明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

夢告(梁塵秘抄の場合)

2010-03-23 23:27:57 | Weblog
夢の告げ。私達も夢を見る。夢は、こころの願望の表れの場合もあるし、こころの奥底にあるものが突然表れる場合もある。現代心理学の説くところである。どちらにしても、私達は夢を大事にすることは普段はない。ろくな夢しか見ない事もあるが・・・・・・
しかし、昔の日本人は違っていた。自分の人生を左右する時は、神社・寺院にて、一定期間籠(こ)もり、神仏に必死に祈り、神仏のお告げを期待した。これを夢告(むこく)と呼ぶ。
梁塵秘抄(りょうじんひょう)という本がある。読まれた方もおられるに違いないが、この本の編集者は、平安末期の最大の権力者である後白河法要である。当時の今様(いまよう)と呼ぶ流行歌を集めた本。この中に、『仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ。』という有名な歌がある。
後にもふれますが、親鸞聖人の内室と呼ばれる恵信尼様のお手紙にも、親鸞聖人が29歳の時に京都六角堂に参籠され、95日目の暁に観音様より夢のお告げを受けられたという真宗門徒であるならば一度は聞いた有名な場面が出てきます。 ここにも、『暁』という言葉が登場します。梁塵秘抄の先ほど紹介した有名な今様にも『暁』があります。『仏様は、人の声がきこえない暁に、夢の中でお会いすることができる』という意味になります。現代では、『暁(あかつき)』とは、少し明るくなってきた頃を表現しますが、平安の昔は違っていた。この時代、『暁』とは、真っ黒な時間帯、夜中の午前2時から3時をさしています。少し明るくなっていた時刻は、『曙(あけぼの)』という表現がありました。
昔、『暁』という時間帯は、神仏が出現して人々を導いてくれる時間帯。つまり、神仏が夢の中で出てきてくれるなら、この時間帯であると信じていたのです。つまり、『暁』とは、大変尊い時間帯。だから、梁塵秘抄も、恵信尼様のお手紙でも、『暁』に仏様・観音様があらわれて夢の告げをされたと書いているのです。
昨日、紹介の善導大師の夢の告げも、明日紹介する法然上人の夢の告げも、『暁』の時間帯であったでしょう。それほどに、夢の告げ、夢告(むこく)は、道を求める人には仏様からの証明にも等しいものでありました。必死に・真剣に・いのちを賭けて、仏道を求める人には、その必死さ故に必ず夢告はなくてはならないものであったのです。夢告すら受ける事のできない僧侶なんて、人々の話題にものぼらない程。故に、夢告を否定する事は、日本史を否定するに等しい暴挙であるともいえるのです。この事を、確認しておきましょう。
尚、梁塵秘抄は、五味文彦著、文春文庫『梁塵秘抄のうたと絵』(700円税別)、又は西郷信綱著 ちくま文庫『梁塵秘抄』(600円?・・・購入時が昔)が大変読みやすい。一度、読まれることをお勧めします。
写真は、昨日と同じ場所にて撮影。マンサクの花と木蓮の花