屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ 剣淵兵村の今 (平成23年)

2011-06-23 08:21:11 | 剣淵屯田兵村

<ルポ:現在の剣淵兵村(平成23年6月)>
 剣淵町の中心街は国道40号線から離れている。鉄道線路も剣淵駅の手前で西側にカーブしている。これは、大都市である札幌、旭川以外にある兵村では例の無い形態である。何故なのか。何か訳があるのではないかとの疑問を持ちながら剣淵町に入った。
以前、剣淵町80年誌、同100年誌の編纂にもかかわったという副町長のS氏にそのことをぶつけてみた。
 根拠となる資料はないが、やはり泥炭質の土地によるものであるらしい。

「国道40号線方向から剣淵町を眺める」

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「剣淵の航空写真」

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 天塩街道(現国道40号線)、天塩線(現宗谷本線)は、屯田兵入植1年後の明治33年に開通した。上川方面から北上すると手塩街道は、剣淵村の入り口で西に折れ大隊本部のあった剣淵兵村に入り、そこで、北に折れ士別兵村へ向う。しかし、当時既に剣淵村入口から直接士別に向かう踏み分け道が真っすぐ北に伸びていたという。また、鉄道線路の剣淵駅は、設計の段階で現在の位置よりも北側にあったという。
 これらが意味するところは、やはり、剣淵兵村周辺の土質の問題に関係があったのではないだろうか。
 手塩街道、手塩線を直接に大隊本部のあった剣淵兵村の中心まで直線的に引き込込むことができなかったこと以外に考えられない。
 今でこそ、剣淵は潅漑溝が整備され、土地改良が進み豊かな農耕地として生まれ変わっているが、屯田兵が入植した当時、その流域は湿地帯で、井戸を掘っても赤水が発生し生活用水として使うことができなかったという。
 この苦難は過去だけではなく、現在に至るまで剣淵の人達に重くのしかかった。

「剣淵川の流れ」

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 明治30年に増毛支庁管轄天塩国上川郡剣淵村、士別村、多寄村、上名寄村の4村を開村し、剣淵村に戸庁役場を設置。ここに大隊本部を設置したことは、この地を中心に以北の地域を開拓しようと目論んだものと思うが、士別までの鉄道線路の開通、手塩街道の延伸等が早期に行われ、水陸の交通が容易な士別の方が先に発展してしまった。
 不運かな鉄道線路の経路を曲げてまで敷設しなければならなかった剣淵で物流の拠点を作り上げることができなかったばかりか、剣淵屯田兵の現役5年間の間に与えられた給与地の殆どを開墾することもできなかった。

 ここに、剣淵の教育委員会から頂いた、辺乙部川の上流から潅漑溝を構築したことを記した資料がある。
 それによると、「生活用水に窮した剣淵屯田兵は、明治36年、剣淵の中心から南西約20km先にあるペオッペ川上流字西和から剣淵の中心まで用水を流すため潅漑溝の建設に着手。37年一応の完成を見たが、屯田兵は同年勃発した日露戦争に出征。潅漑溝は顧みられることなく、凱旋時には荒廃してしまっていた。そして、明治37年に屯田兵制度は廃止され、土地からの縛りを解き放された屯田兵と家族の人達は生活の目途のたたない兵村を離れ新たな地を求めて去っていった」。(要約)と記されていた。
 これが、剣淵兵村のその後を見通す史実である。

「中央幹線取水口」

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「灌漑溝は今でも水が流れる」

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「豊かに広がる剣淵の農場」

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 では、離散した屯田兵とその家族たちは何処へ行ってしまったのか。
 このことが知りたくて、剣淵町役場を訪ねたが、子孫の消息は殆ど判らない。それら屯田兵の歴史を調べるため表立った活動をしている人はいないという。
 それでも、副町長のS氏から士別盆地西側の丘に再入植した屯田兵がいたことや、士別や、遠く網走に移り住んだ人もいた。現在も当初入植した地に住む子孫も数軒あるという話を聞くことができた。
 
 役場を後にしたその足で、「絵本の館」に向かった。ここは、剣淵町が一番力を入れる施設で、「絵本が持つ夢やこころの豊かさをテーマにした町づくりをしたい」。そんな町民の思いをかなえるために作られた。平成16年に新しい現在の館が開館した。町ではこの施設を活用した色々なイベントが企画されている。
 たまたま入館した時には押し花の展示会が催されていた。町内に住まわれてるている方が説明員として勤務をされていたので、少し屯田兵の話をしたところ、私も屯田兵の子孫で3世ですよといわれた。屯田兵で入植した祖父には1男5女の子を授かり、5女のすべては剣淵に住む人のところに嫁いだと話された。と言うことは孫の世代になると10名以上の子孫がいることになる。4年前に『絵本の館』を訪ねた時に郷土資料館を案内してくれた職員の方も屯田兵の子孫ですといっていた。剣淵には屯田兵の子孫の方が大勢いることは間違いない。
「絵本の館内部」

1  
 剣淵の歴史は土地改良の歴史でもある。今ある剣淵の農地は、碁盤の目のように区画され、手塩川本流をせき止め作った岩尾内ダムから水を導入し、緑豊かに広がっている。
 この、剣淵の豊かな自然と農地を守るのは『絵本の館』で絵本を読んで育った子供たちである。
 大志を抱く青年へと育ってほしい。


ルポ 当麻兵村の今 平成23年

2011-06-22 22:39:43 | 当麻屯田兵村

<ルポ:現在の当麻兵村、(平成23年6月)>
  
12年連続全道一の品質を誇る米の産地。『でんすけスイカ』のブランドで有名なスイカの産地。それが当麻町で当麻屯田兵の入植地である。

 国道39号線沿にある『当麻道の駅』から道々1122号線を3~4km程南東に向かうと当麻町の中心に入る。街並みは昭和40年から50年頃の古びたたたずまいのように感じる。一部の店はシャッターを下ろし、一部は立退いて歯抜け状態になったところもあったが、多くの店は健在でショーウィンドの中には商品が陳列されていた。

  当麻町は旭川市の永山町と連接しているが、その中心が国道から外れているため、国道を行き来する人は当麻町の存在すら感じないかもしれない。そんなことが幸いし、都市近郊の特徴とも言うべき大型店舗の進出と、乱立する看板の被害から町の景観を守ることができた。
 街中から一歩出ると、周りは一面の田園地帯。耕地面積の90%以上が田んぼである。まさに、米どころである。

「当麻の街並み」

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「当麻の田園風景 正面には大雪山が」

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 12年連続全道一の米どころ。この要因は何処にあるのだろうか。そんなところを聞くためにJA当麻に足を運んだ。質問された若い職員、それも旭川からJA当麻に就職したという職員には困惑顔。数枚のパンフレットを持ってきて説明をしてくれたが、当麻町として特別なことをしている訳でもなさそうだ。
 納得を得た説明は、「農家の人達の努力です」。であった。
 では、その努力の根源は何なのか。
 屯田兵の入植以来、稲作にかけた情熱。その伝統を100年以上の長きに渡り受け継いで来たことにあるのではないだろうか。

「当麻農協に掲げる北海道一の米 当麻米」

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「JAの米集積場 カントリーエレベーター」 

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(当麻のブランド今摺米)

 今まで、多くの屯田兵入植地を訪ね歩いてきた。現在も稲作の町として、畑作の町として、牧場の村として生き抜いている地では同じように屯田兵の伝統が息づいている。
 それは、新しいものへのチャレンジ精神であるように受け取った。農業は競争の世界である。より高品質のものを、より安全なものを、より多く生産しないと生き残れない世界である。これらのことは、屯田兵入植から現在へ発展する過程で物語っている。
 当麻には、永山、旭川屯田へとともに稲作にかけた開拓の歴史がある。ただ、それら2個兵村との違いは、未だに都市化の波に飲まれていないことだけかもしれないが。石狩川、久朱別川の上流に位置し清き水に恵まれたこと。当麻の地名(アイヌ語の「ト(沼)・オマ(~に入る)・ナイ(川)」)が示すように、湖沼や湿地が多く存在することもその要因に
挙げられるかもしれない。
 そのの結果が、12年連続品質全道一の評価である。
 当麻屯田兵の伝統が続く限り、その年数は積み重ねていくものと思う。いや、そうであって欲しいものである。
  
 当麻町には、大正15年に建築された旧当麻町役場の建物を活用した郷土資料館がある。収蔵している資料もさることながら、建物自体が文化財としての価値を有する。
 館で説明をして下さったのはご当地の屯田兵子孫会長をされているH氏と、当麻町郷土史研究会長をされているN氏で、この方は納内屯田兵(深川市)の子孫である。
 当麻屯田兵子孫会に入会されている子孫の方の数は120名という。入会されていない子孫の方もおられるそうなので可なりの数であるが、他の兵村と同じように3世の方は高齢化し、慰霊祭等の行事に参加される子孫の数は年々少なくなっていると言われた。

「当麻子孫会会長、当麻郷土史研究会会長」

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 (北海道屯田倶楽部の機関紙「屯田」の紹介ありがとうございます)

 一方、当麻町郷土史研究会は昭和61年に発足し26年なるという。この間に、『郷土史 礎』を4回にわたって出版され、5巻目の出版を検討されているという。市制を引く屯田兵入植地での郷土史研究会は珍しくないが、町でこのような活動をされているところはまれである。
 初代の会長が「忘れられてゆく当麻の先人達の残された功績や裏話を掘り起こし、光を当てて後世に残す資料としたい」と述べられているが、崇高なお言葉である。
 1/4世紀を経過した現在。世代交代の時期に差しかかり、求められるものが少しずつ変化しているかもしれないが、当麻の子供たちの未来のために当麻の伝統をしっかりと伝えていってもらいたいと思う。

 当麻山の南側一帯は平坦地で北海道独特の広々とした水田がひろがる。この地域は屯田兵の給与地のあった場所で、陽の光に反射し輝く稲田には20cmほどに成長した稲が、太陽の恵みを一杯に受けてすくすく育っている。
 他方、当麻山北側から当麻ダムまでの地域は戦後の開拓民が入植した場所である。ここに来ると風景は一変する。大雪山系の裾野に位置するこの地域は、北から南に張り出した丘陵の間に水田が広がり、ところどころに池沼が存在する。また、ビニールハウスの中で黒いスイカ(でんすけスイカ)が20cm位の玉に成長していた。
 この景観は、本州にある農村風景と変わらない。赤や青のトタン屋根ではなく瓦屋根であったなら、ここが北海道の水田地帯だとは誰もが思わないだろう。
 当麻とはそんな地である。

「稲作発祥の地付近の田んぼ」

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「当麻ダム付近の田んぼ」

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「デンスケスイカの栽培」

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「当麻に散在する池・沼」

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ルポ 永山兵村の今(平成23年)

2011-06-22 19:35:31 | 永山屯田兵村

<ルポ:現在の永山兵村>
 旭川の中心から、国道39号線を東に暫く走ると、郊外型の大型店舗の大きな看板が目に付くようになる。この付近が永山西兵村のあった場所で、国道から南側に1条入った両側には新しい住宅が整然と並ぶ。国道の北側は企業関係の建物が多い。
 さらに国道を東に進むと南手奥にこんもりとした緑の林が見えてくる。ここが、第三大隊本部があった場所で永山神社の脇の屯田公園に大隊本部の碑と黒御影石で作られた永山屯田100年記念碑が建つ。この場所は、現在でも永山の中心で上川支庁、永山支所等の建物が集まる。ここからが永山東兵村で、国道をさらに進むと旭川大学、永山新川に差し掛かり、その先は、町並が途切れ田畑が目立つようになる。
 永山兵村は、中央道路(現在の国道39号線)の両脇に東西約7kmにわたり配置され、その給与地は石狩川から牛朱別川の間に配当された。

「永山の街並み」

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 永山で屯田兵子孫の方を始め何人かの方と話をする機会を得て強く感じたことは、郷土永山という土地に対する自負心というか、プライドというか、永山が旭川の中心であったという気持をもたれていることである。
 事実、上川の地に始めて戸長役場か設置されたのは永山の地で、永山屯田兵が入植した明治24年、神居村、旭川村、永山村を包括する戸長役場が第3大隊本部に設置された。

「永山支所前に復元された永山戸長役場」 

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 上川の地は、明治24年の永山屯田兵の入植をもって開かれたといってもよい。また、永山の地名は、上川開発の祖とも言うべき、2代北海道庁官、初代第七師団長永山武四郎の名を取って名づけられた。
 その後、明治25年に旭川(現東旭川)、明治26年に当麻屯田兵が入植したが、それらの先輩格にあたり、未開の地を開き、後から入植する者の道筋をつけたといってもいい。
 そして、今、旭川の中心として発展している忠別太に先んじて発展した。

「永山武四郎の像 永山神社内」 

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 永山新川の開通にあわせ開館した川のふるさと交流館『さらら』に、当時の賑わいを示す建物の模型・写真が展示してある。
 今紹介した永山新川であるが、永山兵村を含め旭川兵村や当麻兵村の牛朱別川沿いの給与地では度重なる氾濫により大きな被害を受けてきた。これらの水害から農地を守り安心して生活ができるようになるまで1世紀あまりの期間を要したが、平成16年に20年の歳月をかけバイパス水路の工事が完了した。この新川は、永山東兵村の農地を分断する形で流れる水路であり、堤防沿いは地域住人の憩いの空間としても配慮されている。

「永山新川から大雪山を仰ぐ」

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「永山の東後方にある射的山」

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 永山は上川開拓の先駆者であったが、旧第七師団の近文台への配置等の影響もあり、その後の発達は忠別太(現旭川市中心)に移った。永山村は昭和36年に旭川市に吸収合併されてしまい、今では旭川市のベットタウンとして、工業団地として、また、文京の地として変化している。
 寂しいかな、過去永山にあった屯田兵関係の資料も合併に合わせるかのように旭川市に移され永山には殆ど存在しない。『さらら』に屯田兵関係の展示コーナーがあるが、一部を除き、その殆どはレプリカである。

「旧第七師団の遺構(その1) 偕行社」

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「旧第七師団の遺構 旭橋」

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「旧第七師団の遺構 騎兵第七聯隊施設跡」

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 永山の伝統を残すものとして、この地に何か無いかと永山支所を訪ねた。そこで紹介されたのが「永山屯田まつり」なる行事。早速、国道を跨ぎ北側にある商工会所の事務局に伺い話を聞いてきた。
 「永山屯田まつり」は、昭和62年に市民手作りのまつりとして創設。平成23年で24回を数える永山地区の一大イベントとして定着をした。
 その趣意書の中に「永山屯田まつりは、先人の偉業に感謝と敬愛の気持を高めると共に豊かな文化遺産を誇りとし、後世に伝えていく使命と郷土永山の益々の発展を祈願し取り組んでいる・・・」とある。
 平成23年は7月29日~31日の間にわたり繰り広げられる。その中には、屯田兵の仮装パレードも行われる。

「永山屯田まつりの一コマ」

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 「合併により、今まであったまつりごとが無くなった。その結果、過去その地にあった文化と伝統が失われていく」。と話された方がいた。
 永山のこのまつりは、昭和62年に新たに持ち上がったものである。その時のエネルギーは大変なものであると思う。継続するのも住民の思い。永山屯田祭まつりが地域の伝統となるように期待したい。
 

 上川開拓の先駆者的存在の永山兵村。都市化の波をまともにかぶり、国道沿いではその面影を探すことはできないが、今尚残す当時の区割りと、給与地として付与され、屯田兵とその後入植した人たちにより作り上げられた石狩川から牛朱別川の間に広がる豊かな農地、それと、大隊本部の碑をはじめ屯田兵の偉業を顕彰するか数々の碑。
 永山の伝統を屯田兵子孫の方々と、その後、入植した多くと人々の子孫の方々が守る。

「旭川の遠景 中央奥が永山地区」

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2011-06-22 19:29:58

2011-06-22 19:29:58 | インポート

<ルポ:現在の永山兵村 平成23年6月>
 旭川の中心から、国道39号線を東に暫く走ると、郊外型の大型店舗の大きな看板が目に付くようになる。この付近が永山西兵村のあった場所で、国道から南側に1条入った両側には新しい住宅が整然と並ぶ。国道の北側は企業関係の建物が多い。
 さらに国道を東に進むと南手奥にこんもりとした緑の林が見えてくる。ここが、第三大隊本部があった場所で永山神社の脇の屯田公園に大隊本部の碑と黒御影石で作られた永山屯田100年記念碑が建つ。この場所は、現在でも永山の中心で上川支庁、永山支所等の建物が集まる。ここからが永山東兵村で、国道をさらに進むと旭川大学、永山新川に差し掛かり、その先は、町並が途切れ田畑が目立つようになる。
 永山兵村は、中央道路(現在の国道39号線)の両脇に東西約7kmにわたり配置され、その給与地は石狩川から牛朱別川の間に配当された。
 永山で屯田兵子孫の方を始め何人かの方と話をする機会を得て強く感じたことは、郷土永山という土地に対する自負心というか、プライドというか、永山が旭川の中心であったという気持をもたれていることである。
 事実、上川の地に始めて戸長役場か設置されたのは永山の地で、永山屯田兵が入植した明治24年、神居村、旭川村、永山村を包括する戸長役場が第3大隊本部に設置された。
 上川の地は、明治24年の永山屯田兵の入植をもって開かれたといってもよい。また、永山の地名は、上川開発の祖とも言うべき、2代北海道庁官、初代第七師団長永山武四郎の名を取って名づけられた。
 その後、明治25年に旭川(現東旭川)、明治26年に当麻屯田兵が入植したが、それらの先輩格にあたり、未開の地を開き、後から入植する者の道筋をつけたといってもいい。
 そして、今、旭川の中心として発展している忠別太に先んじて発展した。
 永山新川の開通にあわせ開館した川のふるさと交流館『さらら』に、当時の賑わいを示す建物の模型・写真が展示してある。
 今紹介した永山新川であるが、永山兵村を含め旭川兵村や当麻兵村の牛朱別川沿いの給与地では度重なる氾濫により大きな被害を受けてきた。これらの水害から農地を守り安心して生活ができるようになるまで1世紀あまりの期間を要したが、平成16年に20年の歳月をかけバイパス水路の工事が完了した。この新川は、永山東兵村の農地を分断する形で流れる水路であり、堤防沿いは地域住人の憩いの空間としても配慮されている。
 永山は上川開拓の先駆者であったが、旧第七師団の近文台への配置等の影響もあり、その後の発達は忠別太(現旭川市中心)に移った。永山村は昭和36年に旭川市に吸収合併されてしまい、今では旭川市のベットタウンとして、工業団地として、また、文京の地として変化している。
 寂しいかな、過去永山にあった屯田兵関係の資料も合併に合わせるかのように旭川市に移され永山には殆ど存在しない。『さらら』に屯田兵関係の展示コーナーがあるが、一部を除き、その殆どはレプリカである。
 永山の伝統を残すものとして、この地に何か無いかと永山支所を訪ねた。そこで紹介されたのが「永山屯田まつり」なる行事。早速、国道を跨ぎ北側にある商工会所の事務局に伺い話を聞いてきた。
 「永山屯田まつり」は、昭和62年に市民手作りのまつりとして創設。平成23年で24回を数える永山地区の一大イベントとして定着をした。
 その趣意書の中に「永山屯田まつりは、先人の偉業に感謝と敬愛の気持を高めると共に豊かな文化遺産を誇りとし、後世に伝えていく使命と郷土永山の益々の発展を祈願し取り組んでいる・・・」とある。
 平成23年は7月29日~31日の間にわたり繰り広げられる。その中には、屯田兵の仮装パレードも行われる。
 「合併により、今まであったまつりごとが無くなった。その結果、過去その地にあった文化と伝統が失われていく」。と話された方がいた。
 永山のこのまつりは、昭和62年に新たに持ち上がったものである。その時のエネルギーは大変なものであると思う。継続するのも住民の思い。永山屯田祭まつりが地域の伝統となるように期待したい。
 上川開拓の先駆者的存在の永山兵村。都市化の波をまともにかぶり、国道沿いではその面影を探すことはできないが、今尚残す当時の区割りと、給与地として付与され、屯田兵とその後入植した人たちにより作り上げられた石狩川から牛朱別川の間に広がる豊かな農地、それと、大隊本部の碑をはじめ屯田兵の偉業を顕彰するか数々の碑。
 永山の伝統を屯田兵子孫の方々と、その後、入植した多くと人々の子孫の方々が守る。


ルポ 旭川兵村の今(平成23年)

2011-06-22 07:38:27 | 旭川屯田兵村

<ルポ:現在の旭川兵村(平成23年6月取材)>

 「ここを見て はじめて 北海道がわかった」。これは、旭川兵村記念館のしおりに書かれている来館者の言葉である。
 

 旭山動物園を知らない人はいないと言っても良いほど有名になってしまったが、この動物園のすぐ西側に旭川兵村があったことを知る人は殆どいない。
 旭川兵村は、旭川市の中心から約5km東側に進んだ位置にある。通称東旭川町呼ばれている地区である。本通沿いは割合早く開けた様で、旭川市の中心から町並みが中隊本部のあった旭川神社付近まで続く。

「旭川の遠景、後方、鉄塔のある付近の手前が旭川兵村」

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「旭川兵村から旭山動物園を眺める」

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 旭川兵村で是非紹介をしたいのは。冒頭に紹介した「旭川兵村記念館」財団法人/博物館相当施設と、「上川100万石」由来の地であることである。
 旭川屯田記念館についてであるが、何故これがすごいかというと、東旭川町に住む人たちの手によって一億円あまりもの資金を集め作り上げたということである。「思いがあればかなえることができる」。まさにその通りに実現をしてしまった。現在の姿になるまで並々ならぬご苦労があったと思われるが、しかし、この兵村にしかない大変貴重な資料が残されていた。それは、147冊にも上る中隊本部記録資料である。それと、北海道の稲作において主導的な役割を果たした人物を多く排出したことにもある。これらは、博物館を建てることに対する必然性が前提条件として存在したことでもある。

「旭川兵村記念館」

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「中隊本部資料147点」

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 この館には何度かお邪魔し見学をさせていただいているが、その度に研究心を駆り立てる。陳列されている資料の一つ一つが貴重で、その展示物の先には奥深く広がる歴史の重みがある。 
 「伝えよう」。「伝えたい」。と思う人の心、熱意は来館者に通じる。それが「これを見て 北海道のことが分かった」。に代弁される。この館には道外からこの館を見るために来る人が大勢いると聞いた。そして、感銘を受け、帰って行かれる人が多いそうである。資料はそれほど多くあるというものではないが、一枚一枚の写真に明治20~30年代当時の北海道での生活の姿が映し出され、困難な開拓にあっても力強く生きる人々の姿がある。

 旭山動物園の駐車場右手にある旭山寺脇の道路を上って行くと、幾つかの碑が建っている。その中に苔むした一本の碑がある。その碑が、旭川での稲作に貢献のあった藤田貞元、末武安次郎、中山久蔵を顕彰する碑である。

「稲作功労者を顕彰する碑」

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 中山久蔵とは、札幌から千歳方向へ20kmほど下ったところにある島松で駅逓業を営む傍ら稲の栽培に着手。北海道で初めて米作りを成功させた先駆者で北海道稲作の父と称せられる。
 末武安次郎とは、屯田兵家族として旭川兵村に入植し、明治38年に直播機「たこ足」を発明した人物。
 藤田貞元という名をはじめて聞くという人が殆どであると思うが、この人こそ、「上川100万石生みの親である」。というのは記念館館長の弁であり、大変な人であったという。  
この人の調査はこれから進むものと思うが、屯田兵戸主の兄として津軽から入村。その一年前には永山兵村を視察し、この地で米は絶対に採れると確信し、米を作るため、旭川兵村に戸主の弟とともに入植したという。時の中隊長井田光承を説得し、和田正苗大隊長をも動かし試作にこぎつけた。入植1年後の明治27年には中隊で灌漑溝の掘削を行わせしめている。
 これがあって、旭川兵村で本格的な稲作が行われるようになる。その後発明される、「たこ足」、「猫足」、「カラカサ馬回し機」等は、そんな、藤田の情熱に後押しされ生み出されたものであるといっても過言で無いかも知れない。

「タコ足」

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「カラカサ馬回し機」

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「中山久蔵が勤めた島松駅逓」

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 公開はされていないが、旭川兵村記念館に明治33年旧第七師団司令部が記録した『迅速図』というものがある。そこには、旭川兵村の区割りに合わせるかのように用水路が張り廻らされている。旭川兵村で本格的な稲作が行われていたのは間違いがないようである。
旭川兵村での成功が、永山、当麻兵村の稲作に勢いをつけ、上川盆地全体に広まって行った。そして、後に入植する、野付牛、士別・剣淵の稲作へと発展していった。
 

 平成23年の6月記念館にうかがったとき、旭川兵村記念館友の会を設立したと聞いた。また、「旭川屯田会」は屯田兵子孫の方だけの集まりではなく、旭川屯田兵と郷土開拓の歴史を伝える活動に賛同する人であれば入会を拒まないと聞いた。平成23年現在で200名の会員がおり増加傾向にあるという。
 「旭川屯田記念館」を建設したときの勢いは今も衰えない。日々進化するニーズに対応する活動。これが、変化する時代の中にあって、郷土の伝統と文化を継承するために必要なことであると思う。旭川屯田記念館から発した郷土旭川の歴史を学び、伝える活動の輪が東旭川の人たちだけでなく、旭川を巣立った人たちとともに全道の輪、全国の輪へと広まっていくことに期待をしたい。

 旭川滞在最後の日は、倉沼川沿いを走ってきた。この川は藤田貞元の提言により上兵村の中隊全員で灌漑溝を掘削したときに水を取り入れた川だという。取水口は、旭山動物園のある旭山の南裾に位置する。この場所から雪渓を頂いた大雪山の峰々を真正面に拝むことができた。
大雪山に降り積もった雪は雪解け水となり、また、岩盤の間を地に浸透し、長い年月をかけ伏流水となって地表に現れ川の流れとなる。清き水。これが米どころ「上川100万石」を育む水である。

「倉沼川」

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「お世話になった子孫会副会長のお店 石蔵」

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