明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

217000人 員弁組伝道研究会研修・・・その4(越中篇②瑞泉寺・・如乗の事)

2014-05-26 12:51:44 | Weblog
現在、瑞泉寺は真宗大谷派の別院。しかし、瑞泉寺は単なる別院ではありません、「北陸の本願寺」とも称される大伽藍を誇る寺院なのです。

瑞泉寺の現本堂は、明治12年(1879年)の3度目の火災の後に、明治18年(1845年)に再建さたもの。係りの方に聞きましたら、畳の数が内陣・外陣合わせて450畳。本堂柱は80本との事。その規模の大きさにビックリです。当日も、大勢の参詣者が訪れていました。写真は、文化6年(1809年)建立の大門(山門)。参詣者の皆さんが、大門を見あげています。

瑞泉寺の歴史は、明徳元年(1390年)の本願寺第5代宗主綽如上人建立以来幾多の波乱万丈の歴史を刻んできました。この瑞泉寺史のなかで、現代に至る繁栄の基礎を築いた如乗という人物を触れない訳にはいきません。この如乗という人物が、本願寺史に登場しなかったならば本願寺も消えている可能性が大なのです。
如乗は、本願寺第6代宗主の巧如上人の次男。長男が、本願寺第7代宗主の存如上人。つまり、「本願寺再興の人」と呼ばれる蓮如上人の父親なのです。蓮如上人誕生当時(1415年=応永22年)の本願寺は、衰亡のどん底にありました。それは「人跡たえて、参詣の人ひとりもなく。さびさびとしておわします」(堅田本福寺跡書)の言葉が全てを物語っています。
このような状態の本願寺に生を受けられたのが蓮如上人でした。しかも、存如上人の長男として蓮如は誕生していますが、母親は名前すら判明していない女性なのです。それ故に、当時としては蓮如の母が存如の正室に収まることは全く考えられませんでした。しばらくして、存如の正室として如円(室町幕府奉行職の海老名氏の娘)を迎える話が決まりました。蓮如、数え6歳の年です。蓮如の母は、蓮如の将来の為に本願寺を去ったのです。応永27年12月28日夜のことであったと伝えられています。
写真 蓮如絵伝第1巻(蓮如の母、本願寺を去る)雪が積もった本願寺をただ一人去る母親。母親の手元には、蓮如の形見である「鹿の子の小袖」の巻物がしっかりと握られている。私は、この場面に蓮如の思いが全て込められていると思うのです。

存如上人と如円との間には、3女1男が生まれており、蓮如は継母である如円の冷たい仕打ちのなかで少年期・青年期を過ごされたのです。その間、蓮如は15歳にして「本願寺再興」を決意し、猛烈な勉学に勤しまれるのです。
そして、運命の歳を迎えます。蓮如の父である存如がこの世を去ったのです。長禄元年(1457年)、蓮如43歳の時でした。異母弟の応玄は25歳。本願寺第8代宗主に誰がなるのかが現実の話として動き出したのです。継母の如円は、我が子の応玄の宗主就任に向けて着々と手を打ちました。葬儀委員長につけ、宗主代行として葬儀を仕切らせれましたが、親戚も有力門徒からも異義は出ず、応玄の本願寺第8代宗主就任は99パーセント確実でした。
この流れに待ったをかけたのが、越中から駆けつけた存如の弟である如乗だったのです。
如乗は、蓮如の3歳違いの叔父にあたり、越中国井波の瑞泉寺と加賀国の本泉寺の住職を兼ね備えた北陸地方の本願寺教団重鎮として重きを成していた人物です。この人物の働きにより、大逆転の形で蓮如上人が本願寺第8代宗主に就任することができたのです。
これは実にきわどい事でした。本願寺教団の事実上の分かれ道だったのです。如乗の働きがあってこそ現在の本願寺があり、仮に如乗が存在しなかったなら本願寺の存続は殆ど皆無と考えてられるのです。如乗の恩というものは高く評価しなければなりません。ですから、蓮如上人も生涯に渡って瑞泉寺を大切に思われ破格の待遇を与え続けられたのです。
このブログの訪問者が、217000人(正確には、217204人)を超えていました。いつも訪問していただき有難うございます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿