井波(いなみ)は、欄間等の井波彫刻のメッカ。その井波彫刻の粋を集めて大正7年(1918年)再建されたのが瑞泉寺の太子堂。(太子堂も明治12年(1879年)の大火事で消失)太子堂の本尊は聖徳太子像。親鸞聖人は、聖徳太子を「和国の教主」(意味は、日本において初めて仏教を広められた人物)と讃えられ生涯崇高の念を持たれました。それを受けて、初期真宗門徒の太子信仰は強烈なものがありました。私達が、瑞泉寺太子堂にお参りしたとき堂内では3人の僧侶がお勤めの最中。丁度、『高僧和讃』の曇鸞章の「罪障功徳の体となる・・・」等が勤められていました。お東の哀調ある節回しを心静かに拝聴しました。
その太子堂に、前立本尊として置かれておりましたのが、聖徳太子2歳の像と呼ばれる「南無太子像」です。「南無太子像」の本物は、1390年にの瑞泉寺建立にあたり時の朝廷から授けられたと伝承されています。
写真・・前立本尊の「南無太子像」(撮影禁止だと思います・・でも、お許し下さい)

そして、瑞泉寺(蔵)として聖徳太子のご一生を描いた「聖徳太子絵伝」8幅があります。毎年、7月21日から7月28日にかけて絵解きが行われており、大勢の参拝者で太子堂は満堂となるとの事です。・・・・参加者の中から「是非にも聞きたい」との声あり。各自で、お参り下さい。
写真・・・絵解き風景

写真・・・聖徳太子絵伝の一部(ただし、写真の絵伝は自坊蔵の聖徳太子絵伝を撮影)
場面は、「崇仏・廃仏の対立の場面」。聖徳太子の時代(飛鳥時代)、仏教を受け入れるか、仏教を排除するかで朝廷内に大きな対立があった。それを描く場面。中央の仏様は、有名な一光三尊の善光寺如来様である。

この太子堂は、井波彫刻の粋を集めて建立されたとありますが、僧侶として「ため息」が出そうな程に素晴らしい彫刻の数々です。ここに紹介。
写真・・・太子堂廊下縁にて彫刻を見あげる皆さん。

井波彫刻の粋・・唐獅子

同じく・・・・・孔雀

続く・・・・・
その太子堂に、前立本尊として置かれておりましたのが、聖徳太子2歳の像と呼ばれる「南無太子像」です。「南無太子像」の本物は、1390年にの瑞泉寺建立にあたり時の朝廷から授けられたと伝承されています。
写真・・前立本尊の「南無太子像」(撮影禁止だと思います・・でも、お許し下さい)

そして、瑞泉寺(蔵)として聖徳太子のご一生を描いた「聖徳太子絵伝」8幅があります。毎年、7月21日から7月28日にかけて絵解きが行われており、大勢の参拝者で太子堂は満堂となるとの事です。・・・・参加者の中から「是非にも聞きたい」との声あり。各自で、お参り下さい。
写真・・・絵解き風景

写真・・・聖徳太子絵伝の一部(ただし、写真の絵伝は自坊蔵の聖徳太子絵伝を撮影)
場面は、「崇仏・廃仏の対立の場面」。聖徳太子の時代(飛鳥時代)、仏教を受け入れるか、仏教を排除するかで朝廷内に大きな対立があった。それを描く場面。中央の仏様は、有名な一光三尊の善光寺如来様である。

この太子堂は、井波彫刻の粋を集めて建立されたとありますが、僧侶として「ため息」が出そうな程に素晴らしい彫刻の数々です。ここに紹介。
写真・・・太子堂廊下縁にて彫刻を見あげる皆さん。

井波彫刻の粋・・唐獅子

同じく・・・・・孔雀

続く・・・・・
北関東に在します本願寺門徒でございます。
突然、コメントいたしまして失礼いたします。ご住職様も先日、一身田、
高田派の一光三尊佛をご参拝されたと拝見しましたがこの一光三尊佛で
不思議でならないことがございます。高田派の本寺は私の家からすぐ近く
ですので3月末、参拝に行き、まじかにご尊顔を拝しました。ところが阿弥陀
如来様のお顔、お姿が普段、見慣れている阿弥陀様と違うのです。
また、左手が刀印(チョキ)となっています。なぜ、あのようなお顔、お姿なの
でしょうか。ご住職様はなにか御存じではないでしょうか。高田派本寺では
仏様から1.5Mもしない近さであり、不思議に思い2日も参拝に行きました。