明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

三井寺・・・・観音堂にて

2010-08-23 21:27:57 | Weblog
観音堂は,親鸞聖人・蓮如上人のお木像(御影像)とご本尊・六字名号(南無阿弥陀仏の事)が、歴代荘厳されてきたお堂でもあるのです。
天台宗寺門派総本山執事の梅村敏明先生が、私達を出迎えていただきました。私達は、観音堂外陣の別室に荘厳されてきましたお木像にお参りをしました。
何より、参加者一同感激しましたのは、先生のご配慮でありましょう、お蝋燭は火が灯り、焼香できるように火のついた香炭が入れられていた事でした。全員が、お焼香させていただきました。
観音堂外陣別室仏間に荘厳された蓮如上人像(左側)

観音堂外陣別室仏間に荘厳されたご本尊の六字名号(中央)

観音堂外陣別室仏間に荘厳された親鸞聖人像(右側)

今回の研修の目的は、上記のお木像等にお参りさせていただくことでありました。そして、天台宗寺院である三井寺観音堂に、何ゆえ真宗ご縁のお木像等を荘厳されてきたのかをご説明いただく事でありました。研修参加者全員で、讃仏偈をお勤めさせていただき、執事の梅村敏明先生からのご法話を聞きました。

梅村敏明先生は、次のようにお話されました。
「本願寺は、第8代蓮如上人の御活躍の時代。本願寺の勢力拡大を恐れた比叡山延暦寺の僧兵は、大谷本願寺焼討(寛正の法難という)を実行した。命がけで本願寺から持ち出された親鸞聖人御像(御真影)は、蓮如上人と共に滋賀県各地を転々としていた。その後、蓮如上人は本願寺教団確立をめざして越前国吉崎に向かわれる。
その時、蓮如上人は比叡山延暦寺と厳しい対立を繰り返してきた三井寺に注目された。親鸞聖人御像(御真影)は、本願寺再興の時まで三井寺にお預けするのが一番安全と考えられたのです。ここに、親鸞聖人の御像は安住の住みかを得られ、蓮如上人は吉崎に行かれたのであります。
その後、幾多の困難を乗越えられた蓮如上人は、文明12年(1480年)山科の地に山科本願寺を建立された。ここで、有名な「かたた源兵衛の首」の伝説を述べねばならなりません。蓮如とその側近は、三井寺に親鸞聖人の御像の返還を求めました。三井寺はこの要求を拒否しました。理由は、当時の真宗門徒は親鸞聖人の御真影あるところに大挙してお参りしていました。三井寺としては、御真影が山科本願寺に移られてはお参りが激減する。その為には、三井寺に御真影があった方がよいとの判断であった。
そこで、「生首(なまくび)を二つ持ってくれば返してやる」との無理難題。熱心な門信徒であった堅田の源右衛門は、この無理難題を聞きつけ、源右衛門は息子の源兵衛の首を持参し、もう一つは自分の命を差し出すからと返還を懇願する。慌てた三井寺は、源右衛門に親鸞聖人の御真影を持ち帰るように命じたという。その後、蓮如上人は親鸞聖人御影を三井寺に寄進。この聖人御影が、観音堂に伝来する聖人像と言われているのです」と話された。
その後、梅村先生と共に観音堂にて参加者全員の記念写真を撮影しました。


明日に続く・・・・・最終回



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