定例法座が急遽(きゅうきょ)変更です。通常は、第4週の木曜日午後2時から。つまり、5月22日午後2時なのですが、5月28日(水曜日)午後2時に変更させていただきました。常連の皆様には大変ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。テーマは、『歎異抄第1条』です。親鸞聖人のお声を聞きましょう。
さて、『赤飯』について

悲しみのお葬式に、祝い事に出される『赤飯』とはこれいかにという事ですが、いなべ地方ではお葬式のお斎(とき)には、『唐辛子汁』とセットで必ず『赤飯』が出されてきたのです。『赤飯』こそが、先人達が浄土真宗の教えの根幹「往生浄土」の理(ことわり)を正しく理解され、『赤飯』という形で「信心正因・称名報恩」を表現された全国に誇るべき葬儀文化でした。
お釈迦様以来、仏教は宇宙の大真理(これを真如と呼びます)を悟り仏陀(ぶつだ)となる事を大命題とします。その為には、自らの様々な欲望(煩悩)を押さえる為に、定められた戒律(規則)と厳しい修行と学問が必要とされました。仏教の根幹は、自分自身を磨く自力の仏教なのです。しかし、「言うわ易く行うは難し」です。如何に多くの修行僧が涙した事でしょうか。親鸞聖人も、涙した一人なのです。まして、世俗にまみれた私達が、煩悩を絶つ事などできる筈もないのです。
しかし、親鸞聖人は法然上人の導きにより、大いなる力に目覚められました。それは、従来の自力の仏教とは180度転換した教えでした。コペルニクス的転換です。真如(真理ですから形はありません)は、全てのものを真如たらしめようと動いているのです。聖人のお言葉を使えば、「如より来生し」です。この働きにより「南無阿弥陀仏」と名乗られて、私達に届けられたようとされたのです。これが、聖人が目覚められた大いなる力です。他力仏教誕生なのです。
先人は、この道理を聞き分けて(信心正因)、我がいのちの帰する処は阿弥陀様にお任せいたしますと感謝のお念仏(称名報恩)を申されました。親鸞・蓮如のお念仏は、祈願請求のお念仏ではなく、いついかなる場合も感謝のお念仏なのです。そうなれば、死とは無ではなく再生(往生)なのです。これが「往生浄土」です。「高嶺の花」であった仏陀が、煩悩を断つことなくて日常生活のままで往生できるのです。これ以上の喜びがあろうあと、最高のお祝いである「赤飯」を葬儀の斎(とき)に出したのです。「赤飯」とは、往生浄土を形で表わすキーワードなのです。
しかし、この「往生浄土」=「赤飯」の教えが次第に忘れられ、祝いの「赤飯」を悲しみの葬儀に出すことはおかしいのではという世俗論理により廃止する動きが一部で起こってきました。そして、致命傷となったのが会館葬の一般化でした。「赤飯」の廃止と共に「往生浄土」の教えも地に落ちて今日に至っています。
今回、葬儀に際して「唐辛子汁と赤飯」は故人の遺言でした。「必ずお浄土に往生させていただく。その事を思い赤飯を出せ」との遺言でした。
さて、『赤飯』について

悲しみのお葬式に、祝い事に出される『赤飯』とはこれいかにという事ですが、いなべ地方ではお葬式のお斎(とき)には、『唐辛子汁』とセットで必ず『赤飯』が出されてきたのです。『赤飯』こそが、先人達が浄土真宗の教えの根幹「往生浄土」の理(ことわり)を正しく理解され、『赤飯』という形で「信心正因・称名報恩」を表現された全国に誇るべき葬儀文化でした。
お釈迦様以来、仏教は宇宙の大真理(これを真如と呼びます)を悟り仏陀(ぶつだ)となる事を大命題とします。その為には、自らの様々な欲望(煩悩)を押さえる為に、定められた戒律(規則)と厳しい修行と学問が必要とされました。仏教の根幹は、自分自身を磨く自力の仏教なのです。しかし、「言うわ易く行うは難し」です。如何に多くの修行僧が涙した事でしょうか。親鸞聖人も、涙した一人なのです。まして、世俗にまみれた私達が、煩悩を絶つ事などできる筈もないのです。
しかし、親鸞聖人は法然上人の導きにより、大いなる力に目覚められました。それは、従来の自力の仏教とは180度転換した教えでした。コペルニクス的転換です。真如(真理ですから形はありません)は、全てのものを真如たらしめようと動いているのです。聖人のお言葉を使えば、「如より来生し」です。この働きにより「南無阿弥陀仏」と名乗られて、私達に届けられたようとされたのです。これが、聖人が目覚められた大いなる力です。他力仏教誕生なのです。
先人は、この道理を聞き分けて(信心正因)、我がいのちの帰する処は阿弥陀様にお任せいたしますと感謝のお念仏(称名報恩)を申されました。親鸞・蓮如のお念仏は、祈願請求のお念仏ではなく、いついかなる場合も感謝のお念仏なのです。そうなれば、死とは無ではなく再生(往生)なのです。これが「往生浄土」です。「高嶺の花」であった仏陀が、煩悩を断つことなくて日常生活のままで往生できるのです。これ以上の喜びがあろうあと、最高のお祝いである「赤飯」を葬儀の斎(とき)に出したのです。「赤飯」とは、往生浄土を形で表わすキーワードなのです。
しかし、この「往生浄土」=「赤飯」の教えが次第に忘れられ、祝いの「赤飯」を悲しみの葬儀に出すことはおかしいのではという世俗論理により廃止する動きが一部で起こってきました。そして、致命傷となったのが会館葬の一般化でした。「赤飯」の廃止と共に「往生浄土」の教えも地に落ちて今日に至っています。
今回、葬儀に際して「唐辛子汁と赤飯」は故人の遺言でした。「必ずお浄土に往生させていただく。その事を思い赤飯を出せ」との遺言でした。
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