レトロの小部屋

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電話局名の変遷 

2018年01月27日 14時39分31秒 | 絵封筒・紙物

電話が家庭に普及した初期の頃は「電話を設置したけれど、知人が誰も電話を持っていない」状況だったとか。
ある業界の大正3年ごろの組合員名簿を書き写しています。

東京市神田区 本局。
   京橋区 京橋局。
  日本橋区 浪花局。
    芝区 芝局。
   浅草区 下谷局。
   
大阪市南区 大阪局。南局。
   北区 本局。東局。
   東区 本局。 

この時点で、横浜、名古屋、広島、長崎は番号だけで局名はありません。一局だけだったのでしょう。
東京でも大阪でも電話番号の記載のない組合員もありますから、電話未設置なのでしょう。

昭和11年の、別の業界名簿ですが、横浜鶴見区 鶴見局。
                 大阪南区 船場局。
               名古屋市中区 南局。となっていました。

画帳の持ち主が、所蔵印を押しています。

京都の電話局は上局と下局からスタートしたと推測したのは、京都市は上京区と下京区からスタートしているからです。
こちらは、数字を当てて2局となっています。いつ頃からなのでしょう。

元々が、郵便、電報、電話と合体した逓信省だったのが分割されて、かえって電話局に記録がありませんでした。

そこで、新聞の広告欄に電話番号があることに気づき、図書館で京都新聞のマイクロフィルムを見せていただきました。

電話を回すと交換台につながり、相手につないでもらう時代は局名が重要でした。

局番が設置され、市外局番が設置され、相手に直接つながるようになると、一気に加入者が増えました。それは昭和30年代でした。

私は昭和48年に結婚しましたが、前年の秋、主人が電話設置にあたって電電公社から15万円で10年償還の債権を買わなければなりませんでした。
主人の給料の一か月分より高かったのです。

 

 


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