明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

私用にて茨城県へ・・・・・(稲田の御坊・西念寺さんの巻き)

2012-08-01 02:48:14 | Weblog
大覚寺さんから稲田の御坊西念寺さんへ・・・
大覚寺さんから稲田御坊(西念寺)さんへは、板敷山を越えればすぐそこ。稲田御坊、こここそが親鸞聖人関東20年の中心となったお寺。今は、別格本山西念寺と名乗られている。
写真・・グラビア等で紹介される機会が多い稲田御坊(西念寺さん)の山門。往古の昔を感じさせる山門です。「今にも、聖人が姿をお見せに」という錯覚すら起こります。

あの山伏弁円が、親鸞聖人を襲撃し、懺悔(ざんげ)の心をおこして改心。聖人から「明法房」という法名をいただいたのもこの稲田草庵。
写真・・今も稲田御坊に残る弁円改心の場所。

ここ稲田御坊は、聖人関東伝道の中心地。多くのお弟子が、ここを訪れて聖人からお念仏の奥義を聴聞(ちょうもん)されたでありましょう。そして、彼らがそれぞれの土地でお念仏の信者を増やしていかれた。性信の横曽根門徒、順信の鹿島門徒、真仏・顕智の高田門徒等です。ここに、初期真宗教団の原型が成立しました。
写真・・稲田草庵に集まり聴聞する人々(関東絵伝より)

そして、何といっても稲田草庵は、浄土真宗のご本典(ほんでん)である『教行信証』の原型が完成した場所でもあります。親鸞聖人52歳の時といわれています。
写真・・・聖人が関東から京都にお帰りになられる際に、信頼する弟子の性信に渡されたという『坂東(ばんどう)本教行信証』。長く性信のお寺である坂東報恩寺に伝来した。故に坂東本と呼ぶ。現在は、東本願寺蔵となっている。

写真・・『教行信証』は6巻からなります。私達が、日常勤行する『正信げ』は『教行信証』の行巻にあります。

写真・・教行信証を講義される親鸞聖人(赤い机には、本がおかれ聖人が講義)関東絵伝より。

そして、稲田御坊の内陣左余間には、聖人の内室である恵信尼様(玉日姫)の坐像が置かれています。今井先生の説明によれば、この坐像は2体あるそうです。恵信尼様こそ、聖人の関東伝道20年を支えてこられた方です。にこやかに微笑むような恵信尼様のお顔が印象的です。関東の人々に大変慕われていた事がうかがわれます。近くには、玉日御廟もあり地元の人々により守られている事からも判ります。

親鸞聖人の妻である恵信尼様、江戸期までは玉日姫として知られていました。親鸞聖人の一代記である『親鸞聖人正統伝(江戸中期に成立)』にも、玉日姫とあります。
写真・・聖人を慕い京都から稲田草庵を訪ねられた玉日姫(関東絵伝)

色々な思いを抱きながら、稲田草庵(西念寺)本堂前にて記念写真。偶然ですが、強い西日を受けて後光(ごこう)がさしているように映っています。お気に入りの一枚。

さて、親鸞聖人関東伝道20年も終わりの時が来ました。聖人62歳(60歳とも)の時に、京都にお帰りになったのです。その際に、聖人が別れを惜しまれたのが今に残る『見返り橋』。
写真・・見返り橋にて説明される今井先生。奥の森が稲田草庵。

この橋の上で、聖人は別れを惜しまれ歌を読まれました。『別れじをさのみ なげなくな法(のり)の友 また会う国の ありと思えば』です。橋横の石碑に刻まれています。今井先生は、このお歌が大好きだそうで、この歌に聖人の思想が全て込められているとのお話でした。よくよく味あえばなるほどと納得です。
写真・・関東絵伝に描かれた別れの場面。橋を渡る聖人一向が描かれています。

さて、稲田草庵(西念寺)を後にするにあたって、後を振り返って見れば、昨年の大震災の影響をうけて、土塀が大きく崩壊しているではありませんか。こんなところにも、震災の影響は出ているのです。

続く・・・






最新の画像もっと見る

コメントを投稿