<工事中>
「美唄兵村」(騎兵)「茶志内兵村」(工兵)「高志内兵村」(砲兵)
入植年:明治24、25、26、27年
入植地:
美唄兵村(騎兵)美唄市有為町、進徳町、癸巳町、一心町
茶志内兵村(工兵)美唄市茶志内地区
高志内兵村(砲兵)美唄市高志内地区
「美唄兵村入植配置図」 「bibai01.pdf」をダウンロード
「茶志内兵村入植配置図」「tyasinai01.pdf」をダウンロード
「高志内兵村入植配置図」「kosyunai01.pdf」をダウンロード
出身地:36府県
入植戸数:400戸
「美唄兵村入植者名簿」 「bibai02.pdf」をダウンロード
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「高志内兵村入植者名簿」「kosyunai02.pdf」をダウンロード
隊 長
騎兵隊長
初 代:屯田騎兵中尉 内田広徳(明治24年4月~明治29年6月4日)
工兵隊長
初 代:屯田工兵大尉 岡 三郎(明治24年4月~明治25年3月)
第2代:屯田工兵大尉 石川潔太(明治25年3月~)少将まで昇進
砲兵隊長
初 代:屯田砲兵大尉 玉虫教七(明治24年4月~ )勤務期間は短い
明治24年の入植
調査中
明治25年の入植
調査中
明治26年の入植
調査中
明治27年の入植
調査中
給与地:
美唄兵村:15,000坪(入植時に15,000坪給与されたのは美唄兵村だけ)
茶志内兵村:第1次給与地10,000坪、追給地5,000坪
高志内兵村:第1次給与地10,000坪、追給地5,000坪
出身県別入植者数
美 唄 茶志内 高志内
青森県 4 1 6
岩手県 1 1 1
宮城県 5 5 5
秋田県 6 6 1
山形県 4 3 2
福島県 3 1 1
茨城県 2 ・ 1
千葉県 1 ・ 1
東京都 ・ ・ 1
新潟県 3 ・ 1
富山県 1 ・ 2
石川県 2 1 2
福井県 2 2 ・
長野県 ・ 2 1
静岡県 ・ 2 ・
愛知県 11 7 7
滋賀県 1 ・ ・
京都府 6 1 7
兵庫県 4 5 4
和歌山県 8 6 6
鳥取県 5 5 4
島根県 4 2 4
岡山県 5 5 4
広島県 6 4 4
山口県 5 4 3
徳島県 16 10 11
香川県 10 10 6
愛媛県 11 8 5
高知県 11 8 8
福岡県 6 6 7
佐賀県 6 5 6
長崎県 1 ・ ・
熊本県 2 1 2
大分県 7 7 4
鹿児島県 1 2 3
計 160戸 120戸 120戸
Ⅰ 美唄、茶志内、高志内兵村の特色
美唄の地名の由来は、アイヌ語で「カラス貝の多く棲む沼」を意味する「ビ・バ・オ・イ」からとされている。
1 地理的特質
(1)美唄は、北側を奈井江、南側を岩見沢と接する石狩・空知平野の丁度中心部に位置し、石狩川の支流であり夕張山系から源を発する美唄川をはじめ奈井江川、茶志内川、奔美唄川、ビバイイクシュンベツ川等により育まれた広い平野。
(2)鉄道線路(函館本線)付近を境に東西で大きな地形・地質上の特色を有し、西側の石狩川にかけての地質は、石狩川が氾濫してできた川跡湖が所々に存在し泥炭質の土地が多く(その湖の一つにマガンの飛来地として知られ、ラムサール条約登録湿地となっている宮島沼がある。)、反対に東側は夕張山地続く丘陵地で、多数の炭層があり、かっては道内有数の石炭産出地であった。
(3)屯田兵の入植した地域は上川道路(現国道12号線)の両脇で、鬱蒼とした大森林地帯であり、鉄道線路の西側地域は泥炭地が広がっていた。また、大降雨の際は石狩川の逆流で度々小河川が氾濫したほか、入植地の一部において農耕に適さぬ地があった。
2 時期的特色
(1)屯田兵入植前の美唄周辺の開発状況
○明治13年幌内炭鉱の採掘開始。
○明治14年樺戸集冶監(月形)、明治15年空知集冶監(市来知、現在の三笠)の開設。
○明治17年~明治18年にかけて山口、鳥取、山形、島根、秋田県の士族が岩見沢に入植。
○明治15年幌内から小樽まで鉄道が延伸されるとともに、空知集冶監の囚人により幌内炭鉱の採掘。
○明治20年に樺戸道路(月形~市来知)が開通。
○明治22年に上川道路(現国道12号線)が開通。
(2)明治19年、三県時代(開拓使時代の後に取られた制度で札幌県、函館県、根室県の3県による統治が行われた。)を終え初代北海道長官に就任した岩村通俊は、貧民を救済しつつ移住を促す旧来の拓殖政策を廃止し、道路、鉄道、港湾の整備等の移転環境の整備を重視する資本の移転を求める政策に変換した。(1)項カの上川道路の開削は、そんな施策の一環である。明治24年には旭川から網走まで(中央道路)開削された。
(3)明治15年に小樽~幌内まで開通した鉄道は、明治24年には歌志内まで、明治31年には忠別太(現旭川)まで開通した。
(4)明治13年、幌内において石炭の採掘が開始されていたが、お雇い外国人のライマンの調査で夕張山脈の川筋には所々において炭脈が発見されており、美唄付近が採炭地として有望視されていた。
(5)入植までの屯田兵の動き
○明治21年、米、露、清国を視察後、岩村道俊の後を継ぎ明治22年2代目北海道長官に就任した永山武四郎は屯田兵20個中隊増強計画を建議。上川、あわせて石狩川沿いの内陸部開発を鋭意進める。
○明治22年~23年にかけて、中空知の滝川に2個中隊440戸が入植。
○明治23年、屯田兵条例(服役期間現役3年、予備役4年、後備役13年の20年となる)、屯田兵土地給与規則(給与地は1万5千坪となる)、その他、関連法令、規則の改正が行われ屯田兵制度が確立する。また、明治24年から屯田兵の資格が一般平民へと拡大した。
○美唄兵村(騎兵)の入植に合わせ、明治24年~26年にかけて上川地区(永山、旭川、当麻)に6個中隊(1200戸)、江部乙に2個中隊(400戸)が入植。
(6)明治も20年代に入り道内各地域で米の試作が行われるようになり、明治25年、4代目北海道長官に就任した北垣国道は北海道での稲作を奨励した。また、明治24年以降上川盆地に入植した屯田兵の中で稲作の試作に成功するものが現れ、各屯田兵村で暗黙の内に稲作が行われるようになっていた。
(7)美唄最後の屯田兵が入植した明治27年に日清戦争が勃発。明治28年に現役兵として出動を命ぜられ東京で待機。
(8)明治23年、明治27年、明治34年に屯田兵条例の改正が行われたが、美唄屯田兵にあっては7年間の現役で、明治31年~明治34年に任期満了。
(9)明治38年、後備役として日露戦争出征。
3 入植者の特徴
(1)毎年30戸~40戸の屯田兵が24年から27年の4年間にわたり、美唄兵村に騎兵160戸、茶志内兵村に工兵120戸、高志内兵村に砲兵120戸が入植。それぞれの入植者は全国におよび地域的な特色を有しない。
(2)同一行政区に兵種の異なる屯田兵が入植した地は美唄(過去沼貝村)だけで、4年間の長期にわたり入植したのも美唄だけである。
4 任務上の特色
(1)道内唯一の特科隊(騎兵、工兵、砲兵)の兵村。
(2)日露戦争では特科隊の兵種を生かし活躍。
戦死者 名、戦傷者 名
5 発展過程上の特色
(1)美唄(当時は沼貝村)が開発の表舞台に立つようになったのは上川道路の開削、北炭空知鉄道の敷設工事の拠点として役割を果たすようになってからである。屯田兵が入植する前年の明治23年に空知郡沼貝村が設置された。
(2)沼貝村に入植した美唄(騎兵)、茶志内(工兵)、高志内(砲兵)各兵村は上川道路(現国道12号線)の東西に、ほぼ一列に並ぶような形で入植した。これは、他の兵村と比較した場合特異な例であり、美唄兵村の入った地区は町の中心地として発展し、茶志内、高志内は農村の姿を現在も留める。
(3)明治19年に施行された「北海道国有未開地処分法」により、明治24年~明治27年の屯田兵の入植に牽引されるように多くの団体移民が入植した。その結果、明治40年頃には10,000人~13,000の人口を有するまでに発展した。これは、本格的な石炭の採掘が行われる前の数値で、その後、炭鉱の開発と供に一気に人口が増大した。
(4)炭鉱の開発は明治38年川内炭鉱の開鉱から始まり、本格的な開発が行われるのは大正に入ってからで、三菱美唄炭鉱(大正4年開鉱)、三井美唄炭鉱(昭和3年開鉱)をはじめ中小の会社も経営に乗り出した。以降、昭和40年代の炭鉱閉山までの間の美唄は石炭産業中心の町として栄えた。
(5)農業の発展は
○屯田兵と、その入植に誘引されるように入植した開拓民によって、上川道路周辺と石狩川沿い左岸の開発が行われた。
○石狩川の逆流のため美唄川等の小河川は何度も氾濫し被害を受けた。
○炭鉱の発展により人口が増加し農作物の需要があったと思われる。
○石狩川と国道12号線の間に広がる広大な泥炭地の開発が本格的に行われたのは潅漑溝・排水溝の掘削と土地改良が行われた戦後になってからであるである。
○入植した明治24年から27年は米作が始まりつつある時期で、美唄兵村にあっても早期より試作するものが現れた。30年頃には水田を作るものも多く出て、ある程度の収穫を得た。入植10年後の明治34年頃から潅漑溝の建設が行われ明治36年竣工した。平成22年度の作付け面積が4,500ha(耕地面積9,000ha)、23,200tの収穫があり上川、北空知に次ぎ全道第3位の米所である。
(6)商工業の発展は
石炭産業の発展に伴う人口の流入は市街地の発展をもたらした。国道12号線沿と、炭鉱に通ずる幹線道路沿いには商業施設が建ち並んだ。
(7)炭鉱の閉山により衰退
昭和40年代、石炭から石油の時代に入り国内の石炭産業が衰退した。美唄も当然その波にのまれ、三菱炭鉱(昭和47年)、三井炭鉱(昭和38年)は閉山に追い込まれた。ピーク時の人口は91,400人(昭和29年)で、現在の人口は25,901人(平成23年)。
(8)美唄(沼貝)の変遷
明治23年(1890)の沼貝村誕生以降
大正14年(1925)町制施行により沼貝町昇格
大正15年(1926)美唄町に改称
昭和25年(1950)市制施行により美唄市に昇格
(9)その他として
昭和53年、三井炭鉱の跡地に陸上自衛隊美唄駐屯地開庁(特科部隊)。
6 美唄屯田兵関連の著名人
Ⅱ 美唄、茶志内、高志内兵村の伝統を伝える。
○資料館等
「美唄市郷土資料館(56年6月1日開館)」
○屯田兵ゆかりの神社
「空知神社」美唄兵村
「茶志内神社」茶志内兵村
「沼貝神社」高志内兵村
○屯田兵ゆかりの学校
「美唄市立中央小学校」
「光珠内中央小学校」(廃校)
「茶志内小学校」
○今に残る屯田兵の踏み跡
「沼貝開村紀念碑」
明治36年6月日 潅漑溝竣工開通式にあわせ建立
永山武四郎長官 揮亳 小泉正保少将 裏面題字著
★美唄兵村(騎兵)
「騎兵隊開村紀念碑」(昭和4年8月30日建立)
「騎兵隊本部の碑」(昭和50年8月建立)
「美唄屯田兵屋」
「屯田騎兵火薬庫」
★高志内兵村(砲兵)
「砲兵隊記念碑」
「砲兵隊本部跡」
★茶志内兵村(工兵)
「開村記念碑」
「工兵隊本部跡」
○屯田兵子孫の会の紹介
「美唄屯田兵記念物保存会」
設立:昭和44年9月10日
その後、郷土資料館ができあがり「美唄屯田子孫会」と名称を変更した。
設立の経緯:歴史的建造物である屯田兵屋を移転復元して、永久に保存を図るため会を結成した。
会の目的:美唄の歴史的遺産である屯田兵屋および屯田兵に関する記念物を永久に保存し、これにより市民が開拓者の苦労をしのんで美唄市将来への建設意欲を高め、あわせて市民文化の向上に資することを目的とする。
会員:美唄市に住む屯田兵の家族およびその子孫、会の趣旨に賛同する有志
子孫50戸(平成23年現在)
*屯田兵の子孫で入植地に住む人は8軒のみ(平成16年)
訪問有難うございます。
先祖の足跡をたどるお手伝いができたことをうれしく思います。
屯田兵として高志内に入植し、その子孫である、お祖父さんが樺太へ移住している。
これは、日露戦争で日本が勝利し、樺太の南半分が日本の領土となったことにより、新たな夢をもって新天地へ移住されたのだろうと思います。
その後、大東亜戦争の敗戦で樺太からの引き上げ。先祖の皆様はご苦労をされ、波乱に満ちた人生を送られたことだろうと思います。
これは、屯田兵だけではなく、北海道へ移住した多くの先祖の皆さんが歩まれた人生であったのではないかと思います。
屯田兵と北海道開拓の歴史の研究はまだ始めたばかりですが、もっと、もっと調べて行きたいと思っています。
私も会員である組織に「北海道屯田倶楽部」という会があります。
HPは「北海道屯田倶楽部」、
URLは http://tonden.org/Home/Home.html
です。
一度覗いてください。
20年ほど前に、父の「犬でも血統があるのに自分はどこから来たのか分からない」という言葉に触れ、祖先の調査を始めました。父は樺太で生まれ、戦後北海道へ引き揚げてきましたが、祖父は父が子供の頃他界しており樺太へ渡る以前の経歴や出身地は不明でした。親戚への聞き取り調査を踏まえ、父の戸籍を片手に北海道の役所を回って除籍を調べてもらったところ、曽祖父が屯田兵として高志内に入植していたことが分かりました。
当時はネットも普及しておらず、情報は足で稼ぐしかありません。横浜から一人旅の女子大生に、北海道の人々はとても温かく、他人の話に耳を傾け面倒なことを調べていただき、また屯田兵のこと、開拓や自然の厳しさ等色々教えてくださいました。
今でも北海道の方々に受けた優しさは私の心の糧になっています。
こちらのサイトには、ふと屯田兵も日露戦争に出兵したのかと思い、検索したところヒットし拝見させていただきました。
曽祖父の名も掲載されており、足跡が残されているようでうれしく思い書き込みさせていただきました。
こうしたサイトがたくさんの方の目に触れ、後世に伝えられていくと良いですね。素敵なサイトを作ってくださり、ありがとうございます。
こちらでは分かりません。
茶志内屯田兵の有吉孫太郎さん、元網走市長の有吉三郎さんにつきましても、地元、美唄市、網走市では名士であったと思われますので、それぞれの役場に問い合わせられるのは如何でしょうか?子孫の方が美唄市、網走市に住んでおられるかどうか分かりませんが、何らかの情報が取れるかもしれません。
ここには載っていませんが、入植された屯田兵の家族構成などの資料も残っているのでしょうか?
秋吉様の祖先「福井忠平」さんを探しあてることができましたことを、屯田兵を研究する者として嬉しく思います。
屯田兵の福井忠平さんの入植した場所と進徳は近くであり、本家の方が進徳に住まわれているというのは何らかの関係があるのかも知れません。
私は美唄屯田兵子孫会の方とも少しばかり交流があります。
進徳に住まわれている本家の方の氏名分かるようでしたら更に詳細な踏み跡を探し求めることができるかも知れません。
お役に立てることがありましたらご連絡下さい。
父の旧姓は、福井と、言いました。昔、従兄から、進徳に来て『福井さ~ん!』って叫んだらすぐわかるから遊びにおいでと言われてました。楽しい従兄でした。