屯田兵と北海道の開拓

北海道は過去『蝦夷地』と言われた時代から百数十年しか経っていないが、それは開拓の歴史で、フロンティア精神が宿っている。

新琴似兵村の紹介

2011-11-15 19:20:03 | 新琴似屯田兵村

 工  事  中
「新琴似兵村」

入植年:明治20年、21年
入植地:札幌市北区新琴似地区
   
Photo
      新琴似兵村入植配置図(PDF)「sinkotonyi1.pdf」をダウンロード

   出 身 地:中国、四国を中心に8県
  入植戸数:220戸
   新琴似兵村入植者名簿(PDF)「sinkogonyi2.pdf」をダウンロード 

第1大隊
 大隊長
      第1代:本田親秀少佐(明治18年5月21日~明治25年2月)
   第2代:野崎貞次少佐(明治25年2月   ~明治29年1月) 

明治20年の入植
   便 船:日の出丸(1,138t) 輪西屯田兵110戸と同船
   航 路:神戸港出発~岡山三蟠~香川多度志~熊本百貫石~博多~長浜~室蘭~小樽
   入植日:5月20日

明治21年の入植
      便 船:兵庫丸~函館から田子の浦丸
      航 路:岡山~徳島~大分~博多~島根
      入植日:5月26日

給与地:入植時4000坪(100間、40間)を給与
    第1次追給地約5000坪、第2次追給地約5000坪
    給与された土地の殆ど全てが兵村区域内であり耕作には有利であった。

第1大隊第3中隊      
 中隊長:第1代 三澤  毅  琴似屯田兵出身
     第2代 縣  左門  琴似屯田兵出身
     第3代 安東貞一郎  安春川の開削を行う。
     第4代 吉田勇太郎  元室蘭兵村
     第5代 久木田直道  

新琴似兵村入植者
 岡山県  15
 鹿児島県 11
 熊本県  41
 佐賀県  61
 福岡県  55
 大分県  19
 島根県   1
 徳島県  17
 合計  220名

Ⅰ 新琴似兵村の特色
1 地理的特色
(1)道都札幌を有する石狩平野は石狩川とその支流である豊平川、千歳川、夕張川等多くの河川により育まれた広大な平地で、蝦夷地と呼ばれていた時代から多くの人たちが住み着いていた。
(2)札幌は石狩川の支流である豊平川により作られた扇状地で、南は高燥、道庁・植物園付近から伏流水が流れ、北に至るに従い湿潤な泥炭質の土質・地形を形成。
(3)新琴似は札幌市の中心から北に8km程進んだ場所に位置し、西から山鼻、琴似、新琴似、篠路兵村により道都を囲む北の要に位置する。また、札幌から新十津川へ延びるJR札沼線の沿線である。
(4)新琴似は高燥な地から湿潤な地にいたる境界に位置し、北側の泥炭地だけではなく、所々に沼地が存在する樹林地帯であった。
      兵村の配置がカギ型に変形しているのは、泥炭地をさけて兵屋を配置したためである。
(5)気候は他の札幌の兵村同様、厳寒の地北海道にあって夏場は割合温暖でカラッとした天候である。

2 時期的特色
(1)明治15年開拓使の廃止後4年間続いた3県1局時代が終わり、明治19年から北海道庁時代に入いる。これは、時の司法大輔であった岩村通俊(札幌本府設置時の初代判官)が北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛けたことによるものであるが、岩倉通俊が初代長官に任命される。
(2)3県1局時代の開拓の成果が芳しくないことから、開拓の進捗を図るために土地の大規模所有を認める「北海道土地払下規則」が明治19年に公布され、団体移民が本格化した。
(3)明治20年~21年にかけて屯田本部長であった永山武四郎が米、露、清を視察。その中でコサックの屯田兵制研究。
(4)2代目北海道長官に就任した永山武四郎(屯田本部長兼務)の下で、屯田兵制度の大々的な見直しと20個中隊増強計画を立ち上げる。
(5)明治15年屯田兵の所掌が陸軍省となり、明治18年「屯田憲兵例則(明治7年に制定)」に代わるものとして「屯田兵条例」が制定された。その後、明治23年屯田兵条例の改正(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、同年屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他、関連規則の改正がおこなわれ、屯田兵制度が確立された。
(6)この時期の屯田兵入植
 ○重要港の防衛のため明治19年~明治22年にかけて和田(根室)、明治20年、22年にかけて輪西(室蘭)、明治23年太田(厚岸)に屯田兵が入植。太平洋側の重要港の防衛体制が確立した。
 ○新琴似の入植に続き、明治22年に篠路、明治22、23年に滝川屯田兵が入植し、道都札幌の防衛・警備態勢が確立するとともに、石狩川流域開拓の足がかりが築かれた。
(7)明治22年に上川道路(札幌~旭川)が、明治24年に中央道路(旭川~網走)の建設される等内陸部の開発が本格化し出した。
(8)明治24年から屯田兵の応募資格に士族であることの項目が無くなり、以降平民屯田の時代に入る。
   20個中隊増強計画の元に毎年500戸づつの入植が行われ、上川(永山、旭川、当麻)、北空知(一已、納内、秩父別)、中空知(江部乙、美唄、茶志内、高志内)へ屯田兵が入植。石狩川沿いの開発が急速に行われた。
(9)明治32年の剣淵、士別の入植をもって屯田兵の入植終了。明治37年屯田兵制度廃止。

3 入植者の特色
  西・南諸藩からの入植者多数。特に、佐賀、福岡、熊本からの入植者で7割を占める。これほど九州からの入植者が多いのは当該兵村のみ。西南戦争等戦乱の結果、生活に窮した旧士族が多数発生したことからと思われる。新琴似の初代中隊長は戊辰戦争で戦った会津藩出身の三澤毅で、西南戦争で武功があり士官に抜擢された。また、2代目の中隊長縣左門も琴似屯田兵出身である。 
   
★くじ引き
 琴似、山鼻屯田兵までは、出身県(藩)等を考慮し、屯田事務局の指導の元に中隊で兵屋番号を指定していたが、同県人同志が兵屋の軒を並べるとかえって反目し合い不都合を生ずる等の問題点もあり、新琴似屯田兵の頃からくじ引きで兵屋番号を決める方法が取られるようになった。クジにより土地の善し悪しが決まり、その後の人生を決定づけることになったと言っても過言でない。

4 任務上の特色
  道都札幌の防衛及び治安の維持
  日露戦争に44名出征 

5 発展過程上の特色
(1)新琴似屯田兵入植以前の状況
 ○入植当時の新琴似付近(現在の北区一帯)は湿地帯で殆ど手付かずの状況であった。
 ○新琴似屯田兵が入植した頃には道都札幌から室蘭~函館、小樽、旭川等へ延びる道路網、小樽から幌内まで延びる鉄道網、石狩川を航行する水運も整備されていた。
 ○明治8年の琴似屯田兵に始まり、明治22年頃までに山鼻、江別・野幌、新琴似、篠路等に屯田兵の入植が行われ、道都札幌を取り囲むように屯田兵の入植が完了した。明治22年頃までには開拓使の指導により桑、大麻、亜麻、穀物、果樹等の栽培、また、畜産もある程度の成果を得ていた。
 ○道都札幌及び周辺では開拓使時代に開かれた官営工場が民間に払い下げられ、また、新な産業が根付き、移民者の数も増大。明治21年には道庁赤レンガ庁舎が落成し、札幌は近代的な町へと変貌をとげつつあった。
 ○新琴似、篠路屯田兵の入植を予定している琴似川、発寒川下流域は泥炭質の湿地帯であるものの大排水溝を開削すれば入植可能と判断し、明治19年囚人労働で新川を開削した。
(2)新琴似屯田兵入植3年後の明治23年、大排水溝安春川の掘削により、湿地帯を農地へ変換。(安春川は安東中隊長の安と工事を請け負った春山某の春の一字を取り名付けられた。現在の安春川は地域住民の憩いの場として整備されている。)
(3)営農の状況
 ○他の兵村同様、当初、蕎麦、麦類、芋類、豆類の耕作が行われ、養蚕、亜麻の栽培も行われた。
 ○明治20年、北海道製麻会社は、新琴似兵村入植地が将来麻栽培の適地になると予測し明治23年新琴似地区に製線場を建設。これに呼応するように麻の栽培に着手。
 ○元々篠路が大根の生産拠点であったが。明治31年の水害で大打撃を受け、代わって新琴似大根が市場を席巻した。当時の年間生産本数800万本、総額10数万円の利益を上げた。この大根は長きにわたり新琴似兵村に益をもたらした。
 ○新琴似兵村が恵まれていたのは、給与地、さらには公有財産地が兵村の周辺に存在したことで、これらの地に軍馬用として需要のあった牧草を栽培し収益を上げることが出来た。
(4)北海道における稲作の祖、中山久蔵により作り出された「赤毛種」を元に研究を重ねていた屯田兵の江頭庄三郎が明治28年に寒冷地に適する新種「江頭坊主」発見。後にこの「坊主」種が各兵村に伝授され北海道での稲作を定着させる原動力となった。
(5)明治29年兵役満了、後備役に入る。
(6)明治39年篠路村から分離し琴似村に編入。昭和17年琴似町に、昭和30年琴似町は札幌市に吸収され新琴似は札幌市の一部となる。昭和47年札幌市は区制を施行し新琴似は北区の一部となる。
(7)新琴似兵村に隣接する麻布は、札幌地下鉄南北線の起点駅となり、JR札沼線の新琴似駅とともに以北へ足を運ぶ場合の玄関口にあたる。帝国製麻株式会社跡地は麻布団地へと生まれ変わり、現在の新琴似兵村はベットタウンとして変貌を遂げている。

6 新琴似兵村関係の著名人
  

Ⅱ 新琴似兵村の伝統を伝える

(新琴似兵村ゆかりの地)

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○資料館等

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「新琴似中隊本部」(札幌市指定、有形文化財)

○屯田兵関係の催し
5月20日の入植日を記念して新琴似神社で例祭が行われている。

○屯田兵ゆかりの新琴似神社

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「新琴似神社」

○屯田兵ゆかりの学校

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「新琴似小学校」

○今に残る屯田兵の踏み跡

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「屯田兵屋」(平成25年春に解体された)
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「もやい井戸跡地」
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「開村記念碑 明治25年建立」

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「開村記念碑 昭和11年建立」

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「百年記念碑」

○「新琴似屯田兵中隊本部保存会」
  発  足:昭和49年(新琴似中隊本部の建物が札幌市の有形文化財に指定された年)
  活動内容:文化財、郷土資料館としての新琴似中隊本部の維持・管理
       毎年、新琴似中学校の生徒に対して新琴似の歴史の講話を実施。その他。
  会  員:31名(屯田兵子孫に限定せず)


2 コメント

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屯田兵として徳島から新琴似にやってきた家族の子... (梶浦)
2014-03-31 16:08:11
屯田兵として徳島から新琴似にやってきた家族の子孫です。屯田兵屋は、今も見られるんですね!見に行きたいです!!
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梶浦様 (屯田太郎)
2014-04-02 10:34:30
梶浦様
書き込みありがとうございます。
道外にお住まいの方でしょうか?
新琴似の屯田兵屋ですが、この記事を書いた時には存在しましたが、所有者による維持・管理が困難となり、昨年の春に解体されてしまいました。
札幌市内に残っている兵屋は、西区琴似に2棟あります。当ブログの琴似兵村の棚に画像が掲載されていますので、参考にしてください。
道内では、旭川兵村、太田兵村にも入植した場所で保存・管理されています。これも、当該兵村を紹介する棚に掲載されています。
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