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明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

関東を後にされる(第6段目その1)

2009-02-24 10:00:31 | Weblog
図画は、20年に及ぶ関東でのお念仏布教に別れを告げられ、京都にお帰りになる親鸞聖人のご一行を表す。62歳前後と言われているが、種々の説はあるが帰洛の原因は不明とするほかない。望郷の念にかられてというのが最大の理由かも知れない。思えば、35歳にて承元の法難により越後に流罪となられた。それから歳月は流れて25年程。親鸞聖人90年のご生涯と簡単に我々は話すが、当時の平均寿命は50歳に満たなかった。そんな中で、当時60歳前後の聖人が人生の最後にあたり、まだ歩けるうちに京都へと考えられても何ら不思議ではない。
この20年のご教化は、関東各地に多くの念仏者を育てられた。横曽根の性信房が率いる横曽根門徒、鹿島の順信房が率いる鹿島門徒、高田の真仏房・顕智房が率いる高田門徒、歎異抄で有名な唯円房等数多くの念仏者が誕生した。関東こそ、浄土真宗のゆりかごであった。その関東を離れられるのであるから、どのような理由によるのかと考えてしまうのである。
さて、親鸞聖人一行は相模国江津を過ぎ、箱根の険路に入られた。当時の箱根越えは、足柄山を経由する難路であったと想像される。その最中、しばしの休憩を取られた親鸞聖人は、この葉が風にゆられてぱらぱらと落ちるのをご覧になり、「木にあるときは同じ木にある葉っぱが、落ちるときは皆別々である。親兄弟といえども阿弥陀様のお慈悲をいただけないなら落ち逝くさきはちりちりばらばら」と思われ、同行していたお弟子の性信房に「20年に及び関東にてお同行と宿縁を結んでまいりましたが、この私が去ったあと、信心が乱れてはならぬ。性信房ご苦労ではあるが、関東に引き返し親鸞に代わって同行の御法儀をまもってくれ」といわれました。これを聞かれた性信房は、ビックリ仰天し「京都までおともし、聖人にお仕えいたします」と答えられました。(注 関東の同行を代表して、性信房が箱根まで親鸞聖人のご一行を見送ったとの説もあり)それに対して、親鸞聖人は「私の面倒はだれでもみてくれる。この親鸞に仕えると思って、関東の同行を育ててくれ」といわれた。そして、歌を詠まれた。『病む子をば、預けて帰る旅の空 こころはここに残りこそすれ』との歌であった。『どうぞ、性信房よ、我が願い聞き届けてくれ』といわれた。そこで、性信房は泣く泣く了解した。この図画は、箱根の難路を行く親鸞聖人一行の姿であるが、聖人はふりかえっておられ、関東のお同行に対する思いか、20年を過ごされた関東での生活か、又、一人去り逝く性信房との別れを惜しまれておられるのか、その複雑なこころがよく理解できる構成となっている。

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