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この夏に訪れ場所がわからなかった上山田温泉城山公園の更埴満蒙開拓団殉難慰霊塔に行ってきました。千曲川を見下ろす山上にありましたが移転していたのです。今は寺の境内にあります。チョッピリザンネンです。
碑文に更埴満蒙開拓団800名、1945年8月27日(敗戦から一週間後)満蒙開拓団佐渡郷において649名が玉砕とあり、その後に亡くなった方々もいますからほとんど全滅です。この碑の中に家内の叔父の名前が刻まれています。「王道楽土」って何だッたのでしょう。
この碑の関係者の方々、千曲市の方々にお願いします。ぜひホームページに残してください。観光地ではありませんが、ぜひおおぜいのかたに訪れていただきたいのです。
この夏に訪れ場所がわからなかった上山田温泉城山公園の更埴満蒙開拓団殉難慰霊塔に行ってきました。千曲川を見下ろす山上にありましたが移転していたのです。今は寺の境内にあります。チョッピリザンネンです。
碑文に更埴満蒙開拓団800名、1945年8月27日(敗戦から一週間後)満蒙開拓団佐渡郷において649名が玉砕とあり、その後に亡くなった方々もいますからほとんど全滅です。この碑の中に家内の叔父の名前が刻まれています。「王道楽土」って何だッたのでしょう。
この碑の関係者の方々、千曲市の方々にお願いします。ぜひホームページに残してください。観光地ではありませんが、ぜひおおぜいのかたに訪れていただきたいのです。
※コメント欄オープン。
私も以前携帯から投稿したのですが、カメラがあると面倒でしなくなりました。いざというときのために便利ですね。
いい旅が出来たようでよかったです
埼玉と長野は距離ではそんなにありませんが心の中の距離は長かったようですね
写真も綺麗に撮れていました
分かりやすい文章でよかったです
明日からまた埼玉で頑張れる そんな気がします
自然大好きおじさん
秋の軽井沢は唐松の紅葉もすっかり落葉して静かでした。
初秋の信州は静かです。日曜日というのに将軍塚も歴史館も軽井沢も人影がチラホラでした。
来週、上山田温泉に宿泊予定でして、掲載の碑の場所、お寺の名前を教えていただけないでしょうか。
読んでいただいてありがとうございます。
むかし家内の母に連れられてこの丘に来ました。満蒙の地で亡くなられた方の魂の安住の地にふさわしい千曲川と善光寺平、埴科郷を望む尾根の上にありました。義母の弟さん二人が眠ってます。二度目に訪れたときかったの場所から姿を消していていてわからず、千曲市のHPにメールで問い合わせてようやく場所が確かめられました。ある寺の境内に移されていました。移された経緯は知りませんでした。静かな佇まいですが千曲川が見えません。3度目に訪れたときの日記です。
前置きが長くなりました。
上山田温泉万葉橋から真っ直ぐの道を山に突き当たるまで進み山道をあがります。徒歩で30分?車で5分?
善光寺大本願別院があります。右側の駐車場の中にあります。ここでは拝観料はかかりません。
この寺のことが書いてあるHPです。
http://www41.tok2.com/home/kanihei5/tokura.html
この寺に私は寄りませんでした。
善光寺大本願別院ですか。ずいぶん怪しげなお寺ですね。移動後、碑にヘンな加工が施されてなければいいのですが。お気持ちお察しいたします。
信州に行く理由は単なる観光のつもりなんですが、職業病とでも言いましょうか。仕事で追っかけている対象に関連する場所にどうしても興味が涌いてしまうのです。長野県といえば満州開拓団にゆかり深い場所ですね。関係のある人や場所に、信州に出かけたついでにたずねてみようと思いました。しかし、開拓団関係の博物館はないようですし、碑は表立っては紹介されずもひっそりと立っている印象ですね。残念です。
TBしていただいた記事で紹介している本ですが、拙著ではなく、友人である残留孤児二世のライターが書いた本です。
子供のころ、決して学校では教えてもらえなかったことを今、自分の時間で資料をもとめてすこしずつたどっています。無念の思いで、かの地で果てた夥しいひとびとの名前の刻まれた碑の前で涙してきました。
国策とひとくくりにされてしまい、戦争のおろかしさを学べないでいる。「あやまちは繰り返さない」と誓った日本人。
わたしたち生きているおとなの責任はこうした、理不尽な死は許すことに加担してはいけないと思います
はじめて城山公園を訪れたのは義母に連れられて。城址公園なんてないとき、静かな山の上の千曲川を眺められるところにこの碑が建っていました。義母の実家は上山田の新山という傾斜地、8人兄弟の二人が開拓団に参加したようです。詳しいことは聞いていません。8人兄弟ですが中等教育を受けている方が多く(義母も高女卒)、中農の家であったと思われますが満蒙開拓の大きな波で参加したようです。王道楽土、五族協和の夢を膨らませて渡満したのではないかと思います。
それからあとはご存知のような結果です。
更埴満蒙開拓団は佐渡満蒙開拓団と合流して玉砕といえるような最後になっています。小説「大地の子」の冒頭の部分のモデル、主人公の父もこの開拓団の人かモデルがあるといわれています。
「大地の子・終わりなき旅」→http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/c/1ccb181c031fa7e5985d76ce64b1ba28
以外にいくつかのブログを書いてきました。
「満蒙開拓青少年義勇軍 長野県第7次斉藤中隊」→http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/s/%CB%FE%CC%D8%B3%AB%C2%F3%C0%C4%BE%AF%C7%AF%B5%C1%CD%A6%B7%B3
小宮山量平さんはこのようにいってられます。
・・・今更のように惜しまれる命の散華であった。せめてあの東京大空襲以前に《天の声》があったなら、欲を言えば昨秋のレイテ沖海戦の直後に、そして第二次の学徒動員の前後に、「戦争の完遂に関する声明」ではなく「戦争終結の詔勅」の如きものが発せられたら・・・
昨日は「ひろしま忌」・・・東松山市の丸木美術館に行ってきました。