明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

琵琶湖に浮かぶ沖島の西福寺さん参詣・・・・最終回

2014-06-21 00:09:48 | Weblog
今日も、菩提樹の花の見学に大勢の皆さんが来寺。特に印象に残った方が。菰野町から来られたご婦人。菩提樹のみならず本堂も熱心に見学。一旦帰られたのですが、午後になり再び来られたのです。今度はご夫婦でした。そのご婦人曰く「菩提樹の香りもさることながら、本堂の素晴らしさに感心しました。主人も是非にと一緒に来ました」との話。本当に有難いお言葉です。
写真・・・・午前10時過ぎの見学者の皆さん。

さて、私達は6月19日12時30分に琵琶湖に浮かぶ沖島に上陸。

沖島は、現在の人口は約350人。自動車が一台も無い島。三輪自転車が主力。沖島小学校の新聞には、「皆が家族。助け合って生きる島」とあります。
対岸の掘切港には、立派な看板がありました。それは、食堂の看板。名物の鮒寿司等の食事ができると書いてありました。そこで、「昼食は沖島で」と決定。ところが、閉まっていたのです。聞けば予約制。「ガックリ」とはこの事。信心参りとは言え、空腹に耐えかねて・・・の心境。
沖島のメインストリート。夜の仕事(漁業)中心のために昼間はご覧の通り。

私達は、迷路のような通路を西福寺さんへ。

西福寺さんは浄土真宗本願寺派(西)のお寺。蓮如上人縁(ゆかり)のお寺なのです。

境内には、かわいい蓮如上人像が・・沖島紹介のパンフレットには必ず掲載。

当時、本願寺は蓮如上人が第8代宗主を継承し活発は伝道布教を実践。その事に脅威を覚えた比叡山延暦寺の一部衆徒は京都大谷の本願寺を破却した。寛正の法難である。1465年、蓮如上人51歳の時であった。以降、蓮如上人は活動の舞台も琵琶湖周辺地域に移し、熱心な門徒群に支えられて本願寺は大きく飛躍の時を迎えていたのです。その中心になったのが、堅田衆と呼ばれた琵琶湖の商業権を一手に把握する人々でした。その代表的人物が、堅田の法住。彼らに支えられて、本願寺の教線は大きく伸びて拡大。その事に恐れをなした比叡山は、室町幕府と結託し応仁2年(1468年)に堅田大責を決行。5日間の攻防の末に、堅田は焼き払われ、堅田衆は沖島に敗走したのです。ここに沖島と浄土真宗の結びつきが成立。
この堅田大責を描く蓮如絵伝(善行寺蔵)沖島に敗走する堅田衆。

尚、西福寺さんには蓮如上人の六字名号・蓮如絵伝等が公開されており、8月17日当日にはご説明いただけるとの事です。
西福寺本堂にて、ご住職と共に。

午後2時15分の定期船に乗船し、私達は帰路につきました。
「沖島さらば、また来る日まで、はるかにかすむ比良山系、かえりみすれば遠ざかる沖島さらば」という心で撮影。




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