社会福祉士×ちょっと図書館司書の関心ごと~参考文献覚え書き

対人援助の実践、人材育成、図書館学を中心に気まぐれに書物をあさり、覚え書きをかねて投稿中~

終末期がん難民をつくらないために-在宅でのがん療養の現状と提言 大頭信義(2008)

2008-11-28 15:35:10 | 医学
『月刊ケアマネジメント 2008.10』

筆者は、姫路で開業医をされ、かつNPO日本ホスピス・在宅ケア研究会理事長をされている。 

医療機関の機能分化、DPCシステムが生み出す(生み出すであろう)、在宅医療現場への弊害や、がん患者への影響を取り上げている。

現状①⇒DPC方式により、高額であればあるほど、入院中ではなく退院後の外来受診から使い始める。そのため、抗がん剤の副作用が「自宅」で現れることになる。その対応として、専門医(がん専門病院や急性期病院)以外にも、家庭医が早い段階からかかわり始め、副作用に対する相談や処置を、家庭医が行う現状がある。

現状②⇒在宅療養支援診療所の登録は、WAMNET集計で2008年9月1日現在、10631ある。しかし筆者の勤務する姫路での現状を踏まえ、実際に24時間体制での対応が十分に行えているのは、全体の3%くらいではないか…と指摘している。


現状①について…専門医と家庭医の役割分担は、永遠の課題なのか?!と考えさせられる。
私は、ALSやパーキンソン病等の神経難病の方についての、専門医と家庭医の役割分担で、やりにくさを感じることが多々あった。
単純に保険請求の問題で、主疾患に関する処方は専門医、便秘や風邪などの臨時薬については家庭医となっていた。しかし専門医受診の頻度が3か月に1回など、間隔があけばあくほど、「調子がいいので、薬の量を減らしてもいいか。」もしくは、「やめてもいいか」という相談が、家庭医に入ってくる。薬に関しては、医師同士が電話なり、情報提供書なりで確認し、指示の共有がしやすい。これが「告知」や「病状説明」になると、事は簡単には済まない。
「どこで治療をするのか。どこまでするのか。」…こういったことは、実際にメスを握ったり、入院ベットを用意できる組織の人間じゃないと、日程調整を含めて具体的な話を詰めにくいという印象を受けた。
患者さんや家族が、「どこに相談したらいいのか分からない」という事態にならぬよう、家庭医は目を凝らす必要があるだろう。でも家庭医にばかり委ねず、主疾患のまさに「主治医」として、専門医(もしくはその組織のスタッフ)が、きちんとコーディネートをする必要もあるだろう。

現状②について…いま、自身の研究の準備のために、WAMNETを活用し、在宅療養支援診療所の確認をしている。個々の診療所のHPを閲覧することもあるが、「在宅医療」の文字が一切無く、在宅療養支援診療所としての登録を、本当にしているのだろうか?と首をかしげてしまうことがある。
「数」がまだ足りないと上層部の方々は考えているのかもしれないが、その実態もきちんと把握し、定着するような方法を考える必要があるだろう。
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「単身高齢者の在宅ターミナルケアの条件」 野田京

2008-11-23 21:53:48 | これまでの活動
『医療と福祉』 No.84 Vol.42-No.1 2008-11

約2年振りに論文が掲載されました

前職場では、「独居」「親族なし」「貧困」というキーワードが、「困難ケース」とみなされ、ソーシャルワーカーの関わりがより重要視されていました。
なかには、患者さん本人も「家で死にたい」、主治医も「最期までここで診てあげたい」と意向は一致していても、実際は「最期まで家で過ごす」ということが困難でした。
それは疾患的な問題よりも、介護体制や援助機関同士の役割分担、援助機関同士の「連帯感」であったように思います。

ある女医さんは独居女性に対して、「貴女もここに居たいっていうし、私もそうしてあげたいけど、私一人で支えている訳ではないし…。後々のことについても責任を負うのは、とても難しい。だから、ずっとこのまま、家で支えるのは無理かもしれない…」と、とても悲しい表情で話をされていました。

患者さん本人もそして医療者も、「家で過ごしたい、過ごさせたい」と思っていても、「独居高齢者」であるがゆえに、実現ができないのはなんでだろう…
という疑問か
コメント (4)
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高次脳機能障害のある人の地域生活支援 渡辺淳、淺沼太郎など(2007)

2008-11-18 22:07:51 | 社会福祉学
『ソーシャルワーク研究』Vol.33 No.3 2007

事故によって頭部外傷を負った当事者(Aさん)の語りに着眼。
その当事者が利用している福祉施設の職員が、インタビュアーのような立場をとり、対話を通して「思い」を聞き、ストーリー分析をしている。
ニーズについて、支援者からの評価ではなく、実際に支援を受けている(サービスを利用している)立場からの「見解」を導き出している。


Aさんは、受傷後おそらく1年近く入院し、リハビリ等を経て在宅生活を始めている。1年が経過し、サービスを利用し始めてもなお、現状を受け入れられず…というよりも、「治るものだ」と疑わない気持ちが、切々と語られている。

援助する側からすると、「受傷1年」ということで、「障害受容はできている」と考えがちではないだろうか。
そして現状をきちんと理解できていない様子をみて、「高次脳障害ゆえに、理解力も落ちている」と認識してしまうことも、あるのではないだろうか。

「障害者のことは障害者しか分からない」と、自立生活運動を活発に行っている障害者団体もいる。

その人の「思い」は、援助者の「経験知」では決してはかることはできない。
そのことを痛感させられた。
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いま患者が求めるホスピス緩和ケア 野沢一馬(2006) ぱる出版

2008-11-16 21:35:52 | その他
全国6か所の、在宅ケアを実践している組織の紹介及び、ホスピス・緩和ケアの概要について説明。

緩和ケア病棟の紹介2か所、在宅医(診療所)2か所、ボランティア団体等2か所が紹介されている。
どの組織も「ボランティア」の存在に注目し、在宅ケアを支える可能性について触れている。

その中の一部…
患者の話し相手になるとか、背中や手足をさすってあげるとか、あるいは周りの環境整備をするとか、そういうのは(医療者ではなくても)ボランティアの参加があればできる(ケアタウン小平・山崎氏)。

⇒医療者特に看護師は、病棟では慢性的な人手不足もあり、ナースコールを押してもすぐに対応できない場面も多い。本当は時間をかけて行うべき「対話」のようなものが、機械的に済まされてしまい、お互いに「仕方がない」とケアの限界を作ってしまう。そういった溝…というか穴のような部分を、ボランティアに担ってもらうことで、ケアの底上げが期待できるのだろう。


NPOを設立し、有償ボランティアとして、看護・介護の手が不足しているところの“スキ間”を埋める形で、患者・家族を支援している(在宅サポート・さくら)。

⇒介護保険等を使い切ってしまい、それでも担い手がないと生活が成り立たない人も多くいる。そういった「プラスαのケア」を実現することが、安心・安全な在宅療養生活の継続につながるのだと思う。



ボランティアは、職員の手が回らない「雑用」をこなす存在ではなく、あくまで患者・家族のための人材である…ということを痛感した。
ボランティア自身にその価値を見出してもらう、その役割を与え、継続させていく…このことは、今の日本ではまだまだ不足している感覚かもしれない。
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「人生のエンディング⑫ 孤独死」 (11月13日付 朝日新聞 朝刊)

2008-11-14 14:16:40 | その他
いわゆる「団地」での「孤独死」が注目を浴び始め、この記事でも松戸市、狛江市などにある「団地」が取り組んでいる、孤独死予防の活動を紹介している。

引用「孤独死」…看取る人もなく一人きりで死ぬこと」(広辞苑)


以前私は、「孤独死」=「独居死」か?と疑問を抱き、さまざまな文献を読んだ。

その中の一つに、『「孤独死」額田勲・著』がある。これは阪神・淡路大震災後の神戸を取り上げたもので、仮設住宅でひっそりと息を引き取る人、そういう人をなくそうと取り組む医療者や地域住民の奮闘が書かれている。
この本での「孤独死」の定義は、「低所得で、慢性疾患に罹患していて、完全に孤立した人間が、劣悪な住居もしくは周辺領域で、病死および、自死に至る時」としている。

「孤独死」=「独居死」ではないが、独居はそのリスクを最も抱えているのは事実である。
組織に所属している援助者は、その組織で抱えている対象者(患者や利用者)への援助で手一杯なのが現状である。
行政が今まで通りの「申請主義」の姿勢を貫き通すと、地域の中での「難民」が生まれてしまうだろう。

我が国における「生存権」に意味を、きちんと形にしていかねばならないと、考えさせられた。
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「終末期相談支援料は凍結へ 退院調整の取り組みはこれから」 日経ヘルスケア 2008.6

2008-11-13 14:11:00 | その他
遅ればせながら、後期高齢者医療制度についてきちんと整理をしたいと思い、この雑誌を手にした。そのなかの特集の1つ。

7月から凍結状態となっているようだが、その後の進展はどのようになっているのだろうか?賛否両論があるが、政治家が関心を持ち始めたことは、評価できるのではないかと思う。

この特集にも、「賛」「否」の声として、在宅医のコメントが掲載されている。
在宅療養支援診療所の創設と同様、これまできちんと取り組んできた実践者を後追いで評価していることについて、「賛」とする医師。様々な処置の希望について、「患者本人の同意」というのは、認知症患者を診ているなかで、活用の壁になっている等、「否」の意見を持つ医師。
同じ「在宅医」という立場であっても意見が分かれてしまうのだから、実際の運用はとても難しくなるであろう。


この記事のなかで、少しだけ気になるコメントがあった。
在宅医のコメントで、「終末期に関する患者やその家族との話し合いは、これまではボランティアとしてやってきた。そこまでできるのが、かかりつけ医のかかりつけ医たるゆえんでもあり、…」という箇所がある。

私はこの「ボランティア」という表現に違和感を感じた。
もしかしたら、とても時間を要することなので、それに費やす時間を「ボランティア残業」ということも含めて用いたかもしれないし、メンタルな部分で、とてもデリケートな問題であるから「慈愛」的な意味や、「医学のみの範疇とはとらえずに…」という意味合いで、「ボランティア」を用いたのかもしれない。

しかし、「終末期をどこでどのように誰と過ごすか」という問題は、余命の告知を受けている方のみならず、医療的なケアが必要な方には、重要かつ「核」になるもので、いわば「援助の中核」となるべきだと思う。そのため、医師にとっては診療計画を検討する上で、看護師やソーシャルワーカーなども、各々の援助方針を検討する上での「基盤」となるべきことである。

終末期をどう支えるかは、何かの追加事項としてとらえられるのではなく、援助の一環として取り組まれるべきものであろう。
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保健・医療・福祉の連携を推進するコミュニティベースドソーシャルワークの機能 川島ゆり子(2005)

2008-11-11 22:26:48 | 社会福祉学
副題:アンケート自由記述回答による阻害要因分析をもとに

『関西学院大学 社会学部紀要 第99号』

連携の重要性が言われ続けて20数年が経つも、未だに現場では「うまく連携ができない」と言われ、学術的にも議論が止まない。その要因は何か?
大阪府A市の地域を基盤とした実践者を対象としたアンケートを通じて、その阻害要因を導き出し、その解決に有効と考えられるソーシャルワーク機能を提示している。

初めて知ったこと 連携には2つのタイプがある。
1つ目…個人援助を中心とするミクロレベ連携を起点とするボトムアップ型。
利用者の抱える困難な状況をなんとかしたい、という実践者の「人の思い」によって支えられ、展開されている。これは、人の異動によって急速に脆弱化する可能性があるという弱点がある。
2つ目…厚生省通知を踏襲する形で市町村全域のシステムを構築していった、マクロレベル連携を起点とする、トップダウン型。予算が組まれ、連携会議も「計画化」されているが、画一的でもあるため、各々のコミュニティに柔軟に対応できないという弱点がある。


「コミュニティベースドソーシャルワーク」という表現を初めて目にした。
学部時代に学んだ「コミュニティワーク」とは少し異なるようで、「コミュニティワーク」の中のイチ要素のようである。より「連携」に着目し、それを有効に「機能」させるための方法を検討しているようだ。

この調査で、「連携業務は煩雑で時間がかかる」という回答が多くあり、それに対して筆者は、「連携をスムーズに行えるよう、専門のコーディネーター役を設けることが必要」と提案している。
確かに、時間と労力を本来の専門性に集中して発揮できれば、より手厚い在宅ケアサービスが提供できるかもしれない。
しかし「連携」は、「試行錯誤」「相手の出方をみる」「いい意味での、駆け引き」などなど…その過程があってこそ、その先も「一緒にやっていこう感」が生まれることもあるのではないだろうか。そこに第三者的な立場として「連携担当者」が登場することで、余計に相手の「顔」が見れなくなってしまうことも心配だ。

「他の職種の専門性を理解し、その上で協力してやっていこう」ということを、各々の養成機関で教えていくことは、本当に難しいのだろうか…
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社会保障審議会 有識者ヒヤリング報告(2006) 田村里子

2008-11-10 22:41:07 | 社会福祉学
『医療と福祉』 No.82 Vol.41‐No.1 2007-11

平成18年に厚生労働省で開催された、「第5回後期高齢者医療の在り方に関する特別部会」において、有識者として招聘された筆者によるその報告。

終末期医療におけるソーシャルワーカーの役割を、以下のように報告されたとのこと。
引用
「患者と家族の気持ちと暮らし:心理社会的問題への社会福祉的視点からの相談援助を、心理的サポート、家族への支援、社会的問題、人生の総まとめへの援助を具体的に行うこと」「尊厳ある暮らし、QOLの高いウェルビーングな状態を指向した援助」


上記のソーシャルワーカーの役割は、「終末期医療」に限られたものではないと感じる。
田村氏は終末期医療の定義について、「疾病の種類の如何を問わず、近い将来に死が近いことが見込まれる患者への全人的医療」を採用している。それゆえに、「人生の総まとめ~」「尊厳ある暮らし~」といった表現が使われているのだと予想する。
おそらく、緩和ケア病棟に入院される患者さんは、「余命の宣告」を受け、状態的に「近い将来に死が近いことが見込まれる」のであろう。

しかしそもそも、高齢者ほど「余命」の見通しが難しく、慢性疾患ほど「余命」の判断が難しいという医療者もいる。在宅医療の対象である高齢者は、まさにこの状態で、残念なことに「予想のできなかった突然死」も起こりえる。それは、生活上のちょっとした落とし穴であったり、疾患とは別に不慮の事故だったりもする。
医療者が管理できない分、その予測は病院内でのものより立てにくい。
だからこそ、「いつでも快適に過ごせるように、気持と生活をサポートしていく」必要があるし、患者さんのお宅に行った時に、「今日も笑顔で迎えてくれた」と感じられる「感覚」が大切なんだろうと思う。


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居宅高齢者の生活支援~生活場面面接のプロセスと技法の明確化のために~ 小嶋章吾・蔦末憲子

2008-11-08 16:00:36 | 社会福祉学
『分野別実践編 グラウンデッド・セオリー・アプローチ』弘文堂 2005年(第2章に表題あり)

社会福祉の領域において、「実践を科学化」するグラウンデット・セオリー・アプローチが数年前から注目されてきている。
ここではその中でも、ヘルパーさんが行う「生活場面面接」に焦点をあて、その体系化を試みている。
ヘルパーさんが実際の場面で行っている「声掛け」をまとめ、その「声掛け」がどのような意識のもとでなされ、そして結果として利用者はどのような行動を取ったか…を分析している。

引用
生活場面面接生活場面面接とは…「利用者の日常生活場面において、援助目標に沿い利用者の多様な側面と必要に応じて環境(生活環境、出来事、他者との関係)を活用した意図的なコミュニケーション、すなわち面接である」


筆者も指摘しているように、ヘルパーさんは医師や看護師よりも、訪問は頻回に組まれ、身体的な援助をしている。それゆえに、利用者の「気持ち」や「動作」にもより近い存在で関わっている。
無意識で放った言葉でも、利用者には「後押しをしてくれた言葉」になることもあり、本論ではそれを具体的に分析・例示している。
より近い存在であるがゆえに、互いに、構えることなく過ごせる空間が存在し、その空間こそが、「言葉」を後押しし良い力を生み出しているのだとも思う。

自分が何のためにそこに行き、そして「話」をしているのか…ふと見失ってしまうことがあった。そして、自分がそこに行くことで何を生み出すことができるのだろうと感じることもあった。
ソーシャルワーカーはヘルパーさんと違って、援助をプラン化されておらず、それゆえに、より一層、家庭訪問の意義を自問自答しなくてはならない。
その答えを見つけ出す方法の一つとして、「意図的な言葉の活用」があるのではないかと思う。
言葉を放つ意味、返ってきた言葉の意味、そしてその言葉がもたらしたものは何か…それらを丁寧に考えることこそが援助の専門家…なんだと思う。
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人生のエンディング⑪ 終末医療4 (朝日新聞 11月6日付 朝刊)

2008-11-06 23:11:18 | その他
家族等の親族が困らないよう、事前に医療行為についての意思表示をすることの意味を紹介。

引用
「事前意思」…本人が、紙にその意思を残したものが[リビングウィル]とよばれる。
「推定意思」…文書はないが、家族が日頃の言動から本人の意思を推定する。
「代理意志」…本人の意向が分からず、家族が代わって示す意思。


どこまでの「延命治療」を希望するか、実際に書きだしてみた。
記事のなかで指摘されたように、「完璧なリビングウィル」はなかなかできず、「もしかしたら、こういう場合もあるのでは?」という疑問が何度も浮かんだ。

誰にとっても、完璧なものはできないのかもしれない。しかしせめて「リビングウィル」の意識を持ってもらえるよう、そしてそのための情報提供をきちんと行えるよう、援助者はより一層、意識を高める必要があると感じた。

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