屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

ルポ:新琴似兵村の今(平成23年)

2011-11-15 19:39:46 | 新琴似屯田兵村

「ルポ:新琴似兵村の今(平成23年)」

  「雪まつり」とともに札幌市の2大イベントの一つとなった「よさこいソーラン祭」。この祭で、過去何度もグランプリの栄誉に輝いている『新琴似天舞龍神』というチームの名を知らない人はいないのではと思う。
  太鼓の響きの中で舞う男達の勇壮な踊り、一糸乱れぬ踊りを披露する編み笠を被った和装の集団、その中心を流れるように舞う優美な女性。
  連想するのは、和の優雅さの中にあって、北海道の大自然に立ち向う逞しさである。『新琴似天舞龍神』の踊りのテーマとしているのは「大地へ翔け、開拓魂」で、まさに屯田兵達の開拓者精神そのものである。

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「新琴似天舞龍神の舞」

  新琴似屯田兵は九州出身の人が多く、全入植者の9割197戸が九州から来た士族出身の人達である。『新琴似天舞龍神』による舞のイメージは、新琴似屯田兵の伝統の中から生まれてきたように感じる。
 新琴似は、札幌の中心から5kmほど北方向へ進んだところにあり、道庁付近を札幌市の核とした場合、それを取り巻く衛星の一つで、地下鉄南北線の終点「麻生駅」、JR札沼線の「新琴似駅」に接し、過去、農地であった場所は閑静な住宅街へと生まれ変わっている。

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「JR札沼線新琴似駅」 

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「麻布周辺」

  新琴似には当会(北海道屯田倶楽部)会長のG氏がいる。同氏宅には会の運営について話しをするため度々お邪魔しているが、今回は「取材をしますから」と事前に連絡を入れ訪問した。
  その際、一番聞きたかったのは、新琴似で行われている伝統継承の活動で、それらがどの様な形で行われているか、それは何故なのかと言うことをうかがった。

  北海道には屯田兵として7337名が入植し37個中隊を編成した。当初は週番所と呼ばれていた中隊本部であるが、37個の中隊全てに中隊本部があった。しかし、現存するのは、ここ新琴似と江別市野幌錦山天満宮境内にある野幌中隊本部だけである。さらに、建設した当時の位置にそのまま残っているのは新琴似中隊本部だけである。
  なぜ、新琴似に中隊本部が残ったのか。
  それは、新琴似の中隊本部(建物)がたどった歴史の中にあるのではないかと思われる。
  新琴似中隊本部の建物は新琴似屯田兵が入植する前年の明治19年に建設。兵役が満了する明治28年まで本来の中隊本部としての業務を行っていた。
  その後は、新琴似兵村会の共有財産として同会に引き継がれ、明治44年の兵村会の解散にともない屯田親交組合の事務所となった。
  以降、屯田兵の組合から離れ、後に農協へと発展する新琴似信用購買利用組合の事務所、昭和12年には新琴似公会堂となった。さらには、新琴似中学校の職員室として、保育所としても使用されたことがある。
  最後は、昭和30年琴似町が札幌市と合併された時に新琴似出張所として使用された。

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「新琴似住民の拠り所 新琴似中隊本部」

  現在、中隊本部の維持・管理を「新琴似屯田兵中隊本部保存会」で行っているが、その代表者は屯田兵子孫の方ではないと聞いた。その理由は、中隊本部の建物が歩んだ道のりをながめた時に理解出来る。この建物は新琴似発展の中で、色々な中枢機関が所在する場所として重要な役割を担い、地域住民から愛されてきたことにある。
  新琴似中隊本部は昭和49年に札幌市の有形文化財に指定され、新琴似の歴史を伝える郷土資料館としての役割を担うこととなった。そして、管理は地域住民に一任すると言うことで「新琴似屯田兵中隊本部保存会」が立ち上がった。
  資料館として資料の収集・整理・展示は自ら行うというのが条件で管理を任されたため、地元有志の人達から3,000万円以上の寄付を募り、展示品のディスプレーをしたという。
  このページをご覧になった方が来札される時には、是非立ち寄って頂きたいのだが、中隊本部という小さなスペースの中に、模型あり、ジオラマあり、人形あり、パソコンの検索機ありと創意を凝らした展示を行っている。手作りの資料館としては素晴らしい出来映えである。
  そして、「新琴似屯田兵中隊本部保存会」会員31名の人達のボランティアで維持・管理をしている。

  新琴似の人達の安らぎの場所として「安春川」がある。
  過去は新琴似兵村の人々に豊かな恵を与えて呉れた川で、明治23年、第3代中隊長安東貞一郎大尉の時に開削された。
 当時の新琴似兵村は湿潤な泥炭地で、耕作可能な農地は少なかった。そこで、安東中隊長の一大決心で排水用の河川を開削することとした。これは屯田兵全員の勤労奉仕によりなされたが。結果は湿地帯であった給与地は豊かな農地へ改良され、兵村の南側に隣接して誘致された帝国製麻工場の製線所の原料となる亜麻の栽培や、後に新琴似大根として一躍有名になる大根の生産、更には軍馬用飼料としての牧草の栽培などを行い、屯田兵達の生活に計り知れない恵みを与えた。

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「安春川」

  現在の安春川は、排水溝、あるいは潅漑溝としての役割を終え、住民の憩いの場へと変わっている。土地の乾燥化が図られたため水量は少なくなっているが、逆に清らかな水か流れ、川の縁は子供達の水遊び場となっている。所々にある橋のたもとの川堤には開拓当時の様子を伝えるタイルの絵が画かれている。

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「安春川のタイル絵」

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「安春川に架かる橋に画かれたレリーフ」

 また、大規模な「風防林」が新琴似と篠路兵村の境目に今も残る。その幅が約50m近くのところもあり、林内には散策路が続き、所々で小川が流れ、小池もある。初夏の時期にこの散策路を歩いたが、木の匂いがして心地よい。地域の人達は朝な夕なに散歩し、子供達の遊び場として利用されているのだろうと容易に想像出来た。
  農地がなくなってしまった現在、本来の風防林として役目を終えたが、「安春川」同様、地域住民の憩いの場として整備しなおし保存することは大切なことであると思う。屯田兵の踏み跡は殆ど残っていないが、屯田兵が開削した川を、屯田兵達の農地を風雪から守った林を、この様な形で残すことにより、子供達に新琴似開拓の歴史を伝えることが出来るのではと思う。

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「憩いの場所である風防林内」

 現在の新琴似界隈は、帝国製麻会社の整線場があった場所は麻布と呼ばれる商店街、繁華街として生まれ変わり、北側の新琴似兵村地区は、整然と区画された閑静な住宅街に生まれ変わっている。だが、この地に屯田兵の伝統が脈々と受け継がれているのは確かである。
  ここに「しんことにって どんなとこ」という一冊のこども本がある。地域の人達に寄付を募り、手作りで作り上げ本で、新琴似所在の7校、全ての小学校に寄贈されたそうである。大人達が子供達に郷土の歴史を伝えたいと思い、行動を起こした結果である。
  拝見させてもらったが、現在の姿はカラー写真で、過去の生活の様子は全て軽いタッチの絵で表現している。心憎いこだわりを感じる。子供達に受け入れやすくインパクトのあるものに仕上がっていると思う。

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「しんことにって どんなとこ」

 冒頭紹介した「新琴似天舞龍神」は、第20回(2011年)大会では惜しくもグランプリに選ばれることはなかったが、来年21回(2012年)大会での栄誉を期待したい。


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