屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

当麻兵村の紹介

2011-05-31 05:29:19 | 当麻屯田兵村

< 工 事 中 >

「当麻兵村」
入植年:明治26年
入植地:当麻町中央、宇園別、北星
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「当麻兵村入植配置図」「thoma1.pdf」をダウンロード

出身地:中部、中国、四国、九州中心を18県
入植戸数:400戸

「当麻東兵村入植者名簿」「thomahigasi2.pdf」をダウンロード

「当麻西兵村入植者名簿」「thomanisi3.pdf」をダウンロード

   
第3大隊
大隊長 初 代 和田正苗少佐(明治24年6月~)元根室和田(根室)太田(厚岸)大隊長
        第2代 渡辺水哉大尉(明治27年6月~)日露戦争において歩兵第25聯隊を指揮
    第3代 津田教修大尉(明治29年1月~)
    第4代 平賀正三郎少佐(明治31年9月~)後の剣淵・士別の大隊長

便船:東京郵船の「金沢丸」
移動:・・・・   5月5日小樽へ
    5月7日手宮から貨車で空知太(滝川)へ。8日空知太出発し、江部乙~一已~忠別と3日がかりで歩き10日に到着。5月10日~18日の間に全員到着。
  
   ★入植時期は永山6月下旬、旭川8月はじめと比べて早い。これは、入植年度の農耕に有利で、その後の兵村の発展にも大きく影響した。 

給与地:1町5反歩、追給地:3町反歩 

「当麻西兵村」
部隊名:第3大隊第5中隊
中隊長:初 代:三輪光儀(   ~)元札幌の第1大隊で勤務し後に野付牛の大隊長。
    第2代:
    第3代:

出身県別入植者数
 長野県   1
 静岡県   4
 福島県   3
 兵庫県  15
 愛知県  19
 岡山県   5
 鳥取県  18
 島根県   9
 群馬県   1
 山口県  28
 広島県  29
 徳島県  30
 高知県  19
 福岡県   1
 長崎県   1
 佐賀県  17
16県 200名

「当麻東兵村」
部隊名:第3大隊第6中隊
中隊長:初 代:福井重吉(   ~)後の剣淵の中隊長、山鼻兵村出身
    第2代:
    第3代:

出身県別入植者数
 岩手県   1
 栃木県   2
 長野県   3
 新潟県   1
 静岡県   6
 福島県  20
 兵庫県   4
 岐阜県   1
 愛知県  29
 岡山県  12
 鳥取県  10
 島根県   7
 山口県  24
 広島県  25
 徳島県  24
 高知県  13
 長崎県   2
 佐賀県  16
18県 200名

Ⅰ 当麻兵村の特色
1 当麻の地理的特質
  当麻とはアイヌ語の「ト(沼)・オマ(~に入る)・ナイ(川)」から、「ナイ」が落ちてト・オマと呼ばれるようになったといわれている。当麻町には現在もいたるところに湖沼や湿地が存在する。
(1)北海道一の大河である石狩川が大雪山からその源を発し、その流れは狭隘な層雲峡を通りすぎ、当麻兵村の給与地でもある愛別、伊香牛・比布、当麻の平地を流れる。まさに、石狩川の恩恵を最大限に受ける地。
(2)上川盆地の東北方に位置し、牛珠別川の支流である当麻川により育まれた肥沃な地。下兵村ではたびたび水害の被害を受ける。
(3)永山兵村、旭川兵村、当麻兵村、3個兵村のトライアングルの東一角を占める。
(4)気候は内陸性で夏は本州を思わせるほど暑く、冬は厳寒で降雪量も多い。
  (因みに過去日本で最低気温を公式記録したのは旭川で41.0C 明治35年1月25日で、この時、八甲田山で第8師団歩兵5連隊(青森)の遭難事故がある。)
(5)雄大な大雪山を眼前に仰ぎ見る地で、入植した屯田兵・家族が太古の林を切り開き、大雪の嶺を見た時に驚嘆したという。
(6)その他として、近くに当麻鍾乳洞が存在。

2 時期的特色
(1)明治18年、時に司法大輔であった初代長官岩村通俊と永山武四郎らが近文山に登り上川開発を発意し「北京を上川に置く儀」を上申した。
(2)上川開発の準備
  ・明治19年、忠別太に農作試験所(後に上川農事試験場と改称)を建て、麦、雑穀、野菜類を試作し上川における農耕の適否を調査。
  ・明治21年、忠別太に測候所、忠別川・石狩川合流点に水測所設置。  
  ・明治22年上川道路の開削。
(3)明治21年、米、露、清国を視察後、明治22年に二代目北海道長官に就任し屯田本部長でもあった永山武四郎は屯田兵20個中隊増強計画、さらには「北京を置き、上川離宮造営設定」を建議し、神楽に10,500haの御料地を設け、上川の地の開発を鋭意進める。
(4)明治24年旭川から網走に抜ける中央道路が開通。
(5)明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励。
(6)明治28年、後備役で日清戦争に動員(東京待機で終戦)
(7)明治29年、永山武四郎第七師団長に就任。
(8)明治31年、札幌から旭川まで鉄道が開通。さらに明治32年和寒まで、明治36年士別まで、明治40年帯広まで鉄道が開通。
(9)日清戦争勃発一年前の入植。明治27年の屯田兵条例の改正により、現役3年、予備役4年が現役8年に延長され、兵役が満了したのは明治34年。
(10)明治33~35年旭川に第7師団移転。
(11)明治38年、後備役として日露戦争出征。

3 入植者の特色
(1)中国、四国を中心に全国19府県より入植、広島54戸、徳島54戸、山口52戸、愛知48戸で、北海道の気候になじむ東北の人が少なかった。
(2)明治24年に入植した永山兵村とは違い、明治25年に入植した旭川兵村と同様、各府県入植者を約半数ずつに分け上・下兵村に入植させている。
(3)士官の中には琴似、山鼻に入植し、札幌農学校で西洋式農業の教育を受けた者がいた。

4 任務上の特色
(1)上川盆地の開拓及び警備
(2)明治34年現役満了しても、日露関係険悪のため訓練を続けた。
(3)日露戦争出征:

5 発展過程上の特色
(1)当麻兵村は上川盆地入植3個兵村中の3番目に入植した兵村で、明治24年に入植した永山兵村、明治25年に入植した旭川兵村の経験を生かせ、また、上川の開発が進みつつあったため、他の兵村に比較し有利であった。
(2)入植後早期より稲作に着手。当初の主食は給与米と芋、3年目になると粟、黍、麦が取れるようになり、それらが主食となる。米作りは入植直後の明治26年からはじめた。
(3)明治31年空知太から旭川、永山まで鉄道開通し、物資の輸送が容易となった。
(4)明治34年4月現役8年を終了。その年に、永山村トーマから「當麻村」と漢字にあらため戸長制村となる。
(5)明治30年代後半から、開拓した畑の水田造成への変換が盛んとなり、明治32年には260町歩開田、33年水利土工組合を組織、42年には大灌漑溝の完成によって1130町歩、1万8500石の収穫を得る。その結果、屯田農家の経済状況も良くなる。しかし、場所によっては適否があり生活に差が出来た。
(6)当麻を含めた上川に米作地の基礎ができたのは明治40年代に入ってから。
    精米所は明治38年にでき、しばらくして、麦の製粉をすることも可能となり食生活は変わっていった。(直播機「タコ足」が出現したのは明治38年)
(7)大正8年1級町村に昇格し、屯田兵2世の林路氏村長に就任。後の道会議員、衆議院議員へ。
(8)大正11年石北線が開通。 
(9)旧7師団軍用地の払い下げ、大東亜戦争終結後の七師団の軍人・軍属、満州・樺太引き揚げ者等が戦後の開拓民として大挙して入植。
(10)昭和34年当麻ダム完成。それにより500町歩の開田。
(11)現在は「でんすけスイカ」のブランド名を持つスイカの産地。米の品質全道一を11年継続。菊花、バラは道内一の産地。上川3個兵村の中にあって、今なお農村風景を色濃く残す。

  ★当麻農業補修学校の創設
   農事後継者育成のため小学校の生徒に農業補習を授けることを目的として、三輪中隊長の発案により、その志を次いだ福井中隊長が明治31年6月1日開校。教室は尋常小学校の一室を使い、教育期間は3ヶ年。多くの後継者を輩出した。
  なお、(福井中隊長は後に剣淵兵村でも同種の学校を開校している。)

  ★永山屯田とは親類の付き合い(永山武四郎から、永山兵村へ同一番号の当麻屯田兵の面倒を見るよう指示受け)

Ⅱ 当麻兵村の伝統を伝える
○資料館等
  「郷土資料館(旧当麻町役場)」
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  「屯田兵屋」(郷土資料館内)
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○屯田兵関係の催し

○ゆかりの神社
  「当麻神社」
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○屯田兵ゆかりの学校
  「当麻小学校」
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○今に残る屯田兵の踏み跡
 旧当麻町役場に隣接し百年記念歴史公園を開園。園内に多数の記念モニュメント
  「屯田兵像」
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  「屯田開拓の像」
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  「開村の碑」

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  「将軍山」
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  永山武四郎が上川を展望したという山

  「永山武四郎将軍展望の碑」
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  「三輪光儀君頌徳碑」
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   旧当麻神社の跡地に中隊長の功績を顕彰する碑がたっている。

  「当麻神社跡の杜」
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  「当麻屯田兵水田発祥の地」

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○屯田兵子孫の会の紹介
 「当麻屯田会」
  設 立:昭和38年9月
  目 的:当麻町隆盛の基礎を築かれた先人の逞しい開拓魂を尊び、感謝し、これを受け継ぎ、後世に屯田開拓の歴史を伝えるとともに会員相互に語り合い、社会に貢献する。
  活動の概要:「屯田兵家族合同慰霊碑」、「永山武四郎将軍展望の碑」「屯田百年記念碑」の建立、旧役場に「郷土資料館」を開設、平成4年5月7日「屯田百年記念碑」建立の中心的な働きをする。
       毎年6月7日、屯田兵物故者の慰霊祭
  会員:120名(平成23年現在)


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