電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「北澤美術館」

2009-11-03 22:46:17 | 生活・文化

 1日に中津川に行った。前回に行ったと同じように、かみさんの運転で、親父の見舞いと中津川の実家の処理について親族会議。今回は、早めに終わったので、その足で諏訪に向かい、諏訪に泊まる。宿泊は、「ルートイン・上諏訪」。中津川を午後4時頃出たのだが、途中で激しい雨になり、中央高速を時速70Km~80Kmくらいで走る。ホテルに着いた時も、激しい雨だった。ホテルは、上諏訪駅のすぐ近くにあるのだが、日曜日だということと、雨のせいで、夕食を食べるところがなかなか見つからなかった。上諏訪駅前の蕎麦屋に入り、冷酒を飲みながら「蕎麦御前」を食べる。

 次の日は、昨日の雨などまるで嘘のようによく晴れた天気だった。しかし、気温はまるで冬のように低い。今日の目的は、諏訪大社で家内安全の祈願をすることと、北澤美術館に寄ることだった。諏訪にはかみさんと何度も来ているが、いつも通り過ぎるか、諏訪大社に寄ってすぐ帰るかで、泊まったことはなかった。もちろん、私は別の機会に、諏訪に泊まったことがあるが、かみさんと一緒に泊まったことはない。折角、泊まるのなら、是非、北澤美術館の寄りたいというのが、前からの望みだった。

 「ルートイン」は、私とかみさんが一緒の場合は、たいてい泊まる。会員になっていて、ポイント制になっていので、5パーセントのバックがある。最近は、温泉宿に泊まるより、こうした一種のビジネス・ホテルに泊まり、夕食は地元の面白いお店に行ったほうが、やすくて美味しいものが食べられる。温泉宿の豪華な宴会料理は、とても食べきれないし、自分ですきなものを選べない。というわけで、最近は「ルートイン」をよく利用している。10月中旬の函館旅行も「ホテルグランティア函館駅前」を利用した。夜の函館の街探訪もまた楽しかった。また、「ルートイン」には、たいてい大浴場がついており、「ルートイン・上諏訪」の大浴場は、なかなかの温泉だった。

 ところで、北澤美術館には、フランス近代ガラス工芸の巨匠、エミール・ガレとドーム兄弟のガラス細工が展示されている。北澤美術館は、株式会社キッツが出資した財団法人北澤美術館が運営している美術館で、諏訪には本館と新館があり、清里に清里北澤美術館がある。新館には、日本最大級のガラスミュージアムショップがある。かみさんは、どちらかというと、箱根仙石原にある箱根ガラスの森美術館が好きらしいが、そこはヴェネチアン・グラスである。

 私たちは、まず、9時少し前に諏訪大社に寄り、9時から始まる祈祷を済ませ、北澤美術館の本館に向かった。本館は、諏訪湖の北側にあり、1階はアール・ヌーヴォーからアール・デコ期のガラス工芸コレクションの常設展示なっている。また、2階は東山魁夷や杉山寧などの現代日本が巨匠のコレクションの常設展示だ。1階も2階もそんなに広くはないが、特に2階では、中央の椅子に腰掛けて、ゆったりと日本画が鑑賞できる。そして、その部屋から出て、喫茶室に入り、紅茶のケーキセットを注文し、諏訪湖を眺める。諏訪湖畔沿いの遊歩道に植わっている落葉樹はすっかり紅葉し、ススキの白い穂が風に揺られている。時々、散歩をしている人がいるが、もうすっかり今日は、冬支度のようだ。

 本館で1時間ほど過ごしてから、ちょうど諏訪湖の反対側にある北澤美術館の新館に向かう。こちらは、2階がガレ、ドーム、ラリックの3大コレクションの企画展示になっていて壮観である。私の個人的好みから言えば、ガレよりもドームの繊細なデザインの方が気に入った。ガレの草花は華やかだが、ドーム兄弟の草花は繊細で可憐である。それらは、私たちに不思議な安らぎを与えてくれる。私は、備え付けの椅子に座って、仄かにライティングされて、薄暗がりの中に浮かぶ、ガラスの花器をしばらく眺めていた。かみさんも、珍しく静かに光の饗宴にしたっているようだった。

 ところで、新館の1階はとても大きなガラスショップになっていて、じっくり見ていると疲れてしまいそうな所だ。かみさんは、ガラスの箸置きのセットとネックレスを買った。それから、新館の中にあるレストランで昼食を食べる。本館と新館と併せて1000円の入館料になっていて、そんなに高いわけではないが、ついついガラスの工芸品を買ってしまうので、思わぬ出費になったりする。新館を昼少し過ぎに出たが、諏訪は少し曇りはじめ、空気はひんやりとしていた。天気予報では夜に雪になるかもしれないと言っていた。

 私たちは、追われるように、諏訪インターから中央自動車道に入ったのだが、そのとき、北澤美術館・新館が「諏訪湖SA」のすぐしたにあったことに気がついた。そんなものなのだ。道路は、空いていて、3時前に飯能に帰り着いた。圏央道の狭山・日高を出た時、1500円と表示された。高速料金は2日もかなり割引されているようだ。ところで、今日は、本当は仕事があったのだが、私は有給を取った。せわしない旅行ではあったが、精神的は今回はとてもゆったりとした旅行だった。多分そう感じたのは、中津川の親父の病気の症状と実家の処理の仕方がそれなりに良かったからだと思われる。ただ、これからは仕事がとても忙しくなり、旅行どころではなくなるのが気になる。


中津川に行って

2009-09-23 13:20:12 | 生活・文化

 この連休を利用して、中津川に帰る。中津川では、いろいろな問題が山積していて、そのために親族で打ち合わせをしたり、土地の測量のやり直しの件もあったりして、とにかくいちばん道路が空いていそうな21日・22日に中津川に行く。かみさんが同行してくれることになり、車で中津川に向かった。21日の朝4時に飯能を出て、圏央道、中央高速を利用して中津川に向かう。途中3カ所で休憩したが、渋滞に巻き込まれることなく、9時10分に中津川の一つ先にある恵那インターに着く。恵那市には、父がケアハウスに入っている。

 恵那市にあるそのケアハウスには、父が3ヶ月の予定で入所している。夏に熱中症になり、市民病院に入院していたが、退院後も1人では生活が困難だということで、ヘルパーさんの紹介で、そのケアハウスに入った。まだ新しいところで、私たち夫婦と、弟二人で父親を一泊二日帰宅させることにしていたのだ。認知症の老人もいたりするので、セキュリティーはしっかりしていて、無断では外に出ることができないようになっている。まだ、1ヶ月しか入っていないが、父は、同部屋の人に手を振って出かけるという身振りをしていた。同部屋の人は、横になったまま小さく手を振っていた。

 そのケアハウスには、高速道路で購入したお菓子を挨拶代わりに渡し、父にはカステラを部屋の仲間と食べるようにと机の上に置いておいた。父は、その部屋の中でいちばん年上(89歳)だが、いちばん元気そうだった。とにかく、急いで、父を連れて中津川の実家に戻る。そのケアハウスから20分くらいで実家についた。実家では、我が家の土地と境を接する人たちが集まっていた。従兄弟のMさん、裏の大地主のNさん(弟の同級生)、隣に家を建てた、Aさん、Hさん、Sさん、私道を造ってくれたTさん。我が家は、五人兄弟のうち1人欠席したので、4人の兄弟の参加だった。

 父の立ち会いのもと、先ほどの隣人たちと境のマーカーになる杭を順番に打った。この杭を基に、10月7日と14日に中津川の市役所より人が来て、測量して新しい土地台帳を作成することになる。現在ある登記簿の地図は、ほとんど現状と形が違っていて、しかも正確ではないのだ。税金のための面積計算も多分かなりいい加減だったと思われる。そのために航空写真を利用しながら、正確な土地台帳を作成することになる。私たち兄弟は、いつも隣人の人たちに大変お世話になっていることもあり、ほぼ彼らの主張通りに杭を打った。11時半ごろに、我が家の土地と彼らの所有の土地との境のくい打ちが終り、解散した。

 それから、私たちは昼食を食べ、午後は、我が家の所有する土地の中を、山林、住宅地、畑、田、駐車場、倉庫などに分けて、区画の整理のための杭を打った。こちらは、兄弟だけで、現在の図面を参考にしながら、わかりやすく土地を区切り直した。8月12日に説明会があり、実態に合うように変更するのであれば、どんどん変更して良いとの許可が出ていた。今後売ったり、遺産相続をしするときにうまくいくように分割しておくと、そのための測量をしなくて済むという話だ。この作業にはかなり時間がかかり、終わったのは4時半頃だった。私たちは図面を確認し、夕食兼親族会議をするために、市街地のレストランに父を連れて行った。

 親族会議は1人欠席があったので、そこで何かが決定されたわけではないが、いろいろな問題点が浮き彫りになった。大きくは、問題が二つあり、一つは、今後の父の介護等をどうするかということであり、もう一つは父に何かあったらどうするかという問題だ。この二つは、かなり絡み合っていて、ややこしい。というのは、父は、中津川の家を継いでくれるものがいればそれに全てを託すと言っているからだ。ただ、問題は、そういうものがいないということだ。だから、少し話が複雑になる。というのは、中津川の土地にいろいろと執着している兄弟もいるからだ。私とすぐ下の養子に行った弟は、中津川の土地に執着はなかった。

 この問題の解決の選択肢は、次の三つしかありえない。①誰かが父と中津川の土地の面倒を見る。この場合は、全てそのものに任せる。遺産は、父の指示従い彼のものになる。②中津川の土地や父の資産を使って、父に老人ホームなり施設に入ってもらう。全ての資産をそれに使い、残ったら均等に分ける。③みんなで共同で父の面倒を見、土地等は皆で均等に分け、それぞれをそれぞれが責任を持って管理する。この三つである。相続のためには、いろいろな問題が発生するが、それらは一応個別に対応するしかない。第一、土地はすぐには売れないという問題があり、資金は、銀行等を通じて借りることになるかもしれない。しかし、一応、可能な選択肢である。

 すぐ下の弟は、①の意見を述べ、場合によっては孫でもいいと言う。私は、どちらかと言えば②の意見。あと、二人の弟は、①と③で揺れている。私の理解では、いままで、②の選択肢は検討されてこなかったような気がする。夕食を食べながら、そんな提案をしたが、皆は不審そうに口をつぐんでいただけだった。それは、特養老人ホーム等の探し方が、できるだけやすい所というように考えられていたことからも分かる。しかし、私は、最近自分が年を取ったせいか、親は子どものために資産を残す必要はないと考えるようになっている。もちろん、子どもが確実に自立できるように支援するのは当然だが、それ以上の資産は必要ないと思う。

 父は、一人で中津川に住み、自分の年金や資産で誰からの仕送りもなく生活してきた。もちろん、息子たちは、父から沢山の資産をもらったわけではないが、一番下の弟が50過ぎており、だれも父の援助など必要としていない。とするならば、父は、自分の資産をフルに活用して、自分で満足できる生活をしてもらいたい。父親は、年金等も含めて年間約300万円の収入があり、約1町近い土地を所有している。それは、資産としては恵まれていると思う。その資産は、死んだら誰かのものになってしまうだけだ。

 この話は、まだ、終わったわけではないので、これから早急に話し合わなければならない。10月の下旬に全員が集まることを確認して、その日は分かれた。私とかみさんは、ホテルに泊まり、次の日父親に会いに実家に寄る。午前中、少し作業をする予定だったが、あいにくの雨で、作業は中止になった。残った作業というのは、測量しやすいように、雑木林の伐採をすることだったが、後で業者に依頼することなった。道路事情が心配だったので、父をケアハウスに送ってもらうのを弟たちに頼み、そのまますぐに、中津川インターに向かった。それは、正解だった。
 
 休日・祝日等の高速道路の料金が安くなり、大型連休の高速道路はものすごい混みようだ。土・日の下りと、火・水の上りの道路の混み具合は半端ではない。丸一日覚悟しないといけないくらいだ。確かに、中津川は我が家から280キロあるが、車をプリウスにしたら、ガソリン代は3000円くらいになり、高速道路の料金も往復で3000で済んでしまった。つまり、6000円あれば中津川に行って帰ってくることができる。普通に、新幹線を使って夫婦二人で中津川まで行くと、交通費だけで5万円近くかかってしまう。優雅な旅行にできるのだ。ただ、混雑しなければだが。

 22日の火曜日は、9時に中津川インターから入り、途中3回ほど休憩して、飯能に着いたのは1時半だった。雨のおかげかもしれない。雨が降らなければ、出発が午後になり、大渋滞に巻き込まれるところだった。そのときは、多分、夜中になったと思われる。中津川を出る前に、名物の栗きんとんを買おうと寄ってみたが、あまりの行列に買うのをあきらめた。途中、諏訪湖SAで休憩したとき、かみさんは諏訪大社の方に向かってお辞儀をしていた。多少渋滞しているところはあったが、車は止まることがなく、少しずつ動いていた。だから、休憩も取ることができた。そして、無事、飯能に帰り着いた。沢山の宿題を改めて出されて感じで、気が重いながら、家に帰ってきた。


夏の金沢の短い1日

2009-08-14 12:07:36 | 生活・文化

 9日から11日まで旅行。金沢、白川郷、高山、恵那峡、中津川市民病院、諏訪大社等々。金沢と恵那峡にそれぞれ一泊する。駆け足のような旅行。妻と息子と私の3人。金沢では、私の大学時代の思い出にふけり、妻と子どもたちに馬鹿にされる。金沢白鳥路ホテルに宿泊している時に弟から電話があり、親父が中津川市民病院に入院しているという連絡を受ける。その日は、もう一人の弟夫婦が中津川にいるとのこと。早速連絡を取り、10日の夕方には病院に着けると連絡をする。親父には、7月の終わりに、11日にお墓参りをし、その後一緒に昼食を食べる約束をしていて、恵那峡に止まる予定をしていたのが、急遽お見舞いになってしまった。

 9日は、午前3時半に家を出る。プリウスには前日、ガソリンを満タンにしてある。日高・狭山インターから圏央道に入り、そのまま関越道経由で、上越道に入る。長野を通り、上越インターで北陸自動車道に入る。そして、10時半頃金沢市に入る。まず、金沢市角間にある金沢大学に向かう。私は、金沢大学出身だが、40年近く昔の話で、こんな山の中に大学が移るとは想像だにしなかった。大学周辺はさすがに山の中らしいが、少し下るとそこには郊外住宅地のように拓けていて、大学関係者や学生たちの街らしい、マンションやアパートやらが建ち並び、大きなショッピングモールもできていた。

 それから、金沢城の近くに戻り、ホテルの場所を確認してから、「六角堂」でランチ。この店に入るのは6年振り。私は、「六角亭」というように名前を記憶していて、ナビ設定で少し混乱をしたが、11時30分頃に入ることができた。予約をしていなかったが、その時間だとまだ空いていて、中央のカウンター席にすぐ座ることができた。妻と息子と私の3人とも、黒和牛のステーキランチを食べる。肉は150g。妻が運転なので、私だけ赤のハウスワインを飲む。息子は、美味しいと満足していた。妻は、5月に鎌倉の葉山牛ステーキハウス「マザース オブ 鎌倉」で食べたステーキランチとまた違っ味だが、それなりに満足しているようだった。

 昼食後、金沢白鳥路ホテルに向かう。ホテルの駐車場はかなり混んでいたが、何とか駐められたのでフロントに寄り、夕方まで散歩に行って来ると告げてから、歩いて外に出る。そこから、金沢城まで歩いて3分くらい。ぼつりぼつりとしている空模様の中、傘を持って、石川門から中に入る。6年前に来た時は、まだ大学の跡地の整理が完全ではなかったが、一部の工事を除いて、ほぼ昔の大学敷地内が公園に生まれ変わっていた。そして、そこでは「金沢城オペラ祭2009」が開催されていた。その日は初日で、「第8回YOSAKOIソーラン日本海百万石会場」になっていた。
 

 私は、息子と妻に、ここが教育学部があったところ、ここが法文学部で私がここにいたこと、それから、学生会館のあったところ、最後に教養部と理学部がここにあったといいながら、順に案内した。二人は、疑り深そうに私の話を聞いていた。しかも、私は、「石川門」がいわゆる東大の「赤門」に対抗する「黒門」だと思っていたが、実は、「黒門」は別にあり、それは「大手門」の方に、「黒門跡」として残っていた。妻と息子に、「本当に、ここに大学があって、本当にここに通っていたの?」と言われてしまった。

 それはそうだろう、もう40年ばかり昔の話だし、午前中にみた角間キャンパスの全てが、この中にはいるとはとても思えなかった。もちろん、当時から、医学部と工学部は別の所にあった。しかし、その後いろいろできたのだと思う。そして、息子は、この城の中の大学ならいいがあの山の中の大学はいやだと妻に言っていた。しかし、金沢城公園の中を一週してみると、大学の校舎があった時とは違った、広がりが感じられた。そして、この城がこのように開放されるのはとてもいいことだと思えた。私の青春時代は、どこかに行ってしまうとしても。

 金沢城を石川門から出て、兼六園に入る。学生の頃、私は小立野というところに住んでいたので、兼六園を通って大学に通っていた。今は、ここは入園料が必要だ。桂坂から中に入り、眺望台を通り、眺望亭で抹茶を飲む。とても美味しい。それから、明治記念之標の前を通り、すっかり緑になった梅林の中を抜けて時雨亭の前に行く。そこから真弓坂を下って、兼六園の外に出る。夏の兼六園は、少しばかり退屈だった。ただひたすら緑の公園だった。

 公園を出てから、21世紀美術館により、香林坊のほうに向かう。息子が、どうしても本屋さんに寄りたいというのだ。私は、片町に宇都宮書店があったことを思い出した。私が学生の頃は、香林坊にも北国書店という大きな書店があった。しかし、北国書店がなくなったのは、6年ほど前に金沢に来た時知った。確か、宇都宮書店が倒産したという話は聞いていないのであるはずだと思った。しかし、昔あった場所にはなかった。そこは、別の店になっていた。

 仕方なく、片町を歩きながら、宇都宮書店があった場所の反対側に少しばかりしゃれた商店街があるのに気がつき入った。少し入ったところに「ぶどうの木・片町店」というレストラン(カフェ)があり、そこでブドウジュースを飲む。店の前に大きな葡萄の木が植えられていて、沢山の実がついていた。そこの店員に、宇都宮書店のことを聞いたら、もう少しその横町を奥に言ったところにあると言う。彼は、最近金沢に来たらしく、片町の方に宇都宮書店があったことを知らなかった。その書店は正式には、「うつのみや」で、息子はミステリーを数冊買い、私は衝動的に『村上春樹の「1Q84」を読み解く』(データハウス刊/2009.7.7)を買った。

 「うつのみや・柿木畠本店」の周辺は、再開発され、まったく新しい街並みになっていた。しかし、そこに私が学生の頃よく通った昔のままの「芝生」という喫茶店があった。多分ここも、新しい金沢の観光スポットなのだと思った。それから、ゆっくりと街を見学しながら、広坂を通り、また再び兼六園の中を抜けて、ホテルに戻った。ホテルに戻り正式なチェックインをして、部屋に荷物を運び入れた。ちょうど5時半になるところだった。ホテルの駐車場が満車だったので、これから車を出しても大丈夫かと聞いたら、泊まる方にはちゃんと駐車場を確保するから大丈夫だとのことだったので、車で夕食を食べに行く。

 「第7ギョウザの店」に行く。茂木健一郎がどこかの講演で金沢に行ったら是非「第7ギョウザの店」に行ってくださいと強調していた。広い店だが、込んでいた。まだ時間が早かったので、10分くらい待っただけで席に着けた。私たち親子3人で、ホワイトギョウザ大2人前、焼きギョウザ大・小、蒸しギョウザ大とライスセット2人前、キムチ、茄子の漬け物を注文。私たちは、熱々のギョウザを食べるのに、必死になった。量も多いのだが、ホワイトギョウザはかなり堅く、食べるのに大変だった。それでも、私たちは、全てを平らげてしまった。

 店を出る時には、沢山のお客が並んで待っていた。昼の「六角堂」といい、夜の「第7ギョウザの店」といい、実にタイミング良く店に入ることができ、金沢の食を堪能した。ホテルに帰って少し休憩している時に、弟から電話が入った。親父が入院したと言う。次の日恵那峡のホテルの泊まり、その次の日に中津川の実家に寄る予定だったが、急遽、次の日の夕方には中津川市民病院に入るように予定を変更する。その日はとても疲れていたので、ホテルに帰り、風呂に入り、大河ドラマ「天地人」を観てから、9時に眠った。次の日は、5時に起きて、少し早めに白川郷に向かうことにした。


「神」の発見

2009-07-05 22:09:10 | 生活・文化

 会社に通勤する時は、大体7時少し過ぎの飯能発池袋行きの急行に乗る。飯能駅始発なので、大体座って行くことができる。昔は、そんなときはたいてい読書だったが、今では目が疲れるので、WALKMANを聴いている。金曜日の朝も、7時7分発の通勤急行に乗り、座ってしばらくしてから、WALKMANを聴くことにした。家を出る時にWALKMAN本体にイヤホーンのコードを巻き付けて、いつでも聴けるように左胸ポケットに入れておくのだ。そして、WALKMANを聴き始めて1年近くになり、こうした動作はほとんど無意識のうちに行われている。

 その日も、だから、私はちょっとした違和感を覚えながら、セットしスイッチを入れた。すると、左耳の方が音が小さいのだ。一度、左耳の方を外して入れ直してみたが、やはり小さく聞こえているが、まるで今朝方耳の調子が悪くなったように、聞こえが悪くなっている。私は、瞬間的に、左耳がおかしくなったと思った。私の頭にあったのは、先週中津川の実家に妻と出かけ、耳の遠くなった父親と話をしたことだった。どうも、塚本家は年を取ると難聴になる家系らしいというのが、妻の感想である。

 そういえば、最近私は、両耳の奥に、何か違和感を覚えていた。何となく、耳の奥の方で炎症を起こしているような感じがするのだ。そんなときに私は、耳の中を掻いたりして、何年かおきに外耳道炎になっている。今年もまた、耳鼻科に行かなければならないかなと思っていたところだ。ところが、確かに左耳は違和感があるが、外耳道炎になったような感じではない。私は、てっきり、本当に耳が遠くなってしまったのだと思った。

 そのとき、イヤホーンを外して、いろいろ試してみたら、なぜそんな状態になったかすぐに分かったはずなのだが、その結果、本当に耳が遠くなっていたらどうしようと怖かったのだ。そのまま、かろうじて、WALKMANは聞けたので、会社まで聴きながら行くことにした。しかし、それは、とても不安な時間だった。私の頭の中は、WALKMANに集中できず、一方では意味のとれない英語の音声だけが流れていたが、他方では、キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』に描かれている、死んでいく人たちの心の過程の分析を思い浮かべていた。

 ロスによれば、死を宣告された人間は、「否認と孤立」「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」という五段階を経て、やがて死んでいくのだそうだ。そして、これは、肉体的な死だけでなく、精神的な一種の「死」の場合、たとえば振られるとかいうような場合にも当てはまるらしい。短期間で言うならば、受験に失敗した時に辿る精神の過程でもありうる。そのロスの五段階で言えば、私は、第1段階から、第2段階を経て第3段階まで来たところで、会社に着いた。

 そして、会社でWALKMANを外して、左耳のイヤホーンにイヤーピースがないことに気がついた。すぐに、右耳のイヤホーンを左耳につけたところ、正常な音が流れているのが分かった。つまり、おかしかったのは、私の耳ではなく、イヤホーンのせいだったわけだ。私は、本当にうれしかった。私は、慌てて、鞄や、服のポケットの中にイヤーピースが入っていないか探したが、結局は見つからなかった。その日の夜家に帰って調べたが家にも落ちていなかった。おそらく、電車の中で、無意識のうちに、ポケットから取り出し、耳にセットしようとした時に、落ちてしまったらしい。

 ところで、先ほど、ロスの5段階説をあげて、第3段階まで行ったと書いたが、第3段階とは「取引」である。ここのところは、ロスのよれば次の通りである。

 第三の段階は取り引きを試みる段階である。この段階は、第一、第二段階に比べるとそれほど顕著ではないが、短い期間とはいえ、患者にとって助けになることに変わりはない。患者はまず第一段階では悲しい事実を直視することができず、第二段階では自分以外の人間や神に対して怒りをおぼえる。そしてその後、その「避けられない結果」を先に延ばすべくなんとか交渉しようとする段階に入っていく。「神は私をこの世から連れ去ろうと決められた。そして私の怒りにみちた命乞いに応えてくださらない。ならば、うまくお願いしてみたら少しは便宜を図ってくださるのではないか」というわけだ。(キューブラー・ロス・著『死ぬ瞬間──死とその過程について』中公文庫/2001.1.25 p140より)

 私は、確かに、「神」に怒りをおぼえ、「神」に取り引きをしていたように思う。しかし、それが、どんな「神」だったのか、おぼえていない。そして、その結果、現実は「神」のおぼえめでたく、イヤーピースのせいだったことになったわけだから、「神」に感謝した。それは、「神」が私の願いを叶えてくれたのだということでもある。しかし、その時は、うれしくてどんか「神」だったかなど、考えもしなかった。一神教の世界を知らない私は、おそらく八百万の神々のうちの誰かに祈ったのだ。そして、私は、今、心から、私の名前の定かでない「神」に、いや「神々」に感謝している。それは、確かに、不思議な体験なのだ。


これは幸運なのか?

2009-04-12 23:09:54 | 生活・文化

 ソニーのWALKMANを買ったのは、昨年の9月頃だった。使い始めてから、かれこれ9ヶ月以上がすぎようとしている。私には、いろいろな意味で役に立っている。ところが、ここ1ヶ月くらいの間に、ヘッドホンのコードが切れかかってきた。といっても、コードの被覆の部分が破けて金属のコード自体が露出し、しかも折れて今にもちぎれてしまいそうになっているということだが。いつちぎれてしまうのかと心配になってきたので、先週の月曜日に池袋のビックカメラに行った。ところが、残念なことに、ビックカメラのカードを忘れてしまったので、店まで行って買おうとしてやめた。店に人は、在庫が1つしかないので、とっておきましょうかといったが、私はいつ来られるかわからないので断った。

 二日後の水曜日に、池袋のジュンク堂に行く機会があったので、またビックカメラによった。案の定、店の人は、現在メーカー在庫欠品で20日過ぎでないと入ってきませんと言った。ヘッドホンはいくつかの種類があり、私のWALKMANのヘッドホーンは、ノイズキャンセリングの機能があり、その場合は、ソニー純正の物しかだめだそうだ。というわけで、その場はあきらめた。しかし、私のヘッドホンのコードは、ますます、切れそうになり仕方がないので、次の日の会社の帰りにまたビックカメラに行った。

 ビックカメラには、ソニー製だけでなく、いろいろなヘッドホンがある。私がほしいソニーのそれは、確か5000円近くの物だったが、ノイズキャンセリングの機能のない普通のヘッドホンは、1500円くらいからいろいろある。そこで、店の人に、確かめたところ、もちろんこうしたヘッドホンでも、WALKMANは聴くことができるそうだ。そこで初めて、ノイズキャンセリングの機能とは何か、教えてもらった。そして、耳につけるスピーカの部分にマイクを内蔵しているということを知ってびっくりした。

 ノイズキャンセリングの機能とは、要するにマイクを内蔵したヘッドホンで、騒音を拾い、騒音の波と逆位相の波を発生させ、二つの波を合成させて騒音を四分の一くらいにしてしまう機能だそうだ。店員の説明によれば、こうしたイヤホンは耳につけただけで、周りの音が一瞬のうちに静かに感じられるそうだ。私は、実はほとんど他のヘッドホンを使ったことがなかったので、その違いを知らなかったようだ。そして、騒音をカットして聞けるために、そんなに音を大きくしなくても音楽を快適に楽しめることになり、周りへの音漏れの心配をしなくても良くなるわけだ。

 取り敢えず、私は、その場で、ノイズキャンセリングの機能の機能のない安いヘッドホーンを買った。そして、それをつけて聴いてみたが、音の質があまりに違っていたのでびっくりした。このヘッドホンは、PC用にして、純正のヘッドホンが出荷されたら買おうと思った。ところが、その日夕方、私宛に次のようなメールが来ていたのだ。

 このたび、「NW-S736F/S738F/S739F」の付属ヘッドホンにおきまして、ご使用状況により、まれにヘッドホンコードが硬くなる・被覆(ひふく)部分が破れてしまう場合があることが判明いたしました。

 つきましては、対象製品をお持ちのお客様で、付属のヘッドホンに該当の症状が発生した場合には、無償にて付属のヘッドホンを交換させていただきますので、下記のソニー「ウォークマン専用コールセンター」までご連絡くださいますようお願い申し上げます。

 私は、すぐに電話した。ソニーのウォークマン専用コールセンターの女性の方は、とても丁寧に応対してくれた。ただ、交換のヘッドホンを送るの10日ぐらいかかるかもしれませんとのことだった。私は、高いヘッドホンを買わなくて良かったと思った。おそらく、品切れになったのは、私と同じようにコードが切れそうになり、慌てて買ってしまった人がいたからに違いない。私と同じように使い方が悪くてこうなったと思う人と、いやこれは商品の欠陥だと思った人がいたことになる。前者の人たちは、多分買ってしまったに違いない。私は、折角買ったWALKMANだから有効活用しようと、商品の登録もした。これがよかったことになる。そうでなかったらメールもこない。そして、こうしたことに気づかなかったに違いない。

 新しいヘッドホンは、本日届いた。メールは4月9日だから、素早い対応だと思う。ただ、私には、二つだけ疑問が残った。一つは、買ってしまった人にはどうするのだろうかということだ。多分、これは、お金を返すことになるのだと思う。もう一つは、「ご使用状況により、まれにヘッドホンコードが硬くなる・被覆(ひふく)部分が破れてしまう場合がある」ということの意味である。「使用状況」とはどういう状況なのだろうか。しかし、どんな状況であれ、その状況でも「NW-S736F/S738F/S739F」以外の付属のヘッドホンは大丈夫なのだから、該当のコードに何らかの問題があるものと思われるが、その理由が書かれていない。これも、いずれ明らかになるに違いない。