専業主婦&ママ 初心者マーク

2012年兼業主婦→専業主婦に転職、2013年初めての出産。いろいろ慣れない中での新しい日々を綴っていこうと思います。

東日本大震災の経験~水道ストップ一週間~

2016-04-19 17:29:25 | 震災・原発
熊本の地震、どうか早く大地よ静まってという思いでいます。

大きい余震が続くと不安も高まるし、
ライフラインが止まるのも本当に辛かったな、と
東日本大震災を思い出してます。

緊急地震速報で一斉に携帯が鳴るのとか、
当時古いガラケーの私のは鳴らなかったけど、
職場でとかほんと怖かった。

土曜は久々に防災グッズ見直しました。

そして5年前は実感できなかったけど、
小さい子供を抱えての災害はさらに大変だろうなと…。

子供の安全確保やら、離乳食の用意やら、揺れながらオムツ替えやら。
避難所などでじっと静かになんてしててくれないだろうし。
プライバシーのない中での授乳も…。

震災当時のmixi日記読み返したら、
避難所に行くまでではないけれど、
ライフラインで水道が止まって不自由な震災生活をしている方に
もしかして参考になるかな?という部分があったので、
転載します。

当時、私は福島市のマンションの11階に住んでいて、
ガスは使え、電気も翌朝には復旧したものの、
水道は1週間と1日止まっていました。



~以下、転載~


水道が出ないだけでも
トイレ流せない、お風呂入れない、料理できない、茶碗洗えない、顔洗えない、歯を磨けない…

トイレは職場では入れたのでなるべく職場。
家の近くの小学校の仮設トイレ借りたり、
うちのタンクは埋め込み式のため 、
水をもらっても流せないこと判明…。
(目の前の川から夫やマンションの方たちが、
水を汲んできました)

水分ひかえなるべくトイレ行かないようにしてたら、
一度職場で腹痛で脂汗かいてしまいました。

食事は電気でレンジなど使えたので
冷凍してたものや結構缶詰などもあったり
ついついいつもキープの多いお菓子で食いつないでました。
若干痩せたかな?

お風呂代わりに汗拭きシートで体拭き、
顔はメイク落としシート、歯は歯磨きシート(震災直後の青空スーパー?で夫がゲット)。

でもやっぱりスッキリしません。
台所も次第に衛生状態が悪くなってきます。

そんな中、実家から、近所の井戸水いただいたり、
周りより低いからか細くちょっとずつなら水出るから、
お風呂わかしたよ、と連絡。

月曜に仕事から帰ってからもらい湯に行きました。
地震以来4日ぶりのお風呂いい気分(温泉)、シャンプー、洗顔でスッキリ♪

こんなに気持ちよく爽快な気分久々☆
夕食も料理した煮物や青物がこんなに嬉しいなんて…涙。

貴重なガソリンでの移動。
すっかり行列のなくなった学習センター給水所で、
お水いただき我が家でも歯磨いたり顔洗いできるようになり、
少し生活が向上しました。



【補足】
お皿洗えないから、ラップが活躍しました。
子どもさんがいる家庭では少しでも明るく過ごせるよう
紙皿にかわいい絵を描いてラップして使ったそうです。

ちょうど資源物回収直後で空のペットボトルも全くなかったので、
ちょうどあった生協宅配さんの発砲スチロールの箱にゴミ袋2重にして
給水をもらいに行きました。

水道が止まっている日数が長くなってくると
井戸水を解放してくださる方が多くて、
ツイッターやラジオなどでそういった情報が多く聞かれるようになりました。

水道局の方々は不眠不休で水道管の復旧に励んでいました。
地区によってどこまでは水道復旧なんて情報も入ったり…。
おどしのような電話も多かったそうですが、
大元から順次チェックしていくしかなかったとか。
当時の挨拶は一時「水出た?」でした。

東日本大震災から二年~原発事故について思うこと~

2013-03-13 16:57:45 | 震災・原発
前回の続きです。

水道が一週間で復旧して、
我が家の思いもよらなかった被災者生活(といったら沿岸部の方に申し訳ないくらいの程度ですが)は
終了しました。

でも福島県民には原発事故、というこれまた思いもよらなかった大きな大きな影響がありました。

高校時代、修学旅行が京都・広島で、
広島では被爆者の体験談をお聞きする機会がありました。

そのお話の中で
「みなさんの住む福島県には原発がありますよね。
 原発があると、攻撃されたり、もし事故が起こったりしたら、
 いつ放射能の被害を受けるかわからないんですよ。」
といったお話があったのがずっと心に残っていました。

家に帰ったあと親にもそんな話をしましたが、
あまり心配していない様子。

私はそれ以降、電気は必要だけど、原発は反対だなぁ、という気持ちは
心の中でなんとなく持ち続けていました。

震災後は、家に帰ればニュースも見てたので、原発がだんだんヤバイのでは?と思いつつも、
目の前の仕事や水や食べ物のない被災者生活にいっぱいいっぱいでした。

爆発しないように給水うまくいって!と思いながら、仕事をして、
爆発の映像に驚きつつも70キロも離れてるから命に別状はないだろうと思いながら仕事を続け…。

でも次第に放射性物質がかなり飛んできていることがわかってきて
心配になり、テレビのアドバイスに従って、
通勤や外で作業するときはロングのダウンコートにフードをかぶって、
手袋、マスクとかなりあやしげなかっこう。

家に帰ればウェットティッシュで顔や服、バッグを拭いたりしてました。
(顔洗え、とかシャワー浴びろ、って言われても水出ないんじゃー、と思いながら…)

仕事とはいえけっこう外で作業したり、一番たくさん飛んできていた15日の夜も
帰りに雨に当たったことが(可能な限りバスでワープしましたが)
今でも気になってます。
当時はしばらく子供は考えないほうがいいかな、と思ったし。

ベクレルとかシーベルトとか、最初は何もわからなくて混乱しまくりでした。
不安をあおるマスコミとか、ネットの情報やら、
この現代でもデマって起きるんだな~とか…、
いろいろ経験して、本当に勉強になりました。

Eテレの「福島をずっと見ているテレビ」で箭内さんも言ってたけど、
避難した方に、心配しすぎだ、なんで避難するの、とか、
残った方に、被ばくし続けるのに、なんで避難しないんだ、とか
原発事故で福島県民同士が傷つけ合うのがとても悲しいです。

今、一番思うのは、それぞれの人が出した答えを否定しないこと。

それにしても、何もなければ悩まなくていいことをこんなにも悩み、
家族が離れて生活したり、子供が外で遊べなかったり、
食べ物など日々の生活をいろいろ注意する必要があったり、
精神的にも経済的にも多くの苦痛を強いられるのは、本当に切ないです。

何よりも原発周辺の方たちのふるさとを失った思いは、
いくら想像しても気持ちによりそうことはできないかもしれませんが、
本当に辛いです。

私は夫の仕事の関係で2年間別居生活中の震災、
余震やら業務上やら精神的にキツイ時期もあり、
いずれは退職も覚悟の上で決めた結婚だったので、
2012年3月での退職を決意し、去年の4月から首都圏に引っ越しました。

震災や放射能の不安がある意味背中を押してくれた一因ではあります。

そして原発について私が思うのは…、
むやみに原発再稼働反対デモにも違和感があって、
原発が再稼働しなければ安全なわけでもないし、
原発の代わりに火力発電をたくさん使うなら、地球温暖化とかCO2削減はどうなったんだろう?とも思います。

電気をまったく使わない生活はどう考えても無理です。
洗濯手洗いなんて相当手間ひまかかるし、冷蔵庫やらレンジやらのない生活も無理。

なので、本当に真摯に安全対策を施したうえでなら、
代替エネルギー(なるべく環境に優しいものを)が整うまでは、
再稼働もやむを得ないと思います。

先日のNHKスペシャル“メルトダウン”3部作とか見てると、
国も電力会社も事故の精査の上での安全対策はまだまだ不十分と思ってしまいましたが…。

ただし、これだけ危険なもの、暴走したら止められないものだとわかったのに、
原発の新設はありえないと思います。
廃棄物処理だってどうすればよいか決まらないのに。

そして私たち一人一人はなるべく電気を使わない生活を心がけていくべきではないかと…。

最近知った印象的な言葉「一人の100歩より100人の一歩」なら
次の一歩は「101歩ではなく200歩」

このブログでいろいろ書いてきた生活の中の食べ物を中心とした安心・安全に興味を持った要因も
いろいろありますが、原発事故後の内部被ばくに注意する生活をしたことも影響がありました。

当初は水もペットボトルにしたり、福島県産を避けたりしていましたが、
検査体制が整ってからは食べ過ぎなければいいかな、とか
よく洗ったり、皮を厚く向いたりとか
自分なりの判断で徐々に変わってきています。

今はむしろ完璧に検査されていた福島を離れ、関東の新鮮なもの嬉しいけど
検査体制が気になったりで、
食べ過ぎないようにとかいろいろ考えてしまいます。

そして生活習慣による発がんリスクとかいろいろ勉強になったので、
食べ物を含め健康について俄然興味が出たのかも。

…なんだかつらつらと書いてしまいましたが、
震災から二年たって原発について思うのは、そんなことです。

廃炉まで40年と言われますが、
まずは一日も早く事故が収束して放射性物質の放出が収まり、
除染などが進むことを願っています。



~2013.3.14追記~

新聞を相方が通勤のお伴に持っていってしまうので一日遅れで読むのですが、
昨日の日経新聞2~3面を読んでまたいろいろ考えちゃいました。

「石炭火力にアセスの壁」
東京電力が石炭火力発電所を作る計画に環境省が待ったをかけていることについて。
コストが低いからとそんな話が進んでるんですね!
CO2ばんばん出してでも電力安定供給優先ですか…

「なぜ福島なのか」
福島県沖の風力発電、福島での地熱発電構想にそれぞれ
漁業・温泉関係者反対の声。
再生可能エネルギーが漁業や温泉に損害を与える可能性についても
考慮が必要なんですよね、難しい問題です。

「メタンハイドレード、初の洋上算出」
ニュースでうまくいけば100年まかなえるかも、なんても行ってましたが、
これもCO2出ちゃいますよね…。

原発反対、って口で言うのは簡単だけど、原発の必要のない未来をどう作るのか
本当に難しい。
でも50年後、100年後…もっと先も見据えて、
電力の将来を計画していかないとですよね。

私にできるのはまずはなるべく電気を使わないようにすることだけですが、
100人の一歩で日本全体でまずは必要電力減らしていければいいのになぁ。

東日本大震災から二年

2013-03-11 16:32:59 | 震災・原発
東日本大震災から二年が経ちましたね。

失われたたくさんの尊い命、心からご冥福をお祈りいたします。
そして今も多くの方が大変な生活を強いられ、
復興も原発事故の収束もまだまだ…。

私にとっても人生観が大きく変わる出来事でした。

ちょうど次の日、南三陸町のホテルに宿泊予定でした。
宿に行く前に海岸線をドライブしながら気仙沼のサンファンパークとかに行ってみようかなんて言っていて…
揺れるタイミングがずれていたら津浪に巻き込まれていたかもしれません。

生かされていることにあらためて感謝です。

震災の起きた時は仕事中で、免震構造の建物の一階にいました。
なので揺れに驚いたものの最初はこんなに大変な事態を実感していませんでした。

次第にテレビでは津波で車が流されている、なんて聞きながら、
避難者対応にあたって帰宅したのは24時近く。

道路や建物が崩れているのを横目に、停電で真っ暗な中をこわごわ自転車を押して歩きながら、
本当に大変なことになったと実感しました。

携帯の灯りをたよりに外階段を11階までのぼってたどりついた我が家も、
食器が割れて散乱したり、なべの中身がぶちまかれたりしていました。

明け方、相方が帰宅。
ちょうど高速バスに乗っていたので、東京から16時間くらいかかったものの帰ってきてくれました。

車もなかったので、もしこの時、単身赴任先にいたらしばらく帰ってこれなかっただろうと思うと
ほんと絶妙なタイミングでした。
11階の我が家で何度も続く余震はかなり怖くて、そばにいてくれてどれだけ心強かったか…。

そして翌日からは、避難者対応で食糧をバケツリレーしたり、
必至に目の前のことをこなしていく毎日でした。

我が家の被災者生活は水道が復旧するまで一週間。

食べ物は、電気が翌朝に復旧したので、冷蔵庫の食糧が助かり、買い置きのお菓子や
相方が翌日にスーパーの駐車場青空市場などで買い込んできてくれたもので食いつなぎました。
お腹いっぱい食べれなかったり、寒い時期にあたたかいものが食べれないのは、
こたえますね。

一番辛かった水。飲み物もお風呂も洗濯もトイレも本当に大変でした。

真ん中あたりで一度、なんとかお風呂炊いたよ~、と実家から連絡がありもらい湯へ。
お風呂に入る幸せ、あの気持ちよさは忘れられません。

トイレの水はなるべく職場で済ませ、近所の避難所のトイレを借りたり、
相方も参加してマンションのみなさんが川からくんできた水を使ったりしました。

ガソリン不足も深刻で、あのガソリンスタンドの行列や飛び交うGS情報…。
放射能の怖いけど車で送ってもらえないジレンマ…。

もちろん家をなくしたり、原発からの避難で避難所にいた方に比べたら、
辛いなんて言ったら申し訳ないレベルですが、
それでもかなり精神的に辛かったです。

そんな時、安否を連絡しあったり、必要なもの送るよ、と連絡くれたり、
親戚や友人の心遣いは本当にありがたかったです。

原発事故についてなど長くなりそうなので、また後日…。