社会福祉士×ちょっと図書館司書の関心ごと~参考文献覚え書き

対人援助の実践、人材育成、図書館学を中心に気まぐれに書物をあさり、覚え書きをかねて投稿中~

「死を迎える者と遺される者のケア 公衆衛生学からのアプローチ」アラン・ケリヒラ(中村圭志・訳)

2010-07-12 19:53:12 | その他
『死生学・5』医と法をめぐる生死の境界 東京大学出版会-6章

死・死を迎えること・喪失/遺される者への支援について、公衆衛生の立場から説いている。
筆者は英国の学者。日本の現状と照らし合わせながら読む必要があるため、理解に時間がかかる。しかし、政策的に取り組む必要性についての裏付けや、対人援助に焦点を絞らず、コミュニティーを対象とした支援(教育)の在り方については、参考になることが多い。

補足「公衆衛生」とは?
国民の健康を保持・増進させるため、公私の保健機関や地域・職域組織によって営まれる組織的な衛生活動。母子保健・伝染病予防・成人病対策・精神衛生・食品衛生・住居衛生・上下水道・屎尿しによう塵芥処理・公害対策・労働衛生など。

[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

引用
・思いやりとは、他者の苦を我が事とする能力である。そしてそれはあらゆる質の高いケアと支援にとっての基盤をなす、重要な社会的・心理的・倫理的な質である。(中略)思いやりはあらゆるケアの不可欠の成分である。

・(健康と病気に関する)無知は無知なる反応を招く。恐れがあるときには、支援を求める行動も遅れがちとなる。
・無知は、無反応という悲しい結果をも招き得る。


「死」や「遺される」ことはどういうことを指すのか…を知らないことで、精神的に良くない状態を引き起こすと指摘している。文化的に、死をタブー視していることに、警笛を鳴らしているように感じた。
また、死にゆく人や遺された人を支援するスタッフに対しての支援体制も、必要不可欠であると指摘している。
日本では、「どのように終末期支援を行うか」を検討するのにいっぱいいっぱいで、それに関するスタッフ教育にとどまり、スタッフのメンタルサポートはなされていない印象を受ける。
よいケアを提供するためには、支援する側は「穏やかな状態」でいることが求められる。そのためには支援者側の環境整備も必要であると、痛感させられた。







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3 コメント

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「死のタブー視」という (Jびっち)
2010-07-16 09:09:58
管理人さま、こんにちは。
以前コメントさせていただいた者です。

さて、

>文化的に、死をタブー視していることに、警笛を鳴らしている

とのことですが、

私としては、「日本人は死をタブー視している」という批判的言説には、つねづね釈然とした思いをもっていましたので、コメント投稿させていただきました。

波平恵美子『日本人の死のかたち 伝統儀礼から靖国まで 』(朝日選書)はご存知ですか?波平はこの「日本人は死をタブー視する(忌避する)」という言説に対して「日本人は死に慣れ親しんだ」人びとであると主張します。私としては、波平の主張に、"かつては"という接頭辞をつけたいと思います。そして現代に至って、死は"タブー"というより、(医療従事者も含めて)それについて語り合う手段・方法・意義が形骸化(あるいは変質)してしまったのだ、と考えています。

それにしても、死はそもそも私たちの日常感覚的に「語り合う」べき事柄なのでしょうか?私にはよくわかりませんが、私が自分の死、身近な人の死、第三者の死について語るとき、死に対するある種の配慮の念が働いています。それをタブー視の証拠だ言われるとすれば途方に暮れるしかないというのが正直なところです。



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訂正 (Jびっち)
2010-07-16 09:13:58
>私としては、「日本人は死をタブー視している」という批判的言説には、つねづね釈然とした思いをもっていましたので、コメント投稿させていただきました。

※釈然とした→釈然としない

と訂正いたします。



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Jびっちさん (管理人)
2010-07-16 15:46:11
コメントありがとうございます。
ご教示いただいた文献は未読のものですので、是非読んでみたいと思います。

「死のタブー視」についてですが、私の理解は「見て見ぬふりをすること」「あえて直視しないもの」です。
「死」はとてもデリケートなものなので、言葉にう出して語り合うことはとても難しいと思うのですが、それでもそれを自分のものとして迎え、納得して過ごすためには、話し合うことや決断することが必要だと思うのです。

日常感覚的に死について「語り合う」のは難しいのかもしれないですが、「死の場面」が日常から離れた場所で繰り広げられることが多くなってしまった近年では、意識的に向かい合わないと「なんとなく過ぎてしまった」ことになるのではないかと、感じています。

貴重なご意見をありがとうございました。
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