屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

永山兵村の紹介

2011-05-30 21:03:19 | 永山屯田兵村

< 工 事 中 >

「永山兵村」
入植年:明治24年7月(6月17日~7月1日)
入植地:旭川市永山町

  Photo_15
   
「永山東兵村入植配置図」「nagayamahigasi1.pdf」をダウンロード

「永山西兵村入植配置図」「nagayamanisi1.pdf」をダウンロード

出身地:東北、四国、九州中心を12県
入植戸数:400戸

「永山東兵村入植者名簿」「nagayamahigasi2.pdf」をダウンロード 

「永山西兵村入植者名簿」「nagayamanisi2.pdf」をダウンロード

」をダウンロード

   
  
第3大隊
大隊長 初 代 和田正苗少佐(明治24年6月~)元根室和田(根室)太田(厚岸)大隊長
            第2代 渡辺水哉大尉(明治27年6月~)日露戦争において歩兵第25聯隊を指揮
     第3代 津田教修大尉(明治29年1月~)
     第4代 平賀正三郎少佐(明治31年9月~)後の剣淵・士別の大隊長
移  動
便  船:第1便 日の出丸(2000トン)
     経 路: 神戸~萩浜(宮城)~小樽
    入植日:6月17日   
    第2便 金沢丸(2000トン)
    経 路:田辺(和歌山)~三番湊(岡山)~博多~小樽
    入植日:7月1日
      小樽からの移動:無蓋列車で空知太(滝川)泊。滝川から徒歩移動で深川の音江の駅逓(音江法華)泊、忠別太(忠別分監)泊。4日目に永山兵村到着。

給与地:当初1町5反歩、追給地3町5反歩

「永山西兵村」
部隊名:第3大隊第1中隊(明治27年予備役になり5中隊)
中隊長: 初 代      (   ~   )
      第2代      (   ~   )
      第3代      (   ~   )
出身県別入植者数
新潟県   1
愛知県   1
兵庫県  36
和歌山県 39
岡山県  40
徳島県  83
 計6県 200名

「永山東兵村」
部隊名:第3大隊第2中隊(明治27年予備役になり6中隊)
中隊長:  初 代      (   ~   )
       第2代      (   ~   )
       第3代      (   ~   )

出身県別入植者数
宮城県  46
山形県  42
新潟県  22
徳島県  30
高知県  37
鹿児島県 23
 6県 200名

Ⅰ 永山兵村の特色
  「永山」の地名は屯田兵の創設と上川開拓に功績のあった永山武四郎(2代目北海道長官、初代第七師団長)にちなみ命名。
1 永山の地理的特質
(1)北海道のほぼ中心に位置する上川には、北海道の3大大河である石狩川、天塩川、十勝川の源流が集まる大雪山系があり、それらの支流を含めた川筋を進めば四周の枢要な地へ向かうことが可能。
(2)上川盆地は永山を中心として四周に広大な農耕可能地が広がっている。
(3)永山は石狩川と牛朱別川に挟まれた肥沃な低地で、牛朱別川が度々氾濫し甚大な被害をもたらした歴史がある。(牛朱別川を直接石狩川に結ぶバイパス水路として、永山新川が平成16年に20年の歳月をかけて完成し洪水の心配は無くなった。)
(4)入植地は樹林が少なく開墾容易な地であった。
(5)上川盆地の中心で、上川屯田3個兵村のトライアングルの中心に位置する。
(6)気候は内陸性で夏は本州を思わせるほど暑く、冬は厳寒で降雪量も多い。(因みに過去日本で最低気温を公式記録したのは旭川で41.0C 明治35年1月25日で、この時、八甲田山で第8師団歩兵5連隊(青森)の遭難事故がある。)

2 時期的特色
(1)明治18年、時の司法大輔であった初代北海道長官岩村通俊と当時屯田本部長であった永山武四郎らが近文山に登り上川開発を発意。「北京を上川に置く儀」を上申した。
(2)上川開発の準備
  ・明治19年、忠別太に農作試験所(後に上川農事試験場と改称)を建て、麦、雑穀、野菜類を試作し上川における農耕の適否を調査。
  ・明治21年、忠別太に測候所、忠別川、石狩川合流点に水測所設置。  
  ・明治22年上川道路の開削。
(3)明治21年、米、露、清国を視察後、翌明治22年2代目長官に就任した永山武四郎は屯田兵20個中隊増強計画を建議。さらに、「北京を置き、上川離宮造営設定」を建議し神楽に10,500haの御料地を設定、上川の開発を鋭意進める。

  ★永山武四郎の論
  「本道の開拓は内部よりせねばならぬ。ことに上川地方の開拓を以て急務とする。海岸地方のごときは従来方針によって間接に指導誘掖すればよい」

(4)明治23年の屯田兵条例の改正ほか多数の法令・規則の改正があり、屯田兵制度が明治8年の琴似屯田兵入植から15年の歳月をへて確立される。
(5)明治24年、旭川から網走に抜ける中央道路が開通。
(6)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(7)明治28年、後備役で日清戦争に動員(東京待機で終戦)
(8)明治29年、永山武四郎第七師団長に就任。
(9)明治31年兵役満了(現役3年、予備役4年)。同明治31年、札幌から旭川まで鉄道が開通。さらに明治32年和寒まで、明治36年士別まで鉄道が開通。
(10)明治33~35年旭川に第7師団移転。
(11)明治38年、後備役として日露戦争出征。

3 入植者の特色
(1)全国10府県からの入植で、徳島県が113戸と一番多く、その他は40戸前後。
(2)東西の兵村では入植者に特徴があり、東兵村は東北からの入植者と南国の入植者が、西兵村は近畿、四国、中国地方出身者が中心。
(3)士官の中には琴似、山鼻に入植し、札幌農学校で西洋式農業の教育を受けた者がいた。

4 任務上の特色
(1)上川地区の開拓及び警備
(2)訓練は午前中が中心で、午後から開墾を行った。また、一年目の冬は当麻兵村建設のため建築材料確保等木の伐採を行い訓練に代えた。
(3)27年7月1日、3年の現役を満了したが、日清戦争前夜で、現役以上の訓練を行った。明治28年の日清戦争に出征(東京待機)。
(4)日露戦争出征
    298名出征、戦死者33名

5 発展過程上の特色
(1)入植した当時、忠別太(現在の旭川の中心地)はまだ発展していなく、上川の開発は屯田兵が入植した永山地区からである。
(2)永山屯田兵が入植した明治24年、神居村、旭川村、永山村を包括する戸長役場が第3大隊本部に設置された。
(3)永山屯田兵入植2年後の明治26年に永山村字トオマに当麻屯田兵が入植。(当時、当麻は永山村内にあり、永山兵村と当麻兵村は関係が深い。)
(4)当初は、畑作で色々な作物(麦、豆、麻、野菜、薄荷等)を作り、畜産・養蚕などを行っていた。地味が肥え上川3個兵村の中で一番土地の条件は良かった。しかし、上川には収穫した作物の販路が無く、現金収入を得ることはできなかった。(札幌から上川まで鉄道が延びたのは明治31年であり、それまでは、馬車による移動であり輸送経費がかかった。)
給与米だけでは主食に事欠き。芋、雑穀主体の食生活をせねばならず。給与米が途絶えた現役終了後の生活は困難を極めた。また、稲藁がないため(わらじ、つまご、わら靴、ぞうり、雨具みの、かます、むしろ、縄等)の材料に困った。それらは、稲作へ望みをかけることにつながった。
(5)上川の水田発祥
    明治24年 神居村で杉沢繁治が1斗5升収穫。
    明治24年 永山村の加藤米吉他1名が試作をしたが未熟。
    明治25年 永山村の石山伝右衛門が山形県より赤毛種を取り寄せ試作し2合の収穫。
    明治25年 戸長の本田親美と大隊長の和田正苗が、道庁から種子の斡旋を受け山口千代吉に明治米の試作を行う。加藤徳太郎の父米作(庄内藩)が管理に当たる。20余束収穫。和田隊隊長はこの成果を受け稲作を奨励するようになった。
    明治26年 作付け面積3.2町歩、明治32年27町歩、明治35年に一気に増え232町歩となった。
    当初上川米は劣等(札幌圏米10円57銭に対し上川米8円97銭)との評価を受けていたが、大正10年頃には逆転(札幌米26円75銭に対し上川米27円35銭)した。
稲作は凶作、冷害、自然との闘いでもあり、明治35~38年、大正2年、昭和6~10年、昭和20年、昭和30年は冷害で大きな被害を受けた。
(6)米どころ永山の衰盛
   ア 日清戦争2年後の明治31年、後備役となると転住、転業が可能となるので、一攫千金を夢見、あるいは借金で身動きが取れない者は土地を売り(当時の永山は兵屋つきで300円から500円)、新天地を求め、兵村を去る者が出てきた。
   イ 稲作は収入が多いことから畑作から稲作へ転換する者が増え、兵村公有財産取扱委員会で1,200町歩の造田計画が持ち上がった。
   ウ 35年から行われた潅漑溝掘削工事代金の支払いに行き詰まり、全ての公有地を売却せざるを得なかった。
   エ 残った屯田兵にあっても明治41年、42年の不作で土地を売るものが続出。全村の60%が不在地主で占められた。永山では土地の売買が盛んとなり小作人が増大。居住者の入れ替わりも激しく、土地に対する愛着、農業への意欲も衰え開村以来の窮乏に陥った。この当時、永山は北海道一の貧乏兵村といわれた。
   オ この窮乏を救ったのが美瑛村から永山村へ明治44年に赴任した清水涼村長と収入役(農会長)の森谷嘉七で、この時の永山は畑、水田半々の状態であったが、収益の高い稲作一本に切り替えようと石狩川、牛朱別川から導水し2,200町歩の造田計画を立ち上げた。
   カ 寒冷地北海道における稲作を定着させるきっかけを作ったのが直播機「タコ足」(明治38年発明)である。手播きの15倍の能率を上げ、北海道だけではなく東北、朝鮮にまで普及した。それと、もう一つは「カラカサ馬廻し機」である。それまでの脱穀は「千把」称する手こきであったが、作業能率を高め、米の収穫・販売時期を早めるなど農家の経済上貢献するところが大であった。「カラカサ馬廻し機」は後に発動機が普及する昭和の始めまで使用された。
    哀れかな、「永山の米は北海道一美味しい米」と評価を受けた時には、屯田兵の多くが離村しており、果実の多くはその後に入植した人達により受け継がれた。
(7)上川の中心として栄える
   明治24年から31年ころまでは旭川に有力な商人が少なかったことから、永山番外地に住む商人が鷹栖、比布、愛別、当麻、東旭川の各村を商圏に収めていた。一時期永山が上川繁栄の中心として栄えた時期もあり、永山では競馬も盛んに行
  われた。
(8)軍都旭川として発展
   第七師団は、明治33年~35年にかけて札幌から旭川へ移駐した。このことは、大きな消費物資が必要となり、それまで販路が無く現金収入の不足を来していた屯田兵及び一般入植者に大きな恩恵をもたらし旭川の発展に大きく寄与した。現在人口35万人を有する北海道第2の都市旭川の基礎を築いた。
(9)明治37年、永山村から独立し当麻村が分村(現在当麻町)。昭和36年に永山町は旭川市に吸収合併。

  ★(北海道農事試験場上川支場)
    前身は忠別農作試験所(明治19年)。その後、上川農事試作場(明治22年)~北海道庁地方農事試験場(明治34年 旭川6条11丁目へ移転)~北海道上川農事試験場(明治41年 永山兵村元練兵場)~北海道農事試験場上川支場(明治43年)に。
   各屯田兵村で稲作の試作に成功したことから、明治29年から官業で稲作の試験が行われ、大正8年には坊主1号が優良品種として発表された。

6 永山兵村の著名人
  永山武四郎
  「永山武四郎の像」(永山神社)
    Photo_16   

  「永山武四郎の像」(旭川常磐公園)
    Photo_18     

Ⅱ 永山兵村の伝統を伝える
○資料館等
  「旭川市博物館」
   Photo_19   

  旭川市が管理する博物館で、ここに陳列されている屯田兵関係の資料の多くは永山屯田兵のもの。 

  「北鎮記念館」
   Photo_20

   自衛隊旭川駐屯地が管理する博物館で、旧七師団関係の資料を展示。一部屯田兵関連も展示。

  「川のふるさと館さらら(正式名称:永山新川管理センター)」

   Photo_21

   旭川開発建設部が管理する記念館で2階フロアに永山屯田兵関連のコーナーがある。

○屯田兵関係の催し
  「屯田まつり」

   Photo_22     

○ゆかりの神社
  「永山神社」

   Photo_23

○屯田兵ゆかりの学校
  「永山小学校」
   Photo_24   

○今に残る屯田兵の踏み跡
  「国見の碑」
   Photo_25    

   岩村通俊以下が近文山に登り「上川に北都を置くべし」とい言った場所

  「上川離宮予定地(上川神社内)」
   Photo_26

      
  「上川水田発祥の地」(永山神社境内)

   Photo_27

  「永山屯田百年記念碑」
   Photo_28     

  「屯田歩兵第三大隊本部跡」
   Photo_29 

○屯田兵子孫の会の紹介
 「永山屯田会」
 目 的:屯田開拓家族の親睦(土着心を養う)を図る。
 発足の経緯:昭和7年6月2日、大道寺住職安川温宗、屯田兵岸田兵次郎が発起人となり永山屯田会を創設。
       昭和24年2月1日「二世会」を結成。以降、二世の会員も高齢化し会員が減少してきたことから、会員の幅を三世又は直系でなくとも本会に賛同する者を会員とした。
 活動状況:水田発祥の碑(昭和27年)、屯田歩兵第3大隊本部跡碑(昭和43年)、永山屯田百年記念碑建立
 会 員: 永山屯田縁故者を以て本会に賛同する者により組織する。


旭川兵村の紹介

2011-05-30 16:48:28 | 旭川屯田兵村

< 工 事 中 >

「旭川兵村」
入植年:明治25年8月
入植地:旭川市東旭川町

  Photo_10

「旭川兵村入植配置図」「asahikawa1.pdf」をダウンロード

 
出身地:香川、愛媛中心に12府県
入植戸数:400戸

「旭川上兵村入植者名簿」「asahikawakami2.pdf」をダウンロード

「旭川下兵村入植者名簿」「asahikawasimo3.pdf」をダウンロード
   
第3大隊(永山、旭川、当麻)
大隊長 初 代 和田正苗少佐(明治24年6月~)元根室和田(根室)太田(厚岸)大隊長
    第2代 渡辺水哉大尉(明治27年6月~)日露戦争において歩兵第25聯隊を指揮
    第3代 津田教修大尉(明治29年1月~)
    第4代 平賀正三郎少佐(明治31年9月~)後の剣淵・士別の大隊長

移動
 便船
  第1便:高砂丸 大分(7月22日発)~富山~小樽(8月1日着)
  第2便:山城丸 神戸(7月30日発)~愛媛~小樽
  第3便:高砂丸 富山~秋田・青森~小樽
 小樽からの行動
  朝4時頃小樽を出発無蓋列車で6時間かけて滝川まで、滝川の駅逓(空知太)で一泊。歩いて深川の音江の駅逓(音江法華)で2泊目。旭川大橋の近くにあった駅逓(忠別太)で3泊目。4日目に兵村に入った。
 入植日:8月14日(入植が8月となったのは本州の東海地方で水害があったため)

給余地:当初1町5反歩、追給地3町5反歩

「旭川下兵村」
部隊名:第3大隊第3中隊

中隊長:初 代:太田資忠大尉(明治25年7月12日~)
    第2代:米津逸三大尉(明治26年4月2日~)
    第3代:難波田憲欽大尉(明治30年3月20日~)後の剣淵の中隊長

出身県別入植者数
 青森県  24
 秋田県  13
 埼玉県   1
 富山県  13
 岐阜県   3
 滋賀県   7
 京都府  27
 香川県  44
 愛媛県  46
 大分県  21
 鹿児島県  1
  計 11府県 200名 

「旭川上兵村」
部隊名:第3大隊第4中隊

中隊長:初 代:井田光承中尉(明治25年7月16日~)稲作に理解
    第2代:黒田照信大尉(明治28年9月21日~)
    第3代:菊池直人大尉(明治31年4月20日~)

出身県別入植者数
 青森県  24
 秋田県  14
 富山県  15
 岐阜県   8
 滋賀県   9
 京都府  18
 香川県  45
 愛媛県  47
 大分県  20
  計 9府県 200名

Ⅰ 旭川兵村の特色
1 東旭川の地理的特質
(1)上川盆地の中央から南方に位置し、石狩川の支流である牛珠別川と忠別川に挟まれた肥沃な樹林地。東旭川から忠別川沿い、大雪山系の裾野にある東川、東神楽まで広大な農耕適地が続く。
(2)牛朱別川をはさみ北の永山は疎林、南の東旭川は密林地帯。特に上兵村は一面が樹林に覆われた湿潤な粘土質の低地。
(3)永山兵村、旭川兵村、当麻兵村、3個兵村のトライアングルの南一角を占める。
(4)気候は内陸性で夏は本州を思わせるほど暑く、冬の寒さは厳しく降雪も多い。
  (因みに過去日本で最低気温を公式記録したのは旭川で41.0C 明治35年1月25日で、この時、八甲田山で第8師団歩兵5連隊(青森)の遭難事故がある。)

2 時期的特色
(1)明治18年、時の司法大輔であった初代長官岩村通俊と永山武四郎らが近文山に登り上川開発を発意し「北京を上川に置く儀」を上申した。
(2)上川開発の準備
  ・明治19年、忠別太に農作試験所(忠別農作試験所、後に上川農事試験場と改称)を建て、麦、雑穀、野菜類を試作し上川における農耕の適否を調査。
  ・明治21年、忠別太に測候所、忠別川・石狩川合流点に水測所を設置。  
  ・明治22年上川道路の開削。
(3)明治21年、米、露、清国を視察後、明治22年に北海道長官に就任した永山武四郎は屯田兵20個中隊増強計画、さらには「北京を置き、上川離宮造営設定」を建議し、上川の開発を鋭意進める。
「本道の開拓は内部よりせねばならぬ。ことに上川地方の開拓を以て急務とする。海岸地方のごときは従来方針によって間接に指導誘掖すればよい」と論ずる。
(4)旭川兵村は上川盆地3個兵村中2番目の入植で、1年前の明治24年に入植した永山兵村の経験を生かせた。
(5)明治24年、旭川から網走に通じる中央道路が開通。
(6)4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(7)明治28年、後備役で日清戦争に動員(東京待機で終戦)
(8)明治29年、永山武四郎第七師団長に就任。
(9)明治31年、札幌から旭川まで鉄道が開通。さらに明治32年和寒まで、明治36年士別まで鉄道が開通。
(10)明治32年兵役満了
(11)明治33~35年旭川に第7師団移転。

3 入植者の特色
(1)全国の12府県より入植。その中でも愛媛95戸、香川89戸、京都45戸、青森48戸、大分41戸と5県で多く7割を越える。
(2)前年に入植した永山兵村とは違い、各府県入植者を約半数ずつに分けて上・下兵村に入植させている。
(3)士官の中には琴似、山鼻に入植し、札幌農学校で西洋式農業の教育を受けた者がいた。

4 任務上の特色
(1)上川盆地の開拓及び警備
(2)日露戦争出征:
    北韓軍:151名、満州軍:171名
        戦死者 満州軍39名、北韓軍1名

5 発展過程上の特色
(1)入植月が8月で、開墾がおくれ1年目の穀物の収穫はなし。それが後々まで響き「東旭川は貧乏村だ。小作村だ」といわれた。また、東旭川は密林に覆われ、開拓は大変であった。

 ★「旭川兵村には嫁にやるな」といわれ、永山から一人の嫁も来なかったという。

(2)稲作への執念
  ア 上兵村(4中隊)は、中隊長が暗黙のうちに米作りを奨励。下兵村では稲作を禁止
  イ 上兵村では27年に潅漑溝の掘削に着手し米作に着手。29年にはさらに一本、32年に1本を掘削。下兵村でも29年に潅漑溝を堀り、上兵村と同じ水源のため両兵村でトラブル。

 ★これらの潅漑溝の構築のため大変な借金をし、公有地が水田化のため全て無くなってしまう。個人にあっても、土地を担保に高利貸しを利用し借金を背負い土地を手放さなければならない事態となった。

  ウ 33年には第1給与地の全部が水田化。35年以降追給地と公有地の水田化がなされ44年には全て水田化が完了する。

 ★明治34年には兵村で400町歩の水田有り、1反あたり2石24斗の収穫」(加藤鉄蔵の手紙から)

(3)明治31年空知太から旭川まで鉄道開通し、物資の輸送が容易となった。それまでは、作った農作物の販路が近くに無く、滝川まで輸送する場合経費がかさみ採算が取れなかった。
(4)明治33年4月現役7年を終了。生活に困窮し離村が続出
(5)明治35年第七師団旭川移駐完了。稲藁の需要が発生。
(6)明治39年2級町村。42年1級町村。
(7)堤防の整備が完了する昭和15・6年頃までは水害の連続で、水との戦いが続いた。
(8)大正11年石北線が開通。
(9)昭和38年東旭川町を旭川市に吸収合併。 

6 旭川兵村関係の著名人
 ・加藤建夫:加藤隼戦闘隊の隊長 ビルマ戦線にて戦死。
 ・藤田貞元:上川稲作の開祖
 ・末武安次郎(屯田兵家族):「蛸足」38年に発明、寒冷地の稲作の普及に大いなる貢献をした。
 ・吉峰吉次郎(屯田兵家族):「カラカサ馬廻し機」馬力による脱穀機明治40年発明
 ・広沢徳次郎:屯田物語原画(旭川指定文化財)の作者

Ⅱ 旭川兵村の伝統を伝える 
○資料館等
 財団法人「旭川兵村記念館」

  Photo    

○ゆかりの神社
「旭川神社」

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○屯田兵ゆかりの学校
「旭川小学校」
  

  Photo_4   

○旭川兵村の文化財等
「屯田兵屋」:小山雛助の兵屋

  Photo_5   

 
「稲作功労者を顕彰する碑」

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 藤田貞助、末武安次郎、中山久蔵の功績を顕彰

「中隊記録」(旭川市指定文化財)147冊

  Photo_7  

「屯田物語原画綴」(旭川市指定文化財)
 

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「開拓の碑」

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○屯田兵子孫の会の紹介
 名称:「旭川屯田会」
 目的:旭川屯田兵の功績を伝承し併せて会員相互の親睦を図る。
 発足の経緯: 
  M32年後備役になった時に「東旭川村屯田会」として発足
  S15年「東旭川屯田会」を作り、東旭川屯田2世会を組織した
  S56年「東旭川屯田2世会」の名前を変更し「旭川屯田会」と改称
 行事:慰霊祭:8月14日
 会員:元旭川屯田縁故の者で本会の趣旨に賛同する者をもって組織する。
     会員数200名(平成23年現在)