「永山兵村」
入植年:明治24年7月(6月17日~7月1日)
入植地:旭川市永山町
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出身地:東北、四国、九州中心を12県
入植戸数:400戸
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第3大隊
大隊長 初 代 和田正苗少佐(明治24年6月~)元根室和田(根室)太田(厚岸)大隊長
第2代 渡辺水哉大尉(明治27年6月~)日露戦争において歩兵第25聯隊を指揮
第3代 津田教修大尉(明治29年1月~)
第4代 平賀正三郎少佐(明治31年9月~)後の剣淵・士別の大隊長
移 動
便 船:第1便 日の出丸(2000トン)
経 路: 神戸~萩浜(宮城)~小樽
入植日:6月17日
第2便 金沢丸(2000トン)
経 路:田辺(和歌山)~三番湊(岡山)~博多~小樽
入植日:7月1日
小樽からの移動:無蓋列車で空知太(滝川)泊。滝川から徒歩移動で深川の音江の駅逓(音江法華)泊、忠別太(忠別分監)泊。4日目に永山兵村到着。
給与地:当初1町5反歩、追給地3町5反歩
「永山西兵村」
部隊名:第3大隊第1中隊(明治27年予備役になり5中隊)
中隊長: 初 代 ( ~ )
第2代 ( ~ )
第3代 ( ~ )
出身県別入植者数
新潟県 1
愛知県 1
兵庫県 36
和歌山県 39
岡山県 40
徳島県 83
計6県 200名
「永山東兵村」
部隊名:第3大隊第2中隊(明治27年予備役になり6中隊)
中隊長: 初 代 ( ~ )
第2代 ( ~ )
第3代 ( ~ )
出身県別入植者数
宮城県 46
山形県 42
新潟県 22
徳島県 30
高知県 37
鹿児島県 23
6県 200名
Ⅰ 永山兵村の特色
「永山」の地名は屯田兵の創設と上川開拓に功績のあった永山武四郎(2代目北海道長官、初代第七師団長)にちなみ命名。
1 永山の地理的特質
(1)北海道のほぼ中心に位置する上川には、北海道の3大大河である石狩川、天塩川、十勝川の源流が集まる大雪山系があり、それらの支流を含めた川筋を進めば四周の枢要な地へ向かうことが可能。
(2)上川盆地は永山を中心として四周に広大な農耕可能地が広がっている。
(3)永山は石狩川と牛朱別川に挟まれた肥沃な低地で、牛朱別川が度々氾濫し甚大な被害をもたらした歴史がある。(牛朱別川を直接石狩川に結ぶバイパス水路として、永山新川が平成16年に20年の歳月をかけて完成し洪水の心配は無くなった。)
(4)入植地は樹林が少なく開墾容易な地であった。
(5)上川盆地の中心で、上川屯田3個兵村のトライアングルの中心に位置する。
(6)気候は内陸性で夏は本州を思わせるほど暑く、冬は厳寒で降雪量も多い。(因みに過去日本で最低気温を公式記録したのは旭川で41.0C 明治35年1月25日で、この時、八甲田山で第8師団歩兵5連隊(青森)の遭難事故がある。)
2 時期的特色
(1)明治18年、時の司法大輔であった初代北海道長官岩村通俊と当時屯田本部長であった永山武四郎らが近文山に登り上川開発を発意。「北京を上川に置く儀」を上申した。
(2)上川開発の準備
・明治19年、忠別太に農作試験所(後に上川農事試験場と改称)を建て、麦、雑穀、野菜類を試作し上川における農耕の適否を調査。
・明治21年、忠別太に測候所、忠別川、石狩川合流点に水測所設置。
・明治22年上川道路の開削。
(3)明治21年、米、露、清国を視察後、翌明治22年2代目長官に就任した永山武四郎は屯田兵20個中隊増強計画を建議。さらに、「北京を置き、上川離宮造営設定」を建議し神楽に10,500haの御料地を設定、上川の開発を鋭意進める。
★永山武四郎の論
「本道の開拓は内部よりせねばならぬ。ことに上川地方の開拓を以て急務とする。海岸地方のごときは従来方針によって間接に指導誘掖すればよい」
(4)明治23年の屯田兵条例の改正ほか多数の法令・規則の改正があり、屯田兵制度が明治8年の琴似屯田兵入植から15年の歳月をへて確立される。
(5)明治24年、旭川から網走に抜ける中央道路が開通。
(6)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(7)明治28年、後備役で日清戦争に動員(東京待機で終戦)
(8)明治29年、永山武四郎第七師団長に就任。
(9)明治31年兵役満了(現役3年、予備役4年)。同明治31年、札幌から旭川まで鉄道が開通。さらに明治32年和寒まで、明治36年士別まで鉄道が開通。
(10)明治33~35年旭川に第7師団移転。
(11)明治38年、後備役として日露戦争出征。
3 入植者の特色
(1)全国10府県からの入植で、徳島県が113戸と一番多く、その他は40戸前後。
(2)東西の兵村では入植者に特徴があり、東兵村は東北からの入植者と南国の入植者が、西兵村は近畿、四国、中国地方出身者が中心。
(3)士官の中には琴似、山鼻に入植し、札幌農学校で西洋式農業の教育を受けた者がいた。
4 任務上の特色
(1)上川地区の開拓及び警備
(2)訓練は午前中が中心で、午後から開墾を行った。また、一年目の冬は当麻兵村建設のため建築材料確保等木の伐採を行い訓練に代えた。
(3)27年7月1日、3年の現役を満了したが、日清戦争前夜で、現役以上の訓練を行った。明治28年の日清戦争に出征(東京待機)。
(4)日露戦争出征
298名出征、戦死者33名
5 発展過程上の特色
(1)入植した当時、忠別太(現在の旭川の中心地)はまだ発展していなく、上川の開発は屯田兵が入植した永山地区からである。
(2)永山屯田兵が入植した明治24年、神居村、旭川村、永山村を包括する戸長役場が第3大隊本部に設置された。
(3)永山屯田兵入植2年後の明治26年に永山村字トオマに当麻屯田兵が入植。(当時、当麻は永山村内にあり、永山兵村と当麻兵村は関係が深い。)
(4)当初は、畑作で色々な作物(麦、豆、麻、野菜、薄荷等)を作り、畜産・養蚕などを行っていた。地味が肥え上川3個兵村の中で一番土地の条件は良かった。しかし、上川には収穫した作物の販路が無く、現金収入を得ることはできなかった。(札幌から上川まで鉄道が延びたのは明治31年であり、それまでは、馬車による移動であり輸送経費がかかった。)
給与米だけでは主食に事欠き。芋、雑穀主体の食生活をせねばならず。給与米が途絶えた現役終了後の生活は困難を極めた。また、稲藁がないため(わらじ、つまご、わら靴、ぞうり、雨具みの、かます、むしろ、縄等)の材料に困った。それらは、稲作へ望みをかけることにつながった。
(5)上川の水田発祥
明治24年 神居村で杉沢繁治が1斗5升収穫。
明治24年 永山村の加藤米吉他1名が試作をしたが未熟。
明治25年 永山村の石山伝右衛門が山形県より赤毛種を取り寄せ試作し2合の収穫。
明治25年 戸長の本田親美と大隊長の和田正苗が、道庁から種子の斡旋を受け山口千代吉に明治米の試作を行う。加藤徳太郎の父米作(庄内藩)が管理に当たる。20余束収穫。和田隊隊長はこの成果を受け稲作を奨励するようになった。
明治26年 作付け面積3.2町歩、明治32年27町歩、明治35年に一気に増え232町歩となった。
当初上川米は劣等(札幌圏米10円57銭に対し上川米8円97銭)との評価を受けていたが、大正10年頃には逆転(札幌米26円75銭に対し上川米27円35銭)した。
稲作は凶作、冷害、自然との闘いでもあり、明治35~38年、大正2年、昭和6~10年、昭和20年、昭和30年は冷害で大きな被害を受けた。
(6)米どころ永山の衰盛
ア 日清戦争2年後の明治31年、後備役となると転住、転業が可能となるので、一攫千金を夢見、あるいは借金で身動きが取れない者は土地を売り(当時の永山は兵屋つきで300円から500円)、新天地を求め、兵村を去る者が出てきた。
イ 稲作は収入が多いことから畑作から稲作へ転換する者が増え、兵村公有財産取扱委員会で1,200町歩の造田計画が持ち上がった。
ウ 35年から行われた潅漑溝掘削工事代金の支払いに行き詰まり、全ての公有地を売却せざるを得なかった。
エ 残った屯田兵にあっても明治41年、42年の不作で土地を売るものが続出。全村の60%が不在地主で占められた。永山では土地の売買が盛んとなり小作人が増大。居住者の入れ替わりも激しく、土地に対する愛着、農業への意欲も衰え開村以来の窮乏に陥った。この当時、永山は北海道一の貧乏兵村といわれた。
オ この窮乏を救ったのが美瑛村から永山村へ明治44年に赴任した清水涼村長と収入役(農会長)の森谷嘉七で、この時の永山は畑、水田半々の状態であったが、収益の高い稲作一本に切り替えようと石狩川、牛朱別川から導水し2,200町歩の造田計画を立ち上げた。
カ 寒冷地北海道における稲作を定着させるきっかけを作ったのが直播機「タコ足」(明治38年発明)である。手播きの15倍の能率を上げ、北海道だけではなく東北、朝鮮にまで普及した。それと、もう一つは「カラカサ馬廻し機」である。それまでの脱穀は「千把」称する手こきであったが、作業能率を高め、米の収穫・販売時期を早めるなど農家の経済上貢献するところが大であった。「カラカサ馬廻し機」は後に発動機が普及する昭和の始めまで使用された。
哀れかな、「永山の米は北海道一美味しい米」と評価を受けた時には、屯田兵の多くが離村しており、果実の多くはその後に入植した人達により受け継がれた。
(7)上川の中心として栄える
明治24年から31年ころまでは旭川に有力な商人が少なかったことから、永山番外地に住む商人が鷹栖、比布、愛別、当麻、東旭川の各村を商圏に収めていた。一時期永山が上川繁栄の中心として栄えた時期もあり、永山では競馬も盛んに行
われた。
(8)軍都旭川として発展
第七師団は、明治33年~35年にかけて札幌から旭川へ移駐した。このことは、大きな消費物資が必要となり、それまで販路が無く現金収入の不足を来していた屯田兵及び一般入植者に大きな恩恵をもたらし旭川の発展に大きく寄与した。現在人口35万人を有する北海道第2の都市旭川の基礎を築いた。
(9)明治37年、永山村から独立し当麻村が分村(現在当麻町)。昭和36年に永山町は旭川市に吸収合併。
★(北海道農事試験場上川支場)
前身は忠別農作試験所(明治19年)。その後、上川農事試作場(明治22年)~北海道庁地方農事試験場(明治34年 旭川6条11丁目へ移転)~北海道上川農事試験場(明治41年 永山兵村元練兵場)~北海道農事試験場上川支場(明治43年)に。
各屯田兵村で稲作の試作に成功したことから、明治29年から官業で稲作の試験が行われ、大正8年には坊主1号が優良品種として発表された。
6 永山兵村の著名人
永山武四郎
「永山武四郎の像」(永山神社)
旭川市が管理する博物館で、ここに陳列されている屯田兵関係の資料の多くは永山屯田兵のもの。
自衛隊旭川駐屯地が管理する博物館で、旧七師団関係の資料を展示。一部屯田兵関連も展示。
「川のふるさと館さらら(正式名称:永山新川管理センター)」
旭川開発建設部が管理する記念館で2階フロアに永山屯田兵関連のコーナーがある。
○屯田兵関係の催し
「屯田まつり」
○ゆかりの神社
「永山神社」
岩村通俊以下が近文山に登り「上川に北都を置くべし」とい言った場所
「上川水田発祥の地」(永山神社境内)
○屯田兵子孫の会の紹介
「永山屯田会」
目 的:屯田開拓家族の親睦(土着心を養う)を図る。
発足の経緯:昭和7年6月2日、大道寺住職安川温宗、屯田兵岸田兵次郎が発起人となり永山屯田会を創設。
昭和24年2月1日「二世会」を結成。以降、二世の会員も高齢化し会員が減少してきたことから、会員の幅を三世又は直系でなくとも本会に賛同する者を会員とした。
活動状況:水田発祥の碑(昭和27年)、屯田歩兵第3大隊本部跡碑(昭和43年)、永山屯田百年記念碑建立
会 員: 永山屯田縁故者を以て本会に賛同する者により組織する。