屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ 当麻兵村の今 平成23年

2011-06-22 22:39:43 | 当麻屯田兵村

<ルポ:現在の当麻兵村、(平成23年6月)>
  
12年連続全道一の品質を誇る米の産地。『でんすけスイカ』のブランドで有名なスイカの産地。それが当麻町で当麻屯田兵の入植地である。

 国道39号線沿にある『当麻道の駅』から道々1122号線を3~4km程南東に向かうと当麻町の中心に入る。街並みは昭和40年から50年頃の古びたたたずまいのように感じる。一部の店はシャッターを下ろし、一部は立退いて歯抜け状態になったところもあったが、多くの店は健在でショーウィンドの中には商品が陳列されていた。

  当麻町は旭川市の永山町と連接しているが、その中心が国道から外れているため、国道を行き来する人は当麻町の存在すら感じないかもしれない。そんなことが幸いし、都市近郊の特徴とも言うべき大型店舗の進出と、乱立する看板の被害から町の景観を守ることができた。
 街中から一歩出ると、周りは一面の田園地帯。耕地面積の90%以上が田んぼである。まさに、米どころである。

「当麻の街並み」

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「当麻の田園風景 正面には大雪山が」

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 12年連続全道一の米どころ。この要因は何処にあるのだろうか。そんなところを聞くためにJA当麻に足を運んだ。質問された若い職員、それも旭川からJA当麻に就職したという職員には困惑顔。数枚のパンフレットを持ってきて説明をしてくれたが、当麻町として特別なことをしている訳でもなさそうだ。
 納得を得た説明は、「農家の人達の努力です」。であった。
 では、その努力の根源は何なのか。
 屯田兵の入植以来、稲作にかけた情熱。その伝統を100年以上の長きに渡り受け継いで来たことにあるのではないだろうか。

「当麻農協に掲げる北海道一の米 当麻米」

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「JAの米集積場 カントリーエレベーター」 

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(当麻のブランド今摺米)

 今まで、多くの屯田兵入植地を訪ね歩いてきた。現在も稲作の町として、畑作の町として、牧場の村として生き抜いている地では同じように屯田兵の伝統が息づいている。
 それは、新しいものへのチャレンジ精神であるように受け取った。農業は競争の世界である。より高品質のものを、より安全なものを、より多く生産しないと生き残れない世界である。これらのことは、屯田兵入植から現在へ発展する過程で物語っている。
 当麻には、永山、旭川屯田へとともに稲作にかけた開拓の歴史がある。ただ、それら2個兵村との違いは、未だに都市化の波に飲まれていないことだけかもしれないが。石狩川、久朱別川の上流に位置し清き水に恵まれたこと。当麻の地名(アイヌ語の「ト(沼)・オマ(~に入る)・ナイ(川)」)が示すように、湖沼や湿地が多く存在することもその要因に
挙げられるかもしれない。
 そのの結果が、12年連続品質全道一の評価である。
 当麻屯田兵の伝統が続く限り、その年数は積み重ねていくものと思う。いや、そうであって欲しいものである。
  
 当麻町には、大正15年に建築された旧当麻町役場の建物を活用した郷土資料館がある。収蔵している資料もさることながら、建物自体が文化財としての価値を有する。
 館で説明をして下さったのはご当地の屯田兵子孫会長をされているH氏と、当麻町郷土史研究会長をされているN氏で、この方は納内屯田兵(深川市)の子孫である。
 当麻屯田兵子孫会に入会されている子孫の方の数は120名という。入会されていない子孫の方もおられるそうなので可なりの数であるが、他の兵村と同じように3世の方は高齢化し、慰霊祭等の行事に参加される子孫の数は年々少なくなっていると言われた。

「当麻子孫会会長、当麻郷土史研究会会長」

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 (北海道屯田倶楽部の機関紙「屯田」の紹介ありがとうございます)

 一方、当麻町郷土史研究会は昭和61年に発足し26年なるという。この間に、『郷土史 礎』を4回にわたって出版され、5巻目の出版を検討されているという。市制を引く屯田兵入植地での郷土史研究会は珍しくないが、町でこのような活動をされているところはまれである。
 初代の会長が「忘れられてゆく当麻の先人達の残された功績や裏話を掘り起こし、光を当てて後世に残す資料としたい」と述べられているが、崇高なお言葉である。
 1/4世紀を経過した現在。世代交代の時期に差しかかり、求められるものが少しずつ変化しているかもしれないが、当麻の子供たちの未来のために当麻の伝統をしっかりと伝えていってもらいたいと思う。

 当麻山の南側一帯は平坦地で北海道独特の広々とした水田がひろがる。この地域は屯田兵の給与地のあった場所で、陽の光に反射し輝く稲田には20cmほどに成長した稲が、太陽の恵みを一杯に受けてすくすく育っている。
 他方、当麻山北側から当麻ダムまでの地域は戦後の開拓民が入植した場所である。ここに来ると風景は一変する。大雪山系の裾野に位置するこの地域は、北から南に張り出した丘陵の間に水田が広がり、ところどころに池沼が存在する。また、ビニールハウスの中で黒いスイカ(でんすけスイカ)が20cm位の玉に成長していた。
 この景観は、本州にある農村風景と変わらない。赤や青のトタン屋根ではなく瓦屋根であったなら、ここが北海道の水田地帯だとは誰もが思わないだろう。
 当麻とはそんな地である。

「稲作発祥の地付近の田んぼ」

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「当麻ダム付近の田んぼ」

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「デンスケスイカの栽培」

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「当麻に散在する池・沼」

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