今日の午前中は、自坊の本堂にて「弥陀たのみ」が行われた。普通は、「初参式」と呼ばれている。初めて、仏様とご縁を結ばせていただく法要という意味であろう。しかし、自坊では、昔からの呼び方である「弥陀たのみ」。
今日は、お婆さん・若夫婦・子供達2人。自坊では、家族単位での「弥陀たのみ」。今年は、4組目。若いお父さんは、自坊にて毎年行われる12月7日の「子供の報恩講」の卒業生。だから、私は「ひさしぶりやなー」という話から始まり、「本堂は、懐かしいですねー」と返事。若い奥さんに、当時の事を説明されている。これが相続なのだと思います。難しい理屈はいりません。
この「弥陀たのみ」という呼び方は、あきらかに『御文章』から来ている。蓮如上人のお手紙である『御文章(お文)』から、「たのむ」・「たのみ」等の言葉を探す事は難しくありません。
例えば、五帖第6通には冒頭から「一念に弥陀をたのみたてまつる行者には」(浄土真宗聖典註釈版1192頁)と出てくる。「たのみ」というとこちらから、阿弥陀様にお願いするように思われるが、決してそうではない。浄土真宗の法話のポイントは、つねに臨終法話の筈。
蓮如上人は、「仏法には明日ということはあるまじき」(浄土真宗聖典註釈版1280頁)と云われた。この意味は、今いのちの終りでも、ちゃんと阿弥陀様の救いの法は届いているという事。これを平生業成(へいぜいごうじょう)という。
平生といったら「今」である。明日になったら平生とはいいません。つまり、この私が今いるところが助かる場所。この場所に、阿弥陀様の「我にまかせよ。我をたのめ」という南無阿弥陀仏の救いの法が届けられている。「助かる」が先に届いている。
だから、「弥陀たのみ」とは、若い夫婦が、人生どんな事があろうとも、決して見捨てる事のない阿弥陀様の働きを確認する場である。それがあって、わが子の誕生が、この子が私達を親としてようこそ生まれてくれた.まさに有る事難(かた)として受け取ることができるのではないでしょうか。・・・・・ですから、自坊では「初参式」とはいわずに「弥陀たのみ」と称しています。
今日は、お婆さん・若夫婦・子供達2人。自坊では、家族単位での「弥陀たのみ」。今年は、4組目。若いお父さんは、自坊にて毎年行われる12月7日の「子供の報恩講」の卒業生。だから、私は「ひさしぶりやなー」という話から始まり、「本堂は、懐かしいですねー」と返事。若い奥さんに、当時の事を説明されている。これが相続なのだと思います。難しい理屈はいりません。
この「弥陀たのみ」という呼び方は、あきらかに『御文章』から来ている。蓮如上人のお手紙である『御文章(お文)』から、「たのむ」・「たのみ」等の言葉を探す事は難しくありません。
例えば、五帖第6通には冒頭から「一念に弥陀をたのみたてまつる行者には」(浄土真宗聖典註釈版1192頁)と出てくる。「たのみ」というとこちらから、阿弥陀様にお願いするように思われるが、決してそうではない。浄土真宗の法話のポイントは、つねに臨終法話の筈。
蓮如上人は、「仏法には明日ということはあるまじき」(浄土真宗聖典註釈版1280頁)と云われた。この意味は、今いのちの終りでも、ちゃんと阿弥陀様の救いの法は届いているという事。これを平生業成(へいぜいごうじょう)という。
平生といったら「今」である。明日になったら平生とはいいません。つまり、この私が今いるところが助かる場所。この場所に、阿弥陀様の「我にまかせよ。我をたのめ」という南無阿弥陀仏の救いの法が届けられている。「助かる」が先に届いている。
だから、「弥陀たのみ」とは、若い夫婦が、人生どんな事があろうとも、決して見捨てる事のない阿弥陀様の働きを確認する場である。それがあって、わが子の誕生が、この子が私達を親としてようこそ生まれてくれた.まさに有る事難(かた)として受け取ることができるのではないでしょうか。・・・・・ですから、自坊では「初参式」とはいわずに「弥陀たのみ」と称しています。
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