって方向が決まって来るわけだ。

 「思考」とは、過去のさまざまな経験によって脳の中にストックした、「こうしたらこうなる」という行動の順モデルを使って、行動のシミュレーションをしてみることなのだ。「こうするためにはこうしてみたら?」という逆モデルを、「こうしたらこうなる」という順モデルを使っていろいろと試してみて、よりよい行動を見つけ出す行為が「思考」なのだ。(同上p226・227)

 脳のニューラルネットワークの活動による心の働きの説明は刺激的である。フィードバックとフィードフォワードという考え方や、脳内に作られる内部モデルの「順モデル」(こういう原因がこういう結果にいたるというパターン)と「逆モデル」(こういう結果になるのはこういう原因だからというパターン)という言葉が出てくる。「フィードフォワード」というのは、「あらかじめ、こうなるだろうからと予測して制御する方法」のことだそうだが、私は初めて知った。また、「順モデル」とか「逆モデル」というのは、脳の中の「内部モデル」になっているのであり、「内部モデル」というは、「周りの環境の振る舞いを、脳の中の神経回路網にモデルという形(パターン)で表現し記憶すること」である。

 こうしたニューラルネットワークをもったコンピュータを設計できれば、心はいつかシミュレーションできるようになるというのは、驚くべきことだと思う。しかし、前野さんは次のように締めくくっている。

 心はもはや謎ではない。わかってしまうということは、すこしさびしいことであるような気もするが、愛とか、真善美とかいった深遠な心の産物も含めて、心が生み出したものの原理はすべて理解可能だ。
 ただし、理解可能と予測可能は違う。心は複雑系であり、心が生み出す未來のことは予測できない。このことが、私たちに残された唯一のロマンだと言ってもいいだろう。
 だから、私たちの人生は、はかなくも面白いのだ。(同上p228・229)

コメント (5)
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