明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

夢告(九条兼実の場合)

2010-03-28 00:12:50 | Weblog
摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)という朝廷で最高位についていた九条兼実(くじょうかねざね)は、平安末期から鎌倉初期の人物。
私達が、九条兼実という人物を考える時、従来から聞かされて来たことは、法然上人を庇護(ひご)した最大のパトロンであり、法然上人の主著である『選択本願念仏集』も、もともとは九条兼実の要請により書かれた本であるいう事等をすぐに思い出します。又、『親鸞聖人正明伝』という本には、親鸞聖人と兼実の娘である玉日姫?との結婚も、九条兼実の要請があって法然上人が結婚を決めたとあります。このように、九条兼実は法然上人の教えであるお念仏の教えに深く帰依(きえ)した人物として理解しています。
しかし、これは彼の人生の後半部分。朝廷内の陰謀により、摂政・関白の地位から追い落とされ失意のどん底にあった時代に符合します。彼の前半生は、出世の階段を登っていく躍動の時代でした。
この時代、彼は日記をつけていました。この日記を『玉葉(ぎょくよう)』と言います。『玉葉』は、長寛2(1164)年より正治2(1200)年に至るおよそ36年に渡る記録。これは源氏と平氏の争いに重なる部分が多い。この源平合戦を書いた本としては『平家物語』が有名。この『平家物語』を補うものとして必ず利用されるのが『玉葉』。とにかく、兼実の有した情報網は多彩であった。平家一門・後白河院の周辺、藤原氏内部をめぐる政敵近衛家等の内情、鎌倉の頼朝や奥州藤原氏の動静にまで及ぶその記事の数々は、『平家物語』中のエピソードの多くを網羅し、事実関係の確認に欠くべからざる素材といえます。
この『玉葉』は、それだけではありません。実に、夢の記録が多いのです。源頼朝が、石橋山に挙兵した治承四年あたりから、平家が檀の浦に滅びた寿永四年あたりにかけての時期にほぼ集中しています。私は、直接に『玉葉』を読んだことはありません。他の本からの引用文のみです。それでも、源平の争いが頂点に達した時代に夢の記録が多いのは一種の異様さすら感じます。九条家は、摂関家(摂政・関白を出すことのできる藤原氏内部の最上級貴族の家を言う)の家柄でした。これと深く関係しているように思うのです。平家全盛の時代は、九条家から摂政・関白がでることはありませんでした。激動の時代、政治がどうなるのか読めない時代に身を置くものとしては、九条家の将来を真剣に考えざるをえませんでした。兼実が、この時代に夢を集中してみた事、それを日記に事細かく書いた事等を考え合わせると、九条兼実の危機意識が夢をもたらしたものと結論付ける事が可能であると思います。それにしても、夢を正夢(まさゆめ)として、夢に九条家の繁栄を願う兼実の執念は凄いものです。 


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