明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

祝 13000人 律儀

2010-03-22 01:46:28 | Weblog
お疲れさんで、ブログも昨日は休刊日。それにしても小春日和でした。ところが、今日は一転。日本列島は強風を伴う黄砂でうんざり状態。午前中、ご門徒宅にて年忌法要と報恩講。終了し、車を見ればまるで泥だらけの状態。そういえば、雨が降っていた。本堂の縁も、昨日あれだけ雑巾拭きにてピカピカの状態であったのに、今日は足跡がつく状態。いかに日本列島を襲った黄砂が酷い状態かわかろうというもの。近年、この黄砂現象が酷くなっている。中国大陸のゴビ砂漠の黄土が原因とか。地球温暖化にて砂漠化が進み、黄砂が頻繁に日本列島に来襲。残念ながら、中国はこの因果関係を公式には認めていないようだ。
さて、黄砂の為に視界不良の中で、拙寺の境内を見ると、ヒヤシンスの花が一斉に咲いた。毎年、この3月下旬に律儀に咲く花。昨年も、ブログで紹介したが、その時は名前不明の花として紹介。そうしたら、ある方がメールにて教えていただいた。『ヒヤシンスの花ですよ』と。そこで、今年も感謝の意味を込めてヒヤシンスの花を紹介。
明日からは、仏教的視点にて『夢のお告げ』、夢告を取り上げていくつもり。勿論、春は目前。桜の花も、開花寸前。紹介していきたい。
尚、昨日(3月20日)にて、ブログ訪問者の方が13000人(正確には、13090人)を超えていました。いつも有難うございます。

これはないでしょう

2010-03-19 22:21:49 | Weblog
実は、昨日スキーに行った。高校スキー部の顧問をしていた頃は、放課後になると部員を乗せてスキー場に毎週一回は通勤していた。冬休み・春休みは、スキー部の合宿にて北志賀竜王スキー場に。そして、冬季インターハイにて北海道・青森・山形・岩手・長野とスキー三昧の日々。
しかし、それは過去の話。最近は年に一回。しかも、往復の時間を差し引けば滑る時間は2時間ほど。貴重な時間が、昨日の筈であった。昔、通いなれた某スキー場。もうシーズンも終わり。せっかくの貴重なスキーの時間である。営業していないでは大変とばかりに、インターネットにて確認。積雪80センチとあり。喜び勇んで、朝の日課をこなして某スキー場へ。来て見てビックリ。『これはないでしょう。』。雪がありません。ほとんどありません。写真を見て欲しい。僅かに、コースに雪が敷き詰められている程度。それも、80センチどころか数センチもありません。『これは、詐欺だ。詐欺に等しい。』。コースから外れたら最後です。草地にもろに突っ込む事になる。これは、これで結構大変。
それでも、数人の物好きが恐ろしいコースで滑っていた。ここまで来た以上は、滑らずには帰れないとばかりに十数本滑りまくった。でも、シーズンオフ寸前のスキー場です。我慢・我慢です。それに、その後にすごく大切なこともありました。ともかく、今季の私のスキーは終了です。

おそざき

2010-03-18 23:48:33 | Weblog
今日の朝、ウグイスが鳴いていた。春は、そこまで来ている。しかし、以前にもブログで書いた事があるが拙寺の花は、何故か遅咲き。二週間から1ヶ月遅れで咲くケースが多い。大器晩成とは聞こえが良いが、頭をひねることしきり。境内の一画に水仙の群落がある。その水仙が一斉に咲きだした。遅れること一ヶ月から二ヶ月余り。近くに行くと、水仙の花特有の高貴な香(かおり)が漂っている。季節遅れの楽しさとも言える。
考えてみると、人間も遅咲きのケースが。我が浄土真宗を考えても、宗祖・親鸞聖人は9歳から29歳まで比叡の山で堂僧という身分で耐えに耐えられた。親鸞聖人は、晩年に多くの著作を残された平気で話すが、これとて凄い事。聖人は、62歳前後に関東を離れ京都にお帰りになったという。私達は、現在の平均寿命を頭に浮かべこの事にも何も感じない。
戦国の武将、織田信長の最後を思い出してもらいたい。本能寺で最後を迎えた時、彼は『敦盛』という曲を歌い舞ったという。この『敦盛』の出だしは『人間50年』から始まる。当時は、50年が人生の目標であった。とするならば、親鸞聖人が62歳前後で京都へは、いかに凄いことであるのかがわかろうというもの。平均寿命をはるかに越えての人生。そういえば、聖人の奥さんと言われる恵信尼様も、80歳を超えられる人生を歩まれた。
私達は、親鸞聖人・恵信尼様というと教え(教義)に飛びつく。しかし、教えも勿論大切であるが、その人の人生の歩みを学ぶ事も大切ではないかと思うのである。笠原一男先生が、講談社学術文庫から『蓮如』という小冊子を出版されている。この本の冒頭に、次のように書かれている。人生の成功者に共通する条件として、『知力・体力・長寿』をあげておられる。この三条件のうち、知力こそ、若い時、世に出る前に必死で研鑽するものであろうと思う。いくら長寿でも、知力の伴わない者は人生の成功者とはなりえない事になる。そういう意味では、人生の成功者とは、すべからく大器晩成であるといえる。私も、境内の水仙の花にあやかりたいもの・・・・・・

少年の涙

2010-03-18 00:14:07 | Weblog
今晩、NHKの歴史秘話ヒストリア『奈良の大仏様再建の秘話』を紹介していた。確か再放送の番組。
戦国時代の兵火により、大仏様を守る建物は炎上し、百年近く雨ざらしの状態。大仏様も、あちこちと傷みが酷く崩壊寸前。時は、江戸時代前期の1660年。
13歳の公慶上人は、雨の降る日にその様子を見られ余りの酷さに涙される。タイトルの『少年の涙』である。そして、一大誓願を決意される。大仏、及び大仏殿の再建である。この時、13歳の公慶上人が語られた言葉が印象に残った。『大仏様に仕える私にはカサがあるのに、私が仕える大仏様にはカサがない。』という言葉である。これが、13歳の少年の言葉なのかと思う。余程(よほど)の仏心に恵まれた方であろう。しかし、逆に純粋なこころを持った少年だからこそ語り得た言葉であったのかも知れない。
この言葉の通り、公慶上人の一生は大仏様再建に一生を捧げられた。全国を勧進(かんじん)し、その真心は人々を動かし、幕府をも動かすに至った。凄(すご)い僧侶がいたのだとツクヅク思う。これが、仏(ほとけ)に仕える本当の姿というものであろう。小さな規模(話)になるが、私の父も朝の勤行が済んで、本堂内部をホウキで掃き掃除をしている時、口からは絶えず『南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏』とお念仏を申しながらホウキを動かしていた。おそらく、これも念仏が念仏申させている世界であろう。何れにしても、思いはあれど遠く及ばぬ自分の姿に絶望感すら覚える・・・・・
写真は、インターネットより複写

春は?

2010-03-17 07:02:05 | Weblog
昨日は、この時期にしては記録的な暖かさ。昨晩のニュースでは、関東地方では噴水の周りで水遊びする子供達の姿が放映されていた。今日は、一転して藤原岳の山頂付近はうっすらと白く雪が。そして、雪雲特有の黒い雲が山全体をおおっている。この寒暖差の大きさ。これでは、体調管理も難しく風邪でもひこうというもの。
特に、この冬は雪と雨が多く、なかなか外の掃除ができないのが悩みの種。昔から、三寒四温ともいうが、まるで日替わりメニューの状態。下の駐車場は、立派な草がこれみよがしにはえている。これでは、まるで予定がたたず4月11日(宗祖・親鸞聖人降誕会法要)の足音は近づいてくるのに焦ることしきり。これも、地球温暖化の影響と言ってしまえばそれまでだが、余りの変動の大きさに不安にもなる昨今である。
過去、日本の歴史を調べてみると天変地異と称した異常気象があった。幾多の大飢饉がそれである。夏(ただし、当時は太陰暦)であるのに、雪が降り、作物がまったく育たず多くの人が餓えに苦しんだ。そのような多数記録も残っている。親鸞聖人が、誕生された承和3年(1173年)も、大飢饉に襲われた。都(京都)では、食べるものが全くなく多くのいのちが失われた。それは、あたかも地獄の様相であったという。幼き子供が、母親が餓死したことも知らず、乳房をねぶっていたと書かれている。吉田兼好法師の『徒然草』の語るところである。人々は、不安と恐怖に打ちひしがれたが、人々のこころに燎原の火のごとくに広がっていった希望の光があった。西方極楽浄土の教主、阿弥陀如来の救いを説く、浄土信仰である。その怒涛に流れの中で、法然上人・親鸞聖人がお出ましになり、阿弥陀如来の願いを信じ、阿弥陀如来のみ名を称えるれば、誰でもが救われるというお念仏の教えを説かれた。まさしく本願念仏の教えは、時季相応の教えであった。
現代社会も、無縁社会と呼ばれる冷たき社会の現実がある。人々は、大なり小なり、こころに不安を抱えた時代に生きている。この人々のこころを救う教えとして、今の真宗教団が使命を果たしているのかと強く思うところである。人々は、春の訪れを待っている。員弁川の河原に咲く黄色い菜の花のように。菜の花の如くに、たくましく頑張るしかありません・・・・・



それにして不思議

2010-03-16 01:03:58 | Weblog
拙寺には、10年ほど前にご縁があってコピーさせていただいた○○家系図がある。全長20メートルには及ぶ系図。勿論、ご門徒の○○家の先祖が書かれている家系図である。先祖は、福島県南部。一族からは、西行法師(平安末期から鎌倉初期の歌人)等が出ている。後醍醐天皇による建武新政、そして南北朝時代の激動の歴史と共に、一族の運命は流転する。南朝方の伊達氏の攻勢を支えきれず、結局一族の本流は恩賞として獲得した伊勢(三重県)に根拠地を移した。そして、戦国末期に一族の分流は藤原町に。この時に、拙寺の門徒となり現在に至っている。
それにしても不思議な事があった。今日、午後1時から○○家の別れと考えられる方(桑名在住)と会う約束となっていた。勿論、ご門徒さん。しかし、午前中の仕事が遅れ気味となり、電話をして午後2時からに変更していただいた。
突然の事である。正午過ぎに、四日市在住の方が訪ねて来られた。この方もご門徒さん。しかも、この方も○○家の別れと思われる方である。勿論、このお二人には面識も親戚付き合いも全くない。しかし、○○家系図を持ち出し調べてみると、先祖は江戸中期に兄弟の関係にあると思われる事が判明。こんな偶然があるのだろうかと思う・・・・・偶然にも、私の都合にて時間を変更した。その空白の時間に、300年ほど前の兄弟の関係と思われる方のご子孫来られるとは。実に不思議。人智の及ぶことではない・・・・・仏様のはからいと思っている。写真は、○○家系図の鎌倉初期の部分。

祝 12500 宗祖・親鸞聖人降誕会法要パンフレットが完成

2010-03-14 22:57:12 | Weblog
4月11日に、拙寺にて宗祖・親鸞聖人降誕会(ごうたんえ)法要案内のパンプレットが完成しました。自画自賛の渾身(こんしん)の作品?降誕会法要とは、親鸞聖人のご誕生を祝する法要。ですから、本来は毎年お勤めするのが真宗寺院の筈。ところが、拙寺の所属する員弁組二十五講というグループは、10ケ寺が順番にどこかのお寺でお勤めする方式を採用。私が、物心ついた時にはそのようになっていたのだから、今さら変えようがない。で、今年は拙寺の当番。4月11日が法要当日です。
しかし、お勤めする以上は多くの方にお参りして欲しいのが人情というもの。そこで、門信徒の皆さんにお配りするパンプレットを色々と工夫。(法要自体にも改良点)渾身の作品、渾身の法要となる予定です。(と勝手に思っているところが自分らしい)
このブログを、見ていただいている皆さん。是非、4月11日にお参り下さい。今日は、宣伝のみで終了です。写真は、法要のキーワードになるものです・・・・
連絡していただければパンフレットを郵送させていただきます。
FAXで、連絡下さい。0594-46-3361
尚、一昨日(3月12日)で訪問者が、12500人(正確には、12582名)を超えていました。いつも有難うございます。

ある研修会にて

2010-03-13 21:41:16 | Weblog
昨日、拙寺にて小さな研修会がありました。人権の学習会でした。講師は、私でした。ご承知にように浄土真宗の開祖は親鸞聖人。親鸞聖人没後(1262年)~蓮如上人の没後(1499年)まで、主として浄土真宗を支えてきた民衆とはどのような人達であったのかというテーマで話ました。
何故、このことが人権学習と関係あるのか?それは、中世と呼ぶ時代、浄土真宗を支えた名もなき人々とは、農民とは違う人々であったと考えるからです。(勿論、農民も武士も豪族もいたでしょう)里人とは、違う人々。主として『山の民・川の民』と呼ばれる人々に、浄土真宗は広まっていたのではないかと思われるのです。『山の民(たみ)・川の民(たみ)』とは、文字通り山と川を生活の舞台にしていた人々です。
蓮如上人の御文章第一帖第三通を例に引用しました。この御文章は、『猟・すなどりの章』と呼ばれている有名な一節です。(私の現代訳にて)
『まず浄土真宗の信心というのは、あながちに自分のこころが悪いとか、よこしまなねたみこころをおこることを、とどめよというものではありません。ただ、あきない(商人)をもし、奉公(つとめに出る人。今でいえばサラリーマン)をせよ。猟(猟師)すなどり(漁民)をもせよ。かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどって生活している私達のようなとりえのないものを、たすけんとお誓いになった阿弥陀様の願いであると信じて(以下略)』
このお手紙で、注目して欲しいのが『何々をせよ』と呼びかけておられる事です。逆にいえば、ここにあげられた職業の従事者は、当時(中世社会)において、仏(ほとけ)からも見放された人々、つまり偏見の目で見られていた人々だということになります。そして、よく職業をみれば、猟師・漁民等は文字通り『山の民・川の民』でありました。これらの人々に対して、蓮如上人は『自信を持って己の職業に従事せよ』と呼びかけてみえるのです。その理由は、『どんな職業であろうと阿弥陀様の願いは届いている。だから、阿弥陀様の願いを信じて念仏もうせば仏(ほとけ)になるのだ。だから何の心配もいらないよ。』と結ばれておられます。この訴えに対して、どんなにか嬉しかったであろう事は容易に想像がつきます。『山の民・川の民』の人々が、浄土真宗を受け入れた理由が判るというものです。このような説明をしました。写真は、拙寺(蔵)の五帖の御文章。本来、御文章はこのように5冊で成り立っていた。『猟・すなどり』の章は、第1冊目に書かれている。

思いはさまざま

2010-03-12 23:34:41 | Weblog
夜、10時からのニュースを見ていたら、金沢駅から中継の場面であった。夜行寝台特急『北陸』と夜行急行『能登』のラストランの姿。金沢駅には、1500人余りの人が押しかけ、最後の雄姿を撮影。JRのダイヤ改正にともなう廃止だそうだ。
列車・バス等には、誰にでも思いでがある。私には、夜行寝台特急『阿蘇』である。名古屋・熊本間を12時間余りで走った夜行列車。学生時代、クラブの春合宿にて九州の山々を登る為に盛んに使った。勿論、お金がなく自由席使用であったが。
中には、その人の人生を運んだケースもあるだろう。まして、夜行寝台特急ブルートレインとなれば、なおさらである。修学旅行・新婚旅行等の喜び・楽しみの思いでもあるだろう。しかし、夜行寝台特急は、悲しい、そしてせつない思いでが何故か重なる場合が多い。それは、誰にもふれられたくないこころの秘密のような青春の思いでに直結する。まさに、人生を乗せて列車は走った。だが、自分の運転する人生列車は更に複雑。見えない糸に導かれる場合もある。人生には、『なるべくしてなる』という場合がある。その場合は、その道を進もう・・・・強く思う。
昔、承元(じょうげん)の法難と呼ぶ事件があった。念仏集団に襲いかかった弾圧事件である。お念仏を広めようとする僧侶が一網打尽となり、死罪・流罪となる。その時、法然上人は、『私が、土佐の国に流されるのは、弥陀のはからいである。私は、喜んでいる。なぜならば、田舎の人々にお念仏を説けるからだ』と話された。私の一番大好きな言葉である。人は、き然として進まなければならない時があるのだ・・・・・後悔はなし・・・
写真は、インターネットよりコピー。金沢駅にて