屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ 野付牛兵村の今(平成23年)

2011-06-23 12:09:59 | 野付牛屯田兵村

<ルポ:野付牛兵村の現在>
 野付牛兵村の一区は小泉、2区は鉄南、3区は屯田、4区は三輪地区という。これは、当初からあったわけではなく昭和17年に市制が施行され野付牛から北見市へ変換。その後の北見市発展の過程で名付られたものと思うが、それぞれ特徴ある地名をつけている。1区の小泉町は初代大隊長の小泉正保、2区の鉄南とは鉄道線路の南側、4区の三輪は2代目大隊長三輪光儀、そして、3区は屯田と付けた。

 屯田兵中隊を区単位に区分し、兵村を離隔した方法は明治30年、31年のオホーツク地区に入植した屯田兵のみである。今回野付牛兵村を訪ねてみて、各区独立の気運が強いように感じた。
 入植者にとっては心のよりどころでもある神社も各区にそれぞれ存在する。1区、2区には野付牛の護国神社でもある北見神社が、3区は屯田神社が、4区は三輪神社が建立されている。各区の60戸程度世帯は丁度まとまりやすい数である。また、爾後の発展過程においても区単位で発展していったようである。

「野付牛の遠景」

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「2区鉄南の街並」

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「3区屯田の街並」

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「4区三輪の街並」

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「豊かな恵みを与えた常呂川の流れ」

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 その野付牛発展の過程であるが、鉄道駅の付近の1区、2区から発展した。3区の屯田はその後に。4区の三輪が市街地化の波に飲まれたのはごく最近の話である。その、三輪地区には入植者65戸のうち、現在も同地区に居住する直系の子孫は20戸あると聞いた。
 これは、都市化した兵村にあって非常に多い数字である。

 野付牛を含む北見盆地の3個兵村が入植したのは明治30年、31年。寒冷地での営農もある程度の軌道に乗り出した時で、稲作の試作も上川地区まで行われていた。また、北見盆地、訓子府盆地は緯度の割には比較的夏温暖な地で、日照時間も長く農耕に適した土地であった。
 絶大な権限を有する大隊長。特に2代目の大隊長三輪少佐は、いち早くこの地での稲作の可能性を見抜き、相内~野付牛~端野を結ぶ灌漑溝の建設に3個中隊全力をもって当たらせ、入植4年後の明治35年には完成させた。
 また、換金作物である薄荷栽培の成功などもあり、北見にある3個兵村は他の屯田兵と比較し営農が成功したといえる。当然、それまでにいたる苦労は他の兵村同様にあったと思われるが。

 平成23年現在で入植から114年経過した。野付牛(現在の北見市)はオホーツク総合振興局管内最大の都市で、125,000余人が居住する道内8位の人口を有する中核都市として発展した。昭和の初期まで薄荷の大産地で世界の生産量の70%をこの地で生産し、現在は全国一のタマネギの生産を誇る。地域農業の集積基地でもある。  
 そんな中にあって、野付牛兵村は離農が続いている。一番外れである三輪地区にあっても、市街地化の波に飲み込まれ、現在農地はなくなってまった。
 当地に住むもので営農を行っているのは3軒のみで、その耕作地は相内にあるという状態である。4世代目の子弟は高学歴化となり、サラリーマンとなって出て行くのが現状のようである。

「郊外型の大型店舗が並ぶ三輪地区」

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 三輪地区では、屯田兵の伝統を世代を超えて伝えていこうと、昭和53年、3世の方が中心となり入植80周年事業を大々的に行った。「三輪開拓記念碑の建立」、記念誌「八十年の歩み」の発行、入植時寺子屋形式の教育所があった場所の土地を市に寄付し、同地に保育所を設置したりもしている。
 昨今、北見市の市庁舎の移転問題が北海道の新聞紙面をにぎわせた時があった。3世の古老曰く「今ある市庁舎の敷地は屯田兵が寄付した大切な土地である。そんな事を知らない若い世代の者たちが市庁舎の移転決めてしまった」。と声を高らかに非難の声を発せられた。
 都市化する兵村で伝統を伝えていこうと葛藤する姿をこの地で見た。

「野付牛屯田兵3世と」

3


野付牛兵村の紹介

2011-06-23 12:06:56 | 野付牛屯田兵村

< 工 事 中 >

「野付牛兵村」

入植年:明治30、31年
入植地:北見市春光町(1区)、泉町(2区)、屯田東・西町(3区)、三輪(4区)
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「野付牛兵村入植配置図」「notsukeusi1.pdf」をダウンロード

出身地:31府県
入植戸数:198戸

「野付牛兵村入植者名簿」「notusukeusi2.pdf」をダウンロード
  
屯田歩兵第4大隊(1中隊:端野、2中隊:野付牛、3中隊:相内、4・5中隊:湧別で編成)
 大隊長:初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
      第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
      第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植
    第1便 武陽丸(6月2日網走港着)
         移 動:武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
            網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
    第2便 武陽丸
         移 動: 武豊(愛知県)~神戸~宇品~門司~敦賀~穴水~網走港
           網走から小舟に乗り換え網走湖を横断~中央道を徒歩で移動
    第3便 武州丸(6月6日網走港)
         移 動: 七尾~新潟~青森~小樽~網走
    入植日:6月7日

明治31年の入植    
    第1便 東都丸
         移 動: 門司~大分~三津ヶ浜(愛媛)~尾道~神戸~四日市~館山~萩浜(宮城)~網走
    第2便 東都丸(9月  網走港到着)
         移 動: 敦賀~七尾~新潟~酒田~網走

給与地:琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を4区(38戸~68戸)に区分し、各区は半密居性にした。同年に入植した端野、相ノ内、湧別もこの方法を取った。耕地とも言うべき給余地は第1次給与地として幅30間、奥行60間(1,800坪基準)、追給地は兵村の回りに約13,000坪割り当てられた。

第4大隊第2中隊
 中隊長:初 代 喜多鑑治大尉
      第2代
      第3代

野付牛兵村出身県別入植者数
 青森県   1
 秋田県   1
 宮城県   5
 福島県   7
 栃木県   1
 山形県  23
 新潟県   3
 富山県  21
 埼玉県   1
 福井県  14
 石川県  29
 岐阜県  22
 愛知県   6
 三重県   4
 奈良県   2
 和歌山県  6
 兵庫県   1
 滋賀県   1
 京都府   1
 島根県   2
 鳥取県   4
 広島県   3
 山口県   1
 香川県   2
 徳島県   2
 高知県   7
 愛媛県   3
 熊本県   3
 大分県   1
 佐賀県  12
 福岡県   9
 計 31県 198名

Ⅰ 野付牛兵村の特色
   野付牛とは「ヌプウンケシコタン」、野の端にあるの意味
1 地理的特質
(1) 常呂川沿いに細長く開けた北見盆地の中心で、常呂川とその支流である無加川、訓子府川等が集まる肥沃な地。常呂川は端野の隘路を流れオホーツク海へ注ぐ。
(2) 中野付牛(現北見の中心地)は、常呂川の支流が集まる地で、西北方が台地上の地形を形成しており、この地域の政経中枢を担う地形上の要素を満たしている。
(3) 北見盆地の気候は寒暖の差が激しく夏は温暖(平成10年8月6日37.1度を記録)、冬の寒さは厳しい。また、年間の日照時間が長いく、冬の降雪量も含め年間の降水量は少ない。
(4) 常呂川は護岸工事を行うまでは度々氾濫し暴れ川の別名をもつ。流域は肥沃な土地で作物の栽培には適する。
(5) オホーツク防衛の要点(現在自衛隊は美幌に部隊を配置している)。その際、中央道路は部隊の機動、兵站線として価値。

2 時期的特色
(1)明治24年、網走監獄の囚人達の労働によって上川から網走まで延びる中央道路が開通
(2) 明治29年、第7師団創設、屯田司令部廃止
(3)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
   (北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され,1人当たりの貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。屯田兵の入植後、多数の団体が入植した。
(4)屯田兵が入植する一ヶ月前の30年5月に高知県の北光社移民が入植した。
(5)日清戦争勝利の翌年に野付牛兵村が配置された。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて七師団旭川に移駐
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり明治35年北海道屯田倶楽部結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化
(10)明治36年屯田兵現役解除(兵役5年)、第4大隊本部も解散
(11)明治37年屯田兵条例廃止。日露戦争勃発。

3 入植者の特色
(1)全国の31県からの入植で、同時期に入植した端野、相内兵村と同一地域。石川県が29戸と一番多く、山形県23戸、岐阜県22戸、富山県21戸で北陸・東北からの入植者が多い他は数名単位で入植
(2)指導者としての士官達は、それまでの兵村で農事の経験を積み重ねていた。

4 任務上の特色
(1)オホーツク正面の防衛と同地の開拓
(2)日露戦争出征 
      名出征    戦死者  名

5 発展過程上の特色
(1)中央道路が開通する前の北見圏は陸の孤島の感があり、当時の物流は函館あるいは小樽から北は稚内を回り、東は根室を回りで回漕するという回路のみが唯一の輸送手段であった。冬流氷により阻まれた時には食料、燃料にも事欠く事態が起こった。
(2)明治24年の永山屯田兵の入植から6年、開拓も軌道にのりだした。中央道路の開通により旭川からの連絡が可能になるとともに、網走港を起点とし、同港から約50kmの野付牛まで物資の輸送が可能となった。また、網走には網走監獄が開設されており人・物の集積が図られていた。
(3)野付牛には明治30年6月の屯田への入植に先立ち、高知県人の団体「北光社」の移民(主催者の中に坂本龍馬の甥にあたる坂本直寛がいる)112戸が5月から訓子府に入植し北光社農場を開設した。
(4)和田、太田で4大隊長を経験した小泉少佐、その後、明治31年9月当麻で中隊長を経験した三輪少佐が大隊長として勤務し、的確な営農指導の元に北見の風土にあう適作農業を推し進め、北見農業発展につながる礎を築いた。
(5)全道的に大被害をもたらした明治31年9月7日の大水害に遭遇、特に第1中隊の端野は大被害を被った。常呂川沿いの農地で水没するところ多数。9月10日野付牛中央尋常小学校(現西小学校の前身)が開校。
(6)適作作物の生産
  ア 畑作
    入植初期には燕麦、麦類、馬鈴薯、きび、そば。日露戦役の終わった頃から換金作物として菜豆、鋺豆、小手亡等の豆類を主作物とした。
  イ ハッカ
    明治34年頃から試作が始まり、明治40年の作付面積は全国の80%を占め、その70から80%を北見・湧別が占める。大正期に入りその名を世界にとどろかせた。大正から昭和にかけて一時期世界の生産の7割を占めていた時もあった。ハッカ景気に沸き屯田兵の定着と北見の発展に大きな貢献をした。

  ★ 屯田兵は当時の金で2000円もする土蔵の「倉」を建てたという話がある。

  ウ 稲作
    上川、空知で既に稲作を行っていたことから強い関心があり、明治33年寺前彦太郎、寺西政吉等が発起人となり無加川水利組合を設立し稲作の試作が行われた。2代目の大隊長大隊長の三輪光儀は水利条件や耕地の状況から水田の耕作が可能と考え、明治34年~5年にかけて大規模な灌漑溝掘削事業を展開した。日露戦争への出征で一時中断したが、兵村において米の自給の体制が出来たのは大正4年頃からである。
(7)明治42年2級町村制が施行され野付牛村となる。
(8)明治44年池田~野付牛間に、大正元年に野付牛~網走間に鉄道開通。人・物の集積が行われ、北見は野付牛の中枢として発展していった。
(9)農耕の成功から定着率が高く、家族、分家等を含めるとその数は相当なものとなった。川向、緋牛内、常呂、留辺蘂へ移り住む者により地域の発展につながった。それが、開拓民の移住熱に火をつけ北見の発展に大きく寄与。
(10)大正5年町制が施行され野付牛町となる。
(11)大正10年端野村、相内村を分村。
     当時の人口
      野付牛:21,620人
      端 野: 4,764人
      相 内: 3,768人
(12)昭和17年市制が施行され北見市となる。
(13)昭和31年9月30月相内村を吸収合併、平成18年3月5日端野町を吸収合併
(14)野付牛の行政の中心を担ったのは元屯田兵であり、屯田兵の子孫である。
    明治の末までは、約80%近くが屯田兵関係者、その後町の発展とともに減少するが、屯田兵の役割は大きかった。
(15)北見屯田兵の定着率は高い。
    昭和11年で、2中隊(野付牛)62.53%、4中隊(端野)55.5%、5中隊(湧別上兵村)43.2%

6 野付牛屯田兵関係の著名人
  居串佳一(屯田兵2世):オホーツクの自然をテーマとして書き続けた画家

Ⅱ 野付牛兵村の伝統を伝える
○資料館等
  「北網圏北見文化センター」
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  「屯田兵屋(北網圏北見文化センター内)」
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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
  「北見神社」
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  「三輪神社」
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  「屯田神社」

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○屯田兵が開いた学校
  「西小学校」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
  「屯田兵人形(信善光寺)」:

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  大正12年、当時の住職であった加藤氏の母信静尼が名古屋のからくり人形師6代目玉屋庄兵衛氏経営の玉正商会を訪ねて「屯田兵とは厳寒に地でただお国のためにと大変苦労をされ亡くなった。その霊を供養し慰めるのが務めだ」といって発注。「屯田兵人形」は顔は桐材、胴体と鉄砲、台座は椹材を使用し、胴対は肩からつま先まで丸彫りし、帽子は和紙15枚を米を使った糊で重ね合わせ塗料は牡蠣の貝殻と膠を混ぜ合わせた。製作したのは名古屋の人形師木場堅治と師匠の荒川宗太郎氏
  

  「信善光寺」

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  「大隊本部の碑」

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  「大隊本部営門柱」(屯田公園内)

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  「屯田兵上陸の碑(網走ポンモイ)」
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 平4四年4月17日、屯田兵上陸の地(網走市国道244号線沿いのポンモイ海岸)に北見屯田会、端野屯田会、相ノ内屯田会の共同事業として上陸記念碑が建立された。経費は屯田兵子孫家族からの寄付をもって充てられた。
記念碑の高さ3.5m、幅2.9m、白と黒の御影石を使用。(関連記事30号)

  「北光社開拓(記念広場)」

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○屯田兵子孫の会の紹介
「北見屯田会」
 目  的:北見市屯田兵の開拓功績を永く讃えるとともに会員相互の親睦を図るものとする。
 発足の経緯:昭和10年以前に屯田兵の有志が集まり会を設立、故人の慰霊祭と屯田兵相互の親睦を目的に活動を行っていた。昭和24年になり屯田兵諸氏も高齢となり2世が跡を継ぐことになり2世会と名を改めた。昭和56年2世ばかりでなく広く3世も含めた会として発展
 活動内容:1回/3年の屯田兵上陸の地ポンモイで祖先をしのぶ行事
      毎年屯田神社で総会及び懇親行事
      屯田兵子孫会員及び家族を含めた懇親行事

 過去に行った活動:西小学校移転改築時の記念植樹
          東陵運動公園の植樹
          屯田墓地の緑ヶ丘霊園移転敷地料の負担
          北見屯田太鼓購入時の寄付
          昭和56年(85周年)記念事業のひとつ馬堀画伯の肖像画制作協力
          屯田兵上陸の地(網走ポンモイ)に記念碑建立事業に協力

 会  員:3世を中心に116名


ルポ:湧別兵村の今(平成23年)

2011-06-23 11:02:14 | 湧別屯田兵村

<ルポ:湧別兵村の現在(平成23年6月)>
 5月の連休を過ぎる頃になると、新聞の紙面にチュウリップの開花情報を『チュウリップの里』とよばれる上湧別の花の写真とともに紹介される。
 そんな、チューリップの里で有名になった上湧別兵村。

「チュウリップの里」

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上湧別は、今尚屯田兵の面影を色濃く残す兵村である。りんご、薄荷の栽培等、入植後の営農にも成功し土着する者が多く、その後も農業を中心に発展を遂げている。
 このように入植後早い時期から営農が軌道に乗り、現在に至るまで農業一筋に発展を遂げている兵村はまれなケースで、これが、これから説明する現在の上湧別屯田兵村の特色に現れているものと思われる。

 屯田兵が入植した1区、2区、3区と地名のつく地区にあっては、住人の殆どが屯田兵関係者で占められているところもある。今、1区、2区と言う地名を使ったが、これも珍しく。未だに4-1区、5-2区と言う地名が通用し(これは4中隊1区、5中隊2区の意味)、地図にも北兵村、南兵村と記されている。

「南1区の遠景」

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「南2区」

「南2区の家並み」

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「南3区の農作業」

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「北1区の玉ねぎ畑」

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「北2区の遠景 五箇山から」

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「北3区の牧場」

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「豊かな恵みを与えた湧別川の流れ」

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 上湧別兵村を訪ねて一番感じたことは、屯田兵の伝統を後世に伝えていこうという取り組を鋭意進めていることと、住民のチャレンジ精神である。
 その一端を紹介しておこう。
 屯田兵の伝統を後世に伝えていこうという活動であるが、湧別町には人口1万人の町には似つかわしくない壮大な建築物である博物館『JRY』がある。補助金で箱物を作る自治体の悪評をよくマスコミに取り挙げられるが、ここで話したいのは、逆にその施設を有効に使った伝統継承の活動である。
 『湧別町ふるさと館JRY』の付帯施設として体験用の屯田兵屋が建っている。ここ上湧別では、本館とこの屯田兵屋を使った体験学習を年間通して行っている。その主対象は湧別町にある小、中、高校生であるが、他に網走管内の先生方、PTAの方等にも明治開拓時代の衣・食・住の体験学習(研修)、さらには子供たちに対し宿泊体験、町内めぐり等の学習支援活動を行っている。もう6年近く行っているというが、その成果は着実に実りつつあるという。
 これに近い体験型の学習は他の博物館でも行われていると思うが、それを、郷土の歴史と伝統継承に結び付けているのはここだけであるように思う。

「体験学習用兵屋」

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 では、同じ様な試みを他の市・町で行った場合はどうだろうかと考えたときに、成功の確率となると疑問符がつく。
 湧別町の行うこの試みがなせるのは、屯田兵とその子孫たちが培ってきた農民としてのチャレンジ精神であるように思う。入植直後にりんごの栽培を手がけ成功を収め、さらには換金作物としての可能性を秘めた薄荷栽培に挑戦しこれまた成功。その後、小麦、豆類、甜菜、玉葱等次々と新しい作物に挑戦した気概が前を向いて進む上湧別の町民性を生み出したのだろう。

 湧別町文化センターTM前には「屯田兵が拓いたチューリップの里」と書いた大きなディスプレーが掲げてある。
 上湧別のチュウリップの栽培は、輸出作物としての外貨獲得のため昭和32年から始まった。しかし、10年も経たない間に大きな成果を得ないまま衰退してしまった。
 そんな時に始まったのが老人達のボランティア活動で、現在のチューリップ公園で栽培が細々と行われ出した。約10年の歳月をかけてその成果が身を結び。今では毎年10万人の観光客を呼び寄せる全国的にも名の知れたイベントに成長している。
 これらが、屯田兵の入植から幾多の困難を克服し、小さいながらも農業を中心繁栄してきた上湧別兵村の伝統である。

「チュウリップの里ディスプレー」

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 子供たちに体験学習を通じ、上湧別の伝統を伝える活動に携わる湧別町博物館JRYの学芸員であるN氏から、こんな言葉を聞いた。「子供たちには開拓時代の苦労話を伝えるのではなく、開拓者はすぐれたい人間であった。この地を切り開き生き抜いた人達はすばらしい人達だ。誇りと希望を持ち、前を向いて進む人間。そんなことを伝えたいと思っている」

 文中、上湧別兵村のことを説明するのに湧別町、上湧別と言う2つの地名を使ったが、実は上湧別町と湧別町が平成21年に合併し湧別町となっている。町・村合併はその土地の伝統継承を困難にし、場合によっては、そのものを消滅させる可能性を持っている。
 新しい湧別町で行っている今記した取り組みは、この危険を遠ざけるものであることは確かである。

「新生湧別町役場」

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 湧別の子供たちの中から、新しいチャレンジャーが生まれてくることだろう。
 その子供たちが湧別町の伝統を継承し、次の時代へと伝えていく。


湧別兵村の紹介

2011-06-23 10:51:47 | 湧別屯田兵村

< 工 事 中 >

「湧別兵村」
入植年:明治30、31年
入植地:上湧別町南兵村1~3区、北兵村1~3区
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「北上湧別兵村入植配置図」「kitakamiyubetsu1.pdf」をダウンロード

「南上湧別兵村入植配置図」「mimamikamiyubetsu1.pdf」をダウンロード

出身地:35府県
入植戸数:399戸

「北上湧別兵村入植者名簿」「kitakamiyubetsu2.pdf」をダウンロード

「南上湧別兵村入植者名簿」「mimamikamiyubetsu2.pdf」をダウンロード
  
屯田歩兵第4大隊
大隊長: 初 代 小泉正保少佐(和田・太田の4大隊長から赴任)
      第2代 三輪光儀少佐(元当麻兵村の中隊長 水稲の将来性を見込む)
      第3代 徳江重隆少佐

明治30年の入植(6月7日)
      便船: 武州丸(5月25日湧別海岸上陸)
      航路: 七尾~新潟~青森~小樽~網走港

明治31年の入植(9月)   
      第1便: 東都丸
               航路: 門司~多度津(愛媛)~尾道~神戸~大阪~四日市~萩浜(宮城)~網走港
      第2便: 東都丸
               航路: 敦賀~七尾~新潟~酒田~網走港

給与地:琴似兵村以来の密居性を取る。中隊を3区(各区65~70戸)に区分し、各区は半密居性にした。同年に入植した、端野、相ノ内、湧別もこの方法を取った。耕地とも言うべき給与地は、第1次給与地 幅30間、奥行60間(6反 1,800坪基準)、第2次給与地は兵村の周りに4町4反約13,000坪割り当てられた。

北湧別兵村
屯田歩兵第4大隊4中隊
中隊長:初 代:八田大尉(   ~   )
     第2代:      (   ~   )
     第3代:      (   ~   )

出身県別入植者数
 福島県  15
 広島県   1
 岐阜県  17
 福井県   8
 三重県  14
 島根県   1
 新潟県   5
 宮城県   7
 山形県  17
 熊本県  24
 秋田県   2
 愛媛県   6
 和歌山県  3
 岡山県   3
 石川県   9
 佐賀県   3
 富山県   5
 鳥取県   5
 愛知県  36
 兵庫県   2
 千葉県   1
 山口県   2
 香川県   4
 福岡県   3
 奈良県   1
 青森県   1
 高知県   1
 岩手県   1
 徳島県   2
 29県 199名

南湧別兵村
屯田歩兵第4大隊4中隊
中隊長:初 代:内海大尉(   ~   )
     第2代:      (   ~   )
     第3代:      (   ~   )

出身県別入植者数
 山形県  19
 福島県  13
 奈良県   1
 鳥取県   9
 岐阜県  19
 三重県  15
 石川県   9
 佐賀県   2
 高知県   2
 熊本県  19
 富山県   4
 岩手県   2
 千葉県   1
 福井県   4
 埼玉県   1
 兵庫県   1
 秋田県   2
 岡山県   2
 新潟県   6
 愛媛県   4
 宮城県   1
 愛知県  35
 宮城県   9
 京都府   1
 香川県   5
 長崎県   3
 広島県   1
 山口県   1
 福岡県   1
 佐賀県   1
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 和歌山県  2
 34県 200名

Ⅰ 湧別兵村の特色
   湧別の由来は「ユペ」アイヌ語で鮭を意味し、昔湧別川河口から近海にかけて多くの鮭がいたことから名付けられた。
1 湧別の地理的特質
(1)北大雪を源とする湧別川の沖積土壌流域延長約13kmと、それに連なる河岸段丘で幅8kmの肥沃な平野。
(2)高緯度ではあるものの夏の日照時間が長く比較的高温になることも多い。気候はかなり安定。(士別とほぼ同緯度)
(3)河川の低地に接していたため、春の融雪期や大雨の時には洪水に見舞われた。
(4)湧別港から兵村の中心(中隊本部)まで約10kmと近く、流通面で有利。
(5)気候風土も安定し海の幸、山の幸に恵まれた。
(6)北兵村と南兵村では地質が違い、北兵村の高台の土地は重粘土質で耕作不適地であった。
(7)北見(野付牛)をオホーツク正面防衛の主力ととらえた場合、湧別はその前衛。

2 時期的特色
(1)明治24年上川から網走まで延びる中央道路が開通。
(2)明治29年第7師団創設、屯田司令部廃止。
(3)明治30年「北海道国有未開地処分法」が公布。
   (明治19年に施行された北海道土地払下規則に代わるもの「無償貸し付け・成功後無償付与」の考えのもと、1人当たりの貸し付け面積の上限(一人に付き開墾の土地は150万坪、牧畜には250万坪、植樹には200万坪、会社や組合には2倍まで)が大幅に引き上げられた。その結果、多数の団体が入植した。
(4)先住者の経験を取り入れた営農計画も立ち、管理も整って画期的な農事経営へと進みつつあった時期。
(5)日清戦争のその勝利の翌年に配置。
(6)明治31年北海道全域に徴兵令が施行。
(7)明治32年旭川の鷹栖に第7師団設置を決定、明治33年~35年にかけて第七師団が旭川へ移駐。
(8)明治34年北海道会法、北海道地方費法公布に伴うところの屯田兵給与地に対する課税問題が持ち上がり明治35年北海道屯田倶楽部が結成される。
(9)各地で米の生産が開始され一部商品価値化。
(10)明治36年屯田兵現役解除(兵役5年)、第4大隊本部も解散。
(11)明治37年屯田兵条例廃止、同年日露戦争勃発。

3 入植者の特色
(1)全国の35県からの入植で、南・北湧別兵村の入植者は同一地域。愛知県が71戸と一番多く、熊本県43戸、岐阜県36戸、山形県36戸、三重県29戸、福島県28戸と多い。北見の3個兵村は東北・北陸が多いのに比較し、中部、西南地域からの出身者が割合い多い。
(2)指導者としての士官達は、それまでの兵村で農事の経験を積み重ねていた。

4 任務上の特色
(1)オホーツク湧別地区正面の防衛と湧別平野の開拓
(2)日露戦争
    32名戦死41名負傷

   ★戦後の悲劇
    召集解除を受け湧別兵村に帰宅途中の佐藤藤作は、北見峠付近で遭難(湧別ふるさと館JRYの資料にあり)

5 発展過程上の特色
(1)明治24年の中央道路の開通、永山屯田兵の入植から6年、内陸部の開拓も軌道にのりだした時期で、旭川からの連絡が可能になるとともに、湧別港まで10mと近く物流が容易なことから発展の可能性を秘めていた。
(2)明治30年の入植時、兵屋が未完成で柱と屋根だけと言う兵屋もあり、直ぐに開拓に着手出来なかった。
(3)大隊長は、初代小泉正保少佐(元和田、太田の大隊長)、2代目三輪光儀少佐(元当麻の中隊長)で、的確な営農指導のもとに湧別の風土にあう適作農業を推し進め、湧別農業発展につながる礎を築いた。
(4)全道的に大被害をもたらした明治31年の大水害に遭遇。
(5)明治43年湧別村分村。
(6)大正5年湧別線(昭和61年廃線)、大正10年名寄線(平成元年廃線)が開通し物流が飛躍的に拡大。
(6)昭和28年分村し、下湧別村が湧別町に、上湧別村が上湧別町に。
(7)適作作物の生産
  ア 入植2年目の31年にりんごの苗木5000本を植え付け、明治40年頃から収穫を見る。りんご栽培で成功。
    薄荷の試作は明治29年に行い、北見薄荷の基礎を築いた。その後、稲作に着手するも、下湧別では酪農へ、上湧別は畑作へ切り替える。現在ホワイトアスパラの生産は日本一。
  イ 稲作
    明治31年、南兵村2区の菊池勤が郷里の福島から早生種を取り寄せ栽培を試みる。明治33年中隊本部で種籾を無料で配布し試作。その後、潅漑溝の掘削し造田。明治35年の大冷害で失敗に終わるも、解隊後も試作を続け成功に結びつける。
  ウ 薄荷
    一般入植者によって試作され、その後、換金作物として明治34~35年頃から栽培をされるようになる。
  エ 澱粉
    馬鈴薯から澱粉を作るようになったのは明治33年頃。
  オ 大正7年ビートの試作
(8)平成21年湧別町と合併
(9)農耕の成功から定着率が高く、家族、分家等を含めるとその数は相当なものとなる。
(10)チューリップの里をキャッチフレーズに地域の振興

6 上湧別屯田兵関係の著名人
  庄田満里:中隊本部の看護卒として医務室に勤務。後備役になると兵村に医師がいなくなることから、明治34年東京慈恵医学院に派遣され医師免許を取得し帰村。北湧病院の医師として勤務。村民から「庄田先生に診療を受けて死にたい」と言われるほどに慕われた。

   ★明治32年北海道毎日新聞記者のレポート「屯田10号に掲載」
    「北湧別尋常小学校は300~400人入るに足りる。帰宅時間の下校風景は黒山を築くが如く」「・・・・・ほとんど内地農村の観を呈する」「電信架設中」

Ⅱ 湧別兵村の伝統を伝える
○資料館等
  「上湧別ふるさと館JRY(平成8年完成)」

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 「JRY」とは
  J Joint(結びあう)Jewel(宝物)、R Roots(祖先)Record(記録)、Y Yubetsu Farmer Soldier(湧別屯田兵)
  湧別屯田兵の開拓期をイメージし、豊かな自然を木造部分で、平野となだらかな山並みを全体の曲面・曲線で、また、林立するコンクリートの柱は、自然に加えられた人々の手を象徴

  「屯田兵屋」(博物館内)

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○屯田兵関係の催し
  とんでんまつり(9月) 
○屯田兵ゆかりの学校
  「上湧別小学校」

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○ゆかりの神社
  「上湧別神社」

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○今に残る屯田兵の踏み跡
  「屯田兵の肖像画(馬堀法眼画伯作)」
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  「湧別原野入植者上陸の地」

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  「第4大隊第4、5中隊本部跡」

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  「リフォームされ今も使用されている屯田兵屋」

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○屯田兵子孫の会の紹介
 名称:屯田会
 経緯:昭和4年に、屯田戸主会として南北兵村にそれぞれ設立され「上湧別村将来の発展を期し子孫百年の長計を画するため、諸般の事項を協議しその執行者の意見を開陳することにある」をうたった。その後、この活動通じ、開拓者精神を子孫に伝えたいとの思いから昭和32年に「屯田家族会」を結成し活動を継続してきたが、戸主の減少により戸主会を解散し昭和52年、屯田兵2世を中心に湧別屯田会として結成した。平成22年湧別町と合併を期に屯田会と名称を変更
 目的:湧別屯田兵とその家族の苦労をしのび、その偉業を永く後世に伝えるとともに会員相互の親睦を図る。
 行った事業:昭和53年会員全員の寄付と町費により屯田兵の肖像画を作成し資料館に寄贈
 会員:157名(平成22年現在)

○その他
  平成13年、平成14年「フォーラムを開催」
   第1回テーマ「      」
   第2回のテーマ「屯田兵を伝える」


ルポ:士別兵村の今(平成23年)

2011-06-23 08:48:37 | 士別屯田兵村

<ルポ:士別兵村の現在(平成23年6月)>
 士別を訪ねた平成23年の春、士別市郷土博物館はリニューアルされており、明るい雰囲気になっていた。
 このリニューアルをするきっかけとなったのは、館内の照明が薄暗く展示物を気味悪く思う子供たちがいることらしい。展示してある野鳥の剥製はさほどではないが、熊の剥製は明るくなった今でもあまり気持のいいものではない。そんなことを話題にしながら博物館を見学した。

 残念かな、屯田兵の歴史についての資料は博物館にそれほど残っていなかった。屯田兵入植当時の情景を写した写真も士別市には無く、北海道大学の北方資料室に保管されていると言う。
 予想するに、その理由の大きなものとして、士別屯田の置かれた状況にあったのではないだろうか。現役終了の年に日露戦争が勃発し出征。現役5年間は公共事業と勤労奉仕に明け暮れ自らの土地を省みる余裕が無かった士別屯田兵。給与された土地に恵まれず。土地の優位さから後に入植した上士別、多寄の開拓団の力に押されていった。また、その後の士別発展の中心は、中隊本部等のあった番外地からではなく、さらに南寄りの鉄道駅周辺に移っていった。そんなことから、屯田兵の入植地が疲弊し、屯田兵達の主導権が逐一失われていったのかも知れない。
 士別屯田兵関連資料を散逸させた要因はそんなことからではないだろうか。

「士別兵村の配置図」

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「士別団体入植者配置図」

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「北町付近の給与地の今」

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 (士別屯田兵に給与された土地で、天塩川と剣淵川が合流する地点にある。)

 昭和の20年代には『九十九会』という2世を中心に屯田兵関係者で作る会があったらしいが、7年間の活動を最後に解散してしまったという。
 現在士別には郷土史研究会がある。その名を『士別市郷土史研究会』呼び。昭和32年に設立され45年の伝統を誇る。『士別よもやま話』等の郷土史資料の出版、博物館展示物資料の作成などの数々の事業を手がけ士別市の郷土史の掘り起こしと、収集・整理、啓蒙活動につとめている。会員は士別だけではなく札幌にも多く在住し「札幌士別会」も立ち上げて広く活動を展開している。
 今思えば、『九十九会』が、現『士別市郷土史研究会』へ発展的に移行していってくれたならと思う。

 士別屯田兵は現役満了後何処へ行ってしまったのだろう。
 昭和11年に調査した資料によると、町内に居住する者39戸、屯田兵以来の家屋に留まる者9戸とある。以外に多い数字である。町内に残る39戸の数字のうち、駅周辺で新たな事業を起こした者や、給与地や周辺の地区へ移転し農業をやっている者もいるのではないだろうか。4世、5世の時代に入ってきている現在、自分が屯田兵の子孫であると認識している人は少ない。分家しこの地域に残る人の数を数えるとかなりの数に上るはずである。残念かな個人情報のうるさい現在にあっては足取りを辿ることはできない。
 昭和  年の新聞記事に「士別屯田兵 足跡調査など難航」と言う見出しで、士別市郷土博物館で士別の開発に携わった屯田兵に関する資料の収集に努めているが、その収集に難航を極めていると記されていた。
 士別を去る日、2年前に東京から故郷の士別市に戻ったという屯田兵子孫の方から話を伺う機会を得た。その氏曰く「祖先である屯田兵の踏み跡を調べたいと思っている。学生時代の昭和30年頃のまで士別に住んでいたとき、近所に数人の屯田兵子孫の人もいた。今、その人達は何処にいるのだろう。人づてに調べていこうと思っている」。と話された。
 新しい動きである。そんな人達の輪が大きくなることを期待したい。

 以外であると思うかもしれないが、士別市は一時期50万俵もの米を生産し、全道一の米処としてその名をはせた時もあったという。天塩川流域に広がる広大な農地には田・畑がひろがり、東西の丘陵地には家畜のむれが草をついばむ姿がある。
 士別を紹介する士別市要覧によると、士別開拓の歴史は明治32年の屯田兵入植により始まり、現在は羊と雲の丘「サフォークランド」、スポーツ選手の「合宿の町」、積雪寒冷地の特性を生かした「自動車等試験研究」等を目玉とし、自然との調和が取れた町づくりを目指しているようである。
 「サフォークランド」のある剣淵川西側に広がる丘陵は牧歌的で、また、その高台から眺める士別盆地の遠望は疲れた心を癒してくれる。そんな、丘陵地の南側にある博物館近くの森では合宿中のランナーが林間を走行していた。

「サフォークランドの羊たち」

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「サフォークランドから士別市街を眺める」

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 士別は昭和29年の士別町、上士別村、多寄村、湯根別村の合併により市制を施行した。さらには、平成17年の朝日町との合併により新生士別市として歩み始めている。
 屯田兵とその後に入植した人達により築かれた士別の地。緑豊かな自然と農地。そして、その地に住む開拓者の子孫が、来訪する人々をやさしく包み込む。

「士別、剣淵の水瓶である岩尾内ダム」

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「天塩川上流の流れ」

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「室蘭輪西屯田兵の給与地 武徳」

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「士別神社から市街地方向」

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