明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

蓮花寺過去帳(4)と四句の偈(げ)

2010-04-22 10:12:48 | Weblog
陸波羅南北過去帳が、展示されている部屋の鴨居(かもい)に、北条仲時使用の長刀(なぎなた)があった。真偽の程は分からないが、いかにもと思わせる長刀である。現代の私達は、武士の戦いというと刀(かたな)での戦いを連想するが、鎌倉時代は長刀が主流である。槍は、この時代は存在しない。少し後で、菊池氏の千本槍として軍記物(太平記)に登場するのが集団で使用された例とされている。それすら、長い竹に長刀をくくりつけた物であったらしい。今は、長刀というと女性の武具となっているが、それは戦国時代後半に入ってからのこと。
六波羅武士の壮烈な最期に比較して、笑うべきは光厳天皇について来た公卿(くぎょう・・・貴族)達の腰抜けぶりである。罪を逃れようと、その場でにわかに坊主になる者が続出。往生際(おうじょうぎわ)の悪さが目だった。
「太平記」は、次のように記す。『光厳天皇第一の寵臣(ちょうしん)であった日野大納言資名は、身に危険を感じたので、近くの辻堂に泊まっていた諸国行脚(あんぎゃ)の僧をたずねて出家の意向を述べ、戒師(かいし)になってもらいたいと頼んだ。僧は簡単に引き受けて、すぐに髪を切り落とそうとした。そこで、資名が慌てて言った。「出家する時は、何とかという四句の偈(げ)を唱えると聞いておりますが?」しかし、行脚の僧は四句の偈を知らなかったらしく、思いついた「如是畜生発菩提心」と唱えて、資名の髪を切ってしましった。このでたらめな偈を聞くと、いっしょに出家しようとしていた三河守友俊が、「いくら生命が惜しくて坊主になるのだといっても、あなたはこれ畜生なり、と唱えられたのでは、あまりに情けない」と言って笑いだした。こうして、ここまでついて来た貴族達は、ここかしこで出家していまったので、天皇の側にいる貴族は二人だけになってしまった」とある。
出家の時に、となえる四句の偈とは、浄土真宗の葬儀においても、今でも使われている偈である。浄土真宗本願寺派では、法名の受式は生前に行う。法名とは、釈○○という仏法に帰依(きえ)した人に授与される名前。つまり、「仏の教えをもって人生を生き抜いていく」という自覚の証(あか)しとしてつけられる名前。法名をいただくには帰敬式(おかみそり)を受けなければならない。本山にて、ご門主みずからが、ときには代理の方が代行して行われる。しかし、不幸にしてご縁がない場合は、住職が代理として葬儀に先立ち法名をお授けする場合がある。その時の言葉が、四句の偈である。出家偈とも言われる
『①流転三界中・②恩愛不能断・③棄恩入無畏・④真実報恩者』の四句である。そして、三帰依文(さんきえもん)を唱えて、最中にお剃刀をして終る。この四句偈=出家偈の意味は以下の通り。
迷いの世界を輪廻している間は、恩愛を断ち切ることは難しい。しかし、思い切ってそれらを棄て、仏門に入ることは、真実に恩に応えることになるのだ。つまりこの娑婆世界を生きていくには、親の恩や肉親の愛情など、どうしても絶つことのできない絆やしがらみがあります。でもその絶ちがたい恩愛を棄てて、「無為」に入るのが真実の「報恩者」だというのです。つまり、出家して仏弟子として仏道を歩む宣言です。故に、出家偈という。
ところで、日野大納言資名の日野は、親鸞聖人のご一族。なぜならば、親鸞聖人のお父さんは、日野有範(ありのり)であった。だから、日野姓の親鸞聖人と日野大納言資名とはどこかで繋がっていくことになり、さすがに親鸞聖人も日野大納言資名の往生際の悪さに苦笑(にがわらい)しておられるであろう。いや、親鸞聖人だからこそ『人間の本質とは、所詮(しょせん)そんなものだ。我が身かわいさ。これが全て。よほど肝がすわっている人をのぞいて。だから、罪悪深思の凡夫といったのだ』と・・・・・(つづく)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿