今朝はすこし気温が低めの花冷えです。連休明けで道行く人も心なしか慌しいような桜の花も気温差で開花に向け進んで行くでしょう。チャリ通DATA:20.6㌔・1時間2分・時速19.8㌔
緒方洪庵の適々斎塾
大塩平八郎の乱がおこった翌年の1838年3月23日、緒方洪庵は、大阪の瓦町で医学・蘭学を教える適々斎塾(適々塾、適塾とも)を開設。洪庵の医師・医学者としての実力と人柄、医学を志す者以外にも広く洋学を教える開放的な塾風から、3000人もの塾生が集まった。そこからは維新や明治期に活躍する、橋本左内、福沢諭吉、大村益次郎、大鳥圭介、長与専斎など多くの人材が育った。1810年に備中足守で生まれ、大阪で医学を学んだ洪庵は、30年に江戸で蘭学を学び、36年には長崎で蘭方の知識を深めた。62年には幕府に迎えられて奥医師兼医学所頭取となったが、翌年には江戸で急死している。医師としては種痘の普及やコレラの治療を行い、その熱心で適切な治療は、西洋医学に対する信頼や蘭学医の社会的地位を高めたといわれ、著書も多い。
今日(京)ことば
かど・・・・・・・家の前。門口。そこの「かど」と言うように場所を指す時にも使います。
大塩平八郎の乱がおこった翌年の1838年3月23日、緒方洪庵は、大阪の瓦町で医学・蘭学を教える適々斎塾(適々塾、適塾とも)を開設。洪庵の医師・医学者としての実力と人柄、医学を志す者以外にも広く洋学を教える開放的な塾風から、3000人もの塾生が集まった。そこからは維新や明治期に活躍する、橋本左内、福沢諭吉、大村益次郎、大鳥圭介、長与専斎など多くの人材が育った。1810年に備中足守で生まれ、大阪で医学を学んだ洪庵は、30年に江戸で蘭学を学び、36年には長崎で蘭方の知識を深めた。62年には幕府に迎えられて奥医師兼医学所頭取となったが、翌年には江戸で急死している。医師としては種痘の普及やコレラの治療を行い、その熱心で適切な治療は、西洋医学に対する信頼や蘭学医の社会的地位を高めたといわれ、著書も多い。
今日(京)ことば
かど・・・・・・・家の前。門口。そこの「かど」と言うように場所を指す時にも使います。
『親の光は七光り』
親の社会的地位や名声が子の出世に大いに役立つこと。親の名声の恩恵を大いに受けること。親の偉大さを受け継ぎ精進して生きて行く直向きな姿が最高の親孝行でしょうが、「親の心子知らず」で私も日々反省です
<松下幸之助一日一話> PHP研究所編
即断即行
昔から「兵は神速を貴ぶ」という言葉がある。一瞬の勝機を的確につかむかどうかに勝敗の帰趨がかかっている場合がある。そういうときにいたずらに躊躇逡巡していたのでは機会は永遠に去ってしまう。だから大将たる者は、即断、即行ということがきわめて大事である。これは何も戦にかぎらず、一国の運営、会社でも同じである。情勢は刻々にうつり変わっていく。だから一日の遅れが一年の遅れを生むというような場合も少なくない。もちろんきわめて慎重に時間をかけて事を運ぶことが必要な場合もある。しかし大事にあたって即断、即行できる見識と機敏な実行力は指導者に不可欠の要件だと言えよう。
親の社会的地位や名声が子の出世に大いに役立つこと。親の名声の恩恵を大いに受けること。親の偉大さを受け継ぎ精進して生きて行く直向きな姿が最高の親孝行でしょうが、「親の心子知らず」で私も日々反省です
<松下幸之助一日一話> PHP研究所編
即断即行
昔から「兵は神速を貴ぶ」という言葉がある。一瞬の勝機を的確につかむかどうかに勝敗の帰趨がかかっている場合がある。そういうときにいたずらに躊躇逡巡していたのでは機会は永遠に去ってしまう。だから大将たる者は、即断、即行ということがきわめて大事である。これは何も戦にかぎらず、一国の運営、会社でも同じである。情勢は刻々にうつり変わっていく。だから一日の遅れが一年の遅れを生むというような場合も少なくない。もちろんきわめて慎重に時間をかけて事を運ぶことが必要な場合もある。しかし大事にあたって即断、即行できる見識と機敏な実行力は指導者に不可欠の要件だと言えよう。
3月23日 世界気象の日
気象の共同観測や資料交換などの国際協力を目的に、世界気象機関(WMO)が1950(昭和25)年のこの日に発足しました。日本は世界気象機関に1953(昭和28)年に加盟しています。同機関の発足10周年を記念して制定されました。気象予報士の資格も人気で、最近では最年少の予報士の出現も
気象の共同観測や資料交換などの国際協力を目的に、世界気象機関(WMO)が1950(昭和25)年のこの日に発足しました。日本は世界気象機関に1953(昭和28)年に加盟しています。同機関の発足10周年を記念して制定されました。気象予報士の資格も人気で、最近では最年少の予報士の出現も