明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

面影びとは法然・・・・⑧

2010-07-24 21:20:45 | Weblog
内親王(天皇の娘)の場合は、以前述べたようにいかなる高位高官であろうと臣下とは結婚できなかった。特に、式子内親王の場合は絶対に不可能であった。何故ならば、彼女は斎院であった。私達は、斎宮と言えば伊勢の斎宮を思に出すが、平安時代にはもう一つ斎宮があった。賀茂斎院である。伊勢の斎宮も賀茂の斎院も、天皇の名代として神に奉仕するのであるから、有資格者の女性は未婚の内親王か女王(内親王の娘)と決められていた。大勢の女性達に囲まれて、ただ神のみに奉仕したのが斎宮(伊勢神宮の場合)・斎院(賀茂斎院の場合)である。恋愛等は許される筈はなかった。

写真は、インターネット王朝ロマン絵巻より複写
今でも、京都三大祭りの一つである葵祭りは有名。古くは賀茂祭と呼ばれ、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさすほど有名であった。 この祭の特徴は、平安時代以来、国家的な行事として行われてきたので、わが国の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統そのままに繰り広げられてきた。この賀茂祭りの主役が、賀茂斎院であった。今でも、祭りの主役である斎王代になれば、テレビ・新聞等で報道され名誉極まりなものとされている。

写真は、葵祭りの主役である斎院代
式子内親王が、賀茂の斎院となったのは、石丸晶子さんは、その本(式子内親王伝 40頁)で6歳前後と記されている。そして、10年近く賀茂斎院として神に仕えてきた。そして、賀茂斎院をやめた後も「斎院」と呼ばれ、人々の平凡な生活とも無縁な女性として存在した。恋愛も、まして結婚など許される事ではなかった。幼児期を、斎院として純粋培養で育ち、思春期をむかえても人を好きにもなれない立場。これ程に残酷な事はないであろう。これも、自らが選択した道であるならば耐え忍ぶ事もできるであろう。しかし、斎院の立場は強制されたものである。これ程にむなしいものはないのではないか。絶世の美女という表現があるが、式子内親王も美貌の持ち主、目のやりばのない程の美人であったと言われている。そんな女性が、結婚する事すら許されないのである。彼女程の高位の身分になると、男性といえば高級貴族でも殆ど近づく事すらできない境遇におかれていた。

写真は、葵祭りの斎院代
そんな中で、唯一例外があった。僧侶である。平安時代は、何か異変があれば霊験あらたかと評判の僧侶が宮中奥深く呼ばれ加持(かじ)祈祷(きとう)をし、悪霊を払った。法然上人もその一人である。専修念仏の教えにより、念仏以外の一切の行(ぎょう)を否定した法然上人であるが、「祈祷・授戒」等に呼ばれれば行っておられる。矛盾といえば、これ以上の矛盾はないが専修念仏の教えを確立していく途中の法然上人からすれば、いたしかたない事と割り切られているのではないか。しかし、このようなルートから式子内親王がおられる八条院の屋敷にも出入りが可能となり、そこで出合いがあったというのが石丸晶子さんの説なのである。他の男性との交流が極めて限られている中での、式子内親王の歌の中味の大きな変化。忍ぶ恋歌を、次々と詠われるのは法然上人の出合いがあればこそと言われているのである。
つまり、承如房(式子内親王の出家後の法名)が、法然上人のお手紙が書き写される過程で、正如房と変化したとの説(面影びとは法然③を参照)。もう一つは、式子内親王のおかれた境遇から、出合う可能性のある男性は法然上人しかおられないというのが、正如房=式子内親王説なのである(石丸晶子さん)。しかし、これは状況証拠の積重ねである。だから、このシリーズの最後に正如房=式子内親王であると判断する自分の考えをのべてみたい。・・・・明日に続く

最新の画像もっと見る

コメントを投稿