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明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

233000人 撮影(3)

2014-09-12 06:15:20 | Weblog
撮影スタップ(10名)は大阪から。早速、撮影開始。勿論、こんな大がかりな撮影現場を直に見るのは初めて。

何を撮影しているのか。事前に用意されたお膳を撮影。

このお膳の献立が自坊取材の主たる目的なのです。

この精進料理は、三重県いなべ地方(三重県北部山間部)の伝統的なお葬式の料理です。つい最近まで、自宅葬が当たり前でした。その時には、必ず振舞われた精進料理)。この精進料理の献立のなかで、目に引くのが「赤飯と唐辛子汁」。全国的にも、いなべ地方だけに伝わってきた「赤飯と唐辛子汁」の献立と思われます。何故に、葬儀に際しての精進料理に「赤飯と唐辛子汁」が必ずついたのか???これについては、後に詳しく解説。
このお膳一式の撮影に何と30分以上の時間が費やされました。
撮影は内陣に進みます。ご本尊の宮殿(くうでん)が撮影。ここには、浄土真宗のご本尊、阿弥陀如来様がおあします。

そして、撮影は庫裡(くり)の土間に移動。ここが調理現場。皆さん、土間の広さにビックリ仰天。自坊の庫裡は、江戸後期(1830年)に建てられた典型的な浄土真宗の庫裡構造。この土間にて、ご門徒が煮炊きできる構造になっています。報恩講のお斎(とき)も全てここで調理されます。昨年(H25.4.15)に修行された二法要(親鸞聖人750回大遠忌法要・本堂修復法要)に際しても、ふる回転にて約500人分の精進料理をここで調理したのです。

写真・・おくどさんにて「赤飯」・手前の大鍋にて「唐辛子汁」が・・・
続く・・・・
このブログの訪問者が、233000人(正確には、233153人)を超えていました。いつも訪問していただき感謝申し上げます。

撮影・・・・(2)

2014-09-10 23:23:36 | Weblog
9月9日・・・撮影当日(この秋一番の秋晴れ。撮影には絶好のコンディション)
06:30
、おくどさん(竈)に火が入りました。このおくどさんは、築いて50数年。まだまだ現役のバリバリ。略(ほぼ)私の人生と重なります。ここで、赤飯が2回に渡って蒸しあがります。

08:30・・・準備作業の開始
テキパキと進みます。皆さん、「報恩講等のお斎(とき=精進料理)の人数と比べたら今日は30人程度です。軽いもの」と自信顔。頼もしい限りです。

一方、盛りつけも始まっています。味は、昨日仕込んである絶品。後は、いかに鮮やかに見せるのかで試行錯誤。

で、自信作は下の写真。納得の盛りつけです。

お豆さんもほどよい硬さです。

10:00・・・
「腹が減っては戦はできぬ」とばかりに、はやばやと昼食タイム。撮影本番もこの席順。予行演習も予ねております。今は笑顔満開ですが、本番では凍りつかないことを願うばかりです。

あるご婦人が、食後のデザートにと栗きんとん等を。食すればまさに美味。いつも心づくしのお菓子の差し入れ。本当に有難うございます。

10:40
撮影スタッフの到着。総勢10名。挨拶もそこそこに事前に用意された精進料理一式を撮影開始。

続く・・・・



撮影・・・(1)

2014-09-09 23:38:28 | Weblog
依頼があった。お山から直々のご依頼。「いなべ地方でお葬式に出される唐辛子汁と赤飯を再現し説明して欲しい」という話。しかもテレビ放映。1時間番組のなかで、10分~15分を当てるという。こうなれば「ノー」とはいえません。
しかし、ご門徒の皆さんのご協力が是非とも必要。で、年行事のご婦人・門徒総代の奥さんに突然のお願いをした。皆さん2つ返事で「やりましょう!!!」との嬉しい答え。お勤めの方もおられます。「年休をとります。こんな事は2度とありませんから」との話。門徒のお寺離れと言われるなかで本当に有難い事です。
9月8日事前準備⇔午後3時集合(話し合いの結果)
①椀(わん)等は漆器類を使用する。瀬戸物類は使用しない。
②いなべ地方の葬儀用の精進料理を完全に復元する。
住職の意向を汲んでいただき以上の2点が決定。
写真 ずらりとセットされた漆器類。めし椀・汁椀等の4点セットで一組。

写真 おくどさん用にうず高く積まれた割木。これを当日燃やし赤飯を蒸します。

写真 煮物の炊き込みが始まりました。

続く・・・



今宵は中秋の名月なり・・・・・

2014-09-09 01:00:59 | Weblog
今宵は、思わず両手を合わせたくなる程の見事な中秋の名月。雲一つない中天に煌々と輝いています。皆さんもご覧になったのではと思います。

月光とは、なんと澄み切った光なのでしょうか。心のなかまで照らされるようです。まさに智慧光です。法然上人のあのお歌が思いだされます。

月影の いたらぬ里は なけれども
眺むる人の 心にぞすむ

歌のこころは
月光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺める人以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて心から「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人のみが阿弥陀仏の救いをこうむることができるとなります。
法然上人は「月かげ」のお歌に、『仏説観無量寿経』の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生摂取不捨」のこころを説きお示しくださったのです。

9月9日・・・ご本山・本願寺が自坊を。取材・撮影目前に迫る・・・・・

2014-09-08 01:33:54 | Weblog
9月9日に、ご本山・本願寺から依頼を受けられた取材チームが、ある目的で自坊を訪問。取材と撮影をされます。しかも、リポーターとして有名女優さんが同行。これは、自坊にとっても大事件。私も、頭髪を短くきりました。皆さんから、髪の毛を短く切れとの大合唱・・・・
ともかくも、今日の秋季永代経法要が修了した瞬間から、頭は完全に切り替わりました。お待ち受けの準備です。参詣の皆さんにお願いし、本堂内の椅子と座布団を所定の場所に収納。ここからお待ち受けの始まりです。
門徒総代さんと奥さんで、当日使用する漆器類の蔵出し作業です。これが大変な作業となりました。自坊は、報恩講のお斎(とき)には漆器類を使用していますが、今回の漆器類は普段は使用しない完全版。この組み方が一筋縄ではいきませんでした。ワイワイと話は弾みますが一向に進まず。何しろ使わなくなって何十年です。

それでも、1時間程の作業の結果、14組の完全バージョンが完成。漆器類は凄いです。全く痛んでおりません。黒光りの光沢の輝きすら放っています。

明日は、年行事のご婦人方に出ていただき当日用精進料理の仕込みをしていただきます。私は、昨晩吹き荒れた豪雨の為に、落葉が境内に散乱状態。これの掃除に専念。頭が痛い話です。明日には、明細をブログにて投稿できるものと思われます。
尚、広島豪雨災害義損金は秋季永代経中に約2万6千円を寄せていただきました。先ずは、ブログにて御礼申し上げます。明日、振込みます。



『如月の華』の主役、今村文子さんより葉書・・・

2014-09-08 00:26:33 | Weblog
『如月の華』の主役、前進座の今村文子さんより葉書が届きました。
今村文子さんは、8月30日に自坊で開催された員弁組寺院女性連盟と仏教婦人会連盟の合同研修会に、『如月の華』のPRに来られました。『如月の華』は、九条武子さんの物語。九条武子さん役を今村文子さんが勤められる。

その今村文子さんから葉書が届いたので応援の意味で全文紹介。
「先日は大変お世話になりました。
あたたかく励ましてくださるお言葉に
勇気づけられました。
稽古入りの為に帰京致しました。
力強くしなやかに生き抜かれた武子様のご生涯
精一杯つとめます。
季節の変わりめ、くれぐれもご自愛くださいませ。」
以上が全文です。是非とも、九条武子さんを見事に演じきっていただきたいと思うものです。
自坊書院にて休憩中の今村文子さんが、芳名帳にさらさらと書かれたのが下の写真。

如月の華
武子さまに
めぐり逢える幸せ想い
精一杯つとめます
と書かれてあります。三重の地から『如月の華』の成功を願うものです!!!!!!

秋季永代経法要と無憂華(むゆうげ)仏教婦人会研修会

2014-09-07 08:00:24 | Weblog
昨日から自坊にて秋季永代経法要(9月6日7日)です。
ご講師は、東海教区鈴鹿組存仁寺ご住職の山田教尚先生。

8月2日3日の夏季永代経法要から始まった夏の聞法シリーズ。今年は、員弁組関係・藤原仏教会関係の法座も入りハードスケジュール。かなり疲れていますが、ようやく終盤を迎えました。でも、ご門徒さんは熱心にご聴聞していただきます。頭が下る思いです。

この1月余りで、複数のご門徒さんは延べ9日間の行事・聴聞(ちょうもん)等にご参加です。所謂(いわゆる)皆勤賞。何はさておいても先ずは聴聞の姿勢。現代社会にあっては稀有(けう)なる事です。しかし、このような姿勢の方ですが僅かですが増えてきました。困難ですが、その輪を広めていくことが何より大切。
中国の善導(ぜんどう)大師の、『往生礼讃(おうじょうらいさん)』は「初夜偈(しょやげ)」に曰く
自信教人信(じしんきょうにんしん)
     訳 自ら信じ人に本願念仏を伝えること
難中転更難(なんちゅうてんきょうなん)
     訳 難しいなかでも難しい
大悲伝普化(だいひでんふけ)
     訳 しかし、救われた喜びのもと如来の大悲を伝えること
真成報仏恩(しんじょうほうぶっとん)
     訳 これがまことの如来の恩に報いることなのである
親鸞聖人も、度々ご引用になっておられる有名な極めて大切なお言葉。真宗僧侶として、ビタ一文もぶれてはならぬこと。これ以外にはないのです。
山田先生のお取次ぎは、救い取って捨てることのない阿弥陀様のお働き(摂取不捨)についてのご法話でした。不思議に思う事があります。最近は、お寺の本堂でも椅子席が殆どです。あえて椅子に座らず座布団の上にお座りになられる方も多数。これは、どういう事かと考えております。

広島災害募金も呼びかけました。1万8千円が寄せられました。今日(9月7日)分とあわせて安芸教区災害対策委員会に送金させていただきます。
さて、三重県北部は夕方から雷鳴轟く大雨。そのなかで、員弁組25日講仏教婦人会の研修会が藤原町の妙宗寺さんでありました。講師は、私でした。講題は、「あなかしこ」としました。蓮如上人は、ご文章末尾のお言葉。「なんともったいことであろうか」と私が頷(うなづ)く為には、自分が下品下生(げぼんげしょう)の悪人であることを知らねばならないのです。この事をお取次ぎいたしました。最近のご法話は、一番大切なこと事を余り触れられないように思います。これでいいのでしょうか???と思います。
ここでも、広島災害募金を呼びかけて1万7千円が寄せられました。

後は、いよいよ9月9日の大勝負です。その為に、髪の毛も短くしました。



明日(9月6日7日)から秋季永代経法要と小さな学習会(9月2日)

2014-09-05 13:28:44 | Weblog
秋季永代経法要ご案内
日程 9月6日7日と秋季永代経法要
時間 午後2時から
講師 山田教尚先生(東海教区鈴鹿組存仁寺住職)

すっくりしない天気が続きますが、上記日程で秋季永代経法要を修行いたしますので、お誘いあわせのうえご参詣いただきますようご案内申し上げます。

小さな学習会(9月2日)
この学習会は、「太子信仰」を勉強する小さな学習会です。「太子信仰」とは、基本的には聖徳太子を信仰する事をいいいます。参加者は、いつもの2人+息子。
本日の講義内容は以下の通りです。
この「太子信仰」の具体的源泉は、「天平の甍」で有名な鑑真和上が来日(754年)に求める事ができます。鑑真和上といえば、日本に仏教の戒律を伝えた事で有名。しかし、もう一つあるのです。それは、『法華経』を中心とした天台法華宗を具体的に日本に持ち込んだという事です。つまり、鑑真と共に来日した中国僧、恩託(おんたく)は『上宮皇太子菩薩伝』を著し、聖徳太子を菩薩と呼んで讃えました。以来、天台法華宗は聖徳太子を『法華経』を招来した人物であり、中国天台宗の大成者である天台大師智(ちぎ)の師匠である南岳大師慧思(えし)が、『法華経』を広めるために日本にて聖徳太子として生まれ変わったのであると宣伝し教線拡大に利用しました。ですから、『太師信仰』の具体的源泉は奈良末期から平安時代末期まで、日本天台法華宗により広められたと言えます。
ここまで読んで「難しいな」と感じた人は、以下は読まないで下さい。益々難しくなります。

天台法華宗の日本における確立者は、比叡山に延暦寺を建立した伝教大師最澄(さいちょう)です。最澄は、自分は『法華経』の初伝者である聖徳太子の玄孫である事を高らかに宣言し、心を聖徳太子に寄せ、法華一乗の教えを広めようと聖徳太子に祈願しました。つまり、聖徳太子は自分にとり天台教学の始祖であると宣言したのです。
又、最澄の弟子である慈覚大師円仁(じがくだいしえんにん)も、師である最澄の影響を受け聖徳太子を敬慕しました。円仁は、苦難の中国留学をしていますが、この時の様子はマルコポーロの東方見聞録にも匹敵するといわれている『入唐求法巡礼行記(にゅうとうぐほうじゅんれいこうき)』に詳しい。この書のなかで、中国天台山の大華厳寺で、中国天台宗の座主である志遠和上(しえんおしょう)に、南学大師(慧思)が日本に聖徳太子として生まれたと語り、一同の共感を得たと書き記しています。
比叡山東塔山中にある円仁御廟・・・2010年6月に東海中仏通信生徒4名と共にお参りしました。真宗門徒からみれば、御廟の前に鳥居があるという異形の御廟ですが、この前でたたずむ時、日本に浄土の法門を取り入れた円仁のご恩を思い涙がでました。

平安初期から中期にかけて、天台宗の隆盛のなかで、『法華経』を背景して、数々の聖徳太子伝が生まれました。中でも、『上宮(じょうぐう)聖徳太子伝補闕記(ほけつき)』や、太子伝の決定版といえる『太子伝暦』がうまれ、太子伝は大幅に豊になりました。特徴は、『法華経』のなかの『観音経』に基づき、聖徳太子は救世(ぐぜ)観音菩薩の化身であると説かれ信じられるようになりました。・・・ここ大事です。親鸞聖人29歳の『六角堂の夢告』をし想起せよ!!!!
ここまできますと聖徳太子建立のお寺となれば参詣の人は倍増です。ですから各地に聖徳太子建立と称するお寺が激増・・・・(商売繁盛の基本は今も昔も変わらぬもの)
なかでも、崇仏排仏の論争に際して、聖徳太子が建立したとする四天王寺は聖徳太子のメッカとなり上下(天皇・貴族から庶民まで)の崇拝を集めました。知恵者が表れました。聖徳太子作といわれる『荒陵寺(あらはのてら)御朱印縁起(ごしゅいんえんぎ)』なる本が四天王寺の僧侶である慈蓮(じれん)により発見された。この僧が一番怪しいのですが?????なんと、この本で聖徳太子自らが、『四天王寺の西門が、西方極楽浄土の東門』にあたると宣言されたのです。こうなると、人々は西門で念仏をとなえるものが激増しました。自坊からも、こういう本が発見されないかとつくづく思います!!!
人々は、争うように四天王寺に参詣しました。それは、法王・高級貴族達も相次いで参詣しているのです。
浄土真宗寺院本願寺派寺院にかかる聖徳太子像。柄香篭をもった教養太子像と呼ばれる真宗系の聖徳太子像です。

この太子像は、裏書により西本願寺第12代准如宗主が慶長16年(1611年)に、滋賀県大津の某寺院に下付したことを記しています。裏書の形式から一般末寺に下付したものではなく、直属寺院に下付したと推測されます。色彩も豊かで一級品です。しかし、現在は藤原町の某寺院に流転しています。
今日は、ここまでの勉強でした。
次回は、藤原道長と御嵯峨上皇の太子信仰を解説します。



232000人 工房恵那(京都)さんを訪ねる旅

2014-09-04 09:25:39 | Weblog
日時 9月3日
場所 工房恵那(京都)に、仏画師の村上恵那さんを訪問
参加 住職と息子
ご本山・本願寺の宗務所地下一階にて所要あり。本日珍しくも息子と共に上山。で、ご本山にての記念写真といえばここ。今日も、親鸞様と恵信尼がにこやかにお出迎え。

実は、もう一つ上山の目的があったのです。仏画師の村上恵那さんを訪ねる旅なのです。勿論、初めての訪問。ナビが無ければ到底無理。ご本山を出発し、右折・左折を繰り返し30分ほどで工房恵那に到着。ある勝手なお願いの義がありました。花火を打ち上げるにしても、本家本元のご本人の承諾が何より大事。幸いなるかな!!村上さんは、気持ちよく承諾。後は、住職の腕次第・・・・
工房には、所狭しと大小の仏画がありました。何れも素晴らしい作品ばかりです。特大の涅槃図前でご本人の写真を撮らせていただきました。

特に、菩薩・飛天のお顔が好き。

やさしき慈愛に満ちた実にほれぼれとしたお顔なのです。

一時間余りの訪問でしたが、満ち足りた気持で帰路につきました。
往還共に、石榑峠トンネルを利用し近江八幡より名神高速を利用。往路の菩提樹PAでは、喫煙コーナーにはゴーヤにて緑の壁が・・・・今年の長雨のために日照不足にて、ゴーヤもいまいちと聞いていましたが、こちらのゴーヤはご覧の通りです。鈴なりの状態。

復路では、滋賀県側の石榑峠トンネル麓にある東近江市永源寺町政所のひろ屋さんで買物をかねて休憩。お店の玄関先が実に風流。自然の湧水をうまく利用した天然の冷蔵庫なのです。

ここで冷やせば味も格別な筈です。

あれやこれやで午後6時に帰宅しました。
このブログの訪問者が、232000人(正確には、232177人)を超えていました。いつも訪問いただき感謝申し上げます。

木地師(きじし)考

2014-09-02 23:23:36 | Weblog
8月28日、私の車は長野県木曽郡南木曽町漆畑の有限会社ヤマト小椋商店の駐車場にあった。駐車場に降り立った瞬間から、思いは時空を超えて20数年前にフラッシュバック。
20数年前にも、このお店に立ち寄っているのである。その時は徒歩であった。南木曽岳・余川峠を歩き、川筋に下山してきたのである。疲労困憊であった私達は、ヤマト商店の駐車場にへたりこんだ。ザックを枕に熟睡で大いびき(多分)。
気がつくと、粗末は作業小屋にて一心不乱に作業に専念している方がいた。興味にかれて見ていると木を削っておられるのである。しかも、木はぐるぐる回っていた。周囲には、うず高く盆・椀等が荒削りの状態で積まれている。作業の合間に質問をした。その方は、木地物をつくる木地屋と名乗られた。そして、「製作途中のこの盆をあげるよ。反ってしまったので作品にはならない」との話。有難く頂戴。帰宅後、記念にと漆塗りを業者に依頼した。それが、下写真。手前の方が大きく反っているのが判りますが木目が非常に美しいお盆なのです。今でも現役。和菓子を盛れば風流。

これが、初期真宗史のなかで、大きな働きをしたであろう木地師(山の民)に関心を持つきっかけになった出来事。お店に入り、飛び込んできたのが正面に置かれた2人挽きロクロ。

同行者に説明していると、偶然にもお店のご主人である小椋正幸さんが。小椋さんは、南木曽は漆畑木地師の正統なる後継者。明治以降、多くの木地師が転職したが、漆畑にて木地師の誇りをかけて現在も営々と続けておられる。
あれこれと小椋さんとお話。かねてより私の持論である「イタドリ」と「茗荷(みょうが)」は、野菜不足の補うために木地師が山中にて大切に育てた植物と考えている事を話してみた。そして、「イタドリ」を食べる文化が残る場所は、木地師の影響が残った地域であろうと話した。(註・・自坊周辺は、イタドリ文化の宝庫)
小椋さんは、我が意を得たりで話された。「そうなのです。イタドリ等は木地師の食べ物。」と話された。やはり、私の推論は正しかったのです。
写真・・・アイスコーヒーをいただく。

そして、一冊の本を渡された。松本直子著『南木曽の木地屋の物語』である。

副題には、なんと「ろくろとイタドリ」とあった。家に帰り、読み進むと「木地屋の美味しいもの」の項目があり、イタドリとミョウガが木地師とは密接不可分であることが書かれていたのである。(204頁から206頁)
思う事があります。私を初期真宗の世界(太子信仰)に誘ってくれたは、この「木地盆」なのです。大きく反ってはいますが木目が非常に美しい盆なのです。この「木地盆」を一体誰からいただいたのだろう?????と思うのです。
そして、夢があります。山から山に移動した木地師達。尾根道を最短距離で移動したといいます。この「木地屋の道と」もいうべき道を一度歩いてみたいのです。